魔法
『ベロベロキャンディ』とは脳神経系に作用して一時的に心身の働きを向上させ同時に多幸感をもたらしてくれる依存しないほうがおかしいほど完璧なキャンディ状の舌で溶かして楽しむ合成薬物である。
もとはワンダルコーというカッコイイ名前が着いていたのだが、廃人同然の常用者連中がこれをいつでもどこでもベロベロ舐めまわしていることから『ベロベロキャンディ』の符牒が当たり前になった。
そのベロベロキャンディをカラコロと舐めながらリザベートはタガヒコとマツスミに、彼女の手のひらの上にちょこんと乗っている水源機械についてのレッスンをつけ始めた。
「呼びかたは水源機械でも無限水生み出し機でもなんでもいいが、これ自体に水を吐き出す力があるワケじゃない。これはただの媒体だ。だが、わたしが魔法を注入するとあら不思議、水をじゃんじゃん生み出す夢のような物体になる」
三人はリザベートの家のすぐ側の砂漠に立っていた。
目の前にはブリキ製のバケツがあった。リザベートがバケツの中に乱暴に水源機械を放り込む。水源機械は直ちにぼんやりと発光し、立方体の中央に収められた球体が僅かに震えた。
するとリザベートの言葉通りに唐突に水が湧き出し始めた。
「当然だが、魔法の注入をやめれば無用の長物に逆戻りだ」
水源機械は光を失った。水は止まった。バケツをなみなみと満たしていたが、溢れることはなかった。
「わかったか?」
リザベートはタガヒコとマツスミを見た。
二人は頭上にハテナマークを浮かべて彼女を見つめ返した。
タガヒコがおずおずと手を上げる。
「要約すると、ストーニャの池は魔法の水の満ちる池ってことですか?」
「まあ……そう言ってもいいかもしれないな」
今度はマツスミが手を挙げた。何から手を付けていいかわからないって顔をしていた。「えーっと、ストーニャの魔法の池はリザベート様の魔法によって生み出されたってことですよね?」
リザベートは頷いた。
「なんのために?」
「泳ぐために」
「泳ぐため……」タガヒコは非現実的な現実に完璧に打ちのめされていたので極めてどうでもいいことを聞いた。「ちなみに、形はクロールですか? バタフライ?」
「クロールと平泳ぎだ。バタフライはできない」
「おれはバタフライできますよ」
マツスミが得意げに言った。タガヒコは聞かなかったことにして暗礁に乗り上げつつある船を無理くり方向転換させた。
「泳いだあとはどうされたんです?」
「そのまんまにしておいた。まさか砂しかないボレバリス砂漠に住み着くほどまぬけな民族がいるとは露にも思わなかったからな」
「デゥィストレア人がストーニャを築いたの五千年近く前と伝えられています。リザベート様はストーニャにわざわざいらっしゃって水源機械に度々魔法をチャージするようなことはなされていませんよね。なら、なぜ水源機械は今まで水を吐き出し続けてくれたんですか?」
「初めにあれに注いだ魔法の総量が五千年ぶんあったからだろう。なんせ一度泳ぐだけだと適当に作ったんでな。細かいところは気にしていなかった」
「はあ……」と感嘆するので精一杯だった。あまりにも一度に色んなことが起こりすぎている。ジャンキーの魔女には出会うし、瀕死になって魔法で蘇生されたし、祖国の池は元を辿ればたった一人の女のためのプライベートプールだったというし。
これはいよいよ常識に捕らわれていられない、とタガヒコは決意した。せっかく方向転換させた船を自分で転覆させるような事態は避けなければ。海はしけにしけっているみたいだが、怯むことなく舵を取って遠く離れたまだ見ぬ大地に船を上陸させなくてはならない。
オーケイ、とりあえず情報を整理しようじゃないか。
タガヒコは自分に語りかけた。
ようおれ、おまえが混乱の真っ只中にいるのはよくわかるが、ここはあえてキンキンに冷えたビールみたいにクールに行こうぜ。
まず魔法、信じられないがこれは実在する。どういう原理かは不明だ。少なくとも質量保存の法則やエネルギー保存の法則は適用されないらしい。
恐ろしの魔女、信じられないことにこれも実在する。ジャンキーでアル中で口が悪くて五千年生きてる個体名リザベート。性別はメス。動物学上では動物界脊椎動物門哺乳綱霊長目ヒト科ヒト属ヒト種にあたる。
そこでタガヒコは早くも張りぼてのクールさを保てなくなった。
……ヒト?
