二分割のケツ
目が覚めればそこは羽の生えた太り気味の裸の赤ん坊たちが浮遊する真っ白で清潔なふわふわした天の国であった……なんてことはなく、目を覚ましたタガヒコの視界にまず映し出されたのは廃屋となんら違いないほど古びた日干し煉瓦の天井だった。
床に直接転がされていたらしい。身を起こすと腰に痛みが走った。
ここは薄暗い、正方形に近い