本当に?
「あの、つかぬことをお伺いしますが、あなたは人間なんですか?」
と恐る恐るリザベートに尋ねた。
「そうとも言えるし、違うとも言えるな」
リザベートは魔法でバケツの中の水をかき氷みたいにふわふわに凍らせている最中だった。マツスミができたての氷に頭から突っ込み、雪の日の犬のようにはしゃいでいる。
「魔法を使えるのはどうしてですか?」
「かつては誰もが使えたんだ」
リザベートは転げ回るマツスミを憐れみの瞳で見下ろした。
「なにかがあって魔法を行使する文明や人類は衰退してしまったんですか?」
「魔法はもういらないんだ」リザベートはきっぱりと言い放った。「必要なくなったから忘れ去られたんだ。それだけだ」
余計なことに首を突っ込むな、と暗に牽制する態度だった。
「こんなに便利なのに勿体ないですね!」
氷にまみれたマツスミは楽しそうだった。
コイツの図太さと環境適応能力は折り紙付きだな、とタガヒコは感心する。
「それで」リザベートは促した。「おまえたちの国にはいつ行けばいいんだ?」
「来てくれるんですか?」
「力を貸すと約束したからな」
「わざわざ足を運んでいただかなくても、ここで水源機械に魔法を注入してもらえばいいんじゃないですか?」
マツスミは立ち上がって氷の欠片を払い落としながら言った。眉をきりりと引き締めて聡明な男っぷりを演出している。
「なんでも構わないが、注入したとたんにそいつは水を吐き出すぞ。帰りの道中ずっとずぶ濡れになるけどいいか?」
「来ていただきましょう!」マツスミはすぐにいつも通りの六十点の顔つきに戻って意見を取り下げた。「是非に来ていただきましょう! 賓客として国を上げてお迎え致します!」
リザベートはバケツの中の氷を砂漠に捨てた。氷はすぐに跡形もなく溶けてしまった。
彼女は射抜くようにタガヒコを見つめた。
「水源機械についてはどこまで知れ渡ってる?」
「王室の関係者までです」
タガヒコは至極真面目に答えた。
「おまえはオウジサマなんだったよな、タガヒコ」
「ええ、はい。一応はその地位にありますね」
「なら、おまえの権限で国内の情報統制ができるな」
「えっ?」
「おまえたちの国には行ってやる。魔法で池を元通りにもしてやる。ただし、秘密裏にな。タガヒコ、おまえは」リザベートは一旦言葉を切った。「おまえは、おまえの持つ全権限を利用してわたしの存在を隠匿しろ」
タガヒコはごくりと生唾を飲み下した。
「ストーニャ王国のために、ですね?」
「ああ。もし永遠に水を生み出せる魔法の機械をおまえらの国が所持しているとわかれば、他国は容赦なく奪いに来るだろう。特に砂漠に近い国々は慢性的な水不足に苦しめられている。オボロロヒコ率いるまぬけ共が作った国家だ、どうせ近隣国に対抗できるだけの軍事力を持ち合わせちゃいないだろう?」
「うちの正規軍は五十人です」マツスミが言った。「非正規があと五十人。合わせて百人。非正規組はよく王城前で賃上げのデモしてますよ」
「それでよく独立を維持してこれたもんだな」
「ボレバリス砂漠の隅の小国なんか征服したところで使い道がありませんからね。不幸中の幸いです」
タガヒコは「了解しました」と言った。「例外としておれの両親である王と王妃、水源機械を発見したミヤリノという科学者、には真実を話させてください。それ以外の人々にはペルベドンの巣には行ったものの魔女を探し出すことはできなかったと説明します。水源機械は王室でよくよく精査した結果ただのガラクタで、水源とはまったく関係なく、池は意味不明の自然治癒力を発揮して元に戻ったと公表します。デゥィストレア人はまぬけですから簡単に信じるでしょう。いかがです?」
「異論はない」
「やりましたねタガヒコ様!」マツスミが満面の笑みを浮かべた。「これで一安心です。いやぁ良かった良かった。正直言うと心配してたんですよ。流浪の民族に逆戻りしたらおれはどこでストリップを見ればいいのかってね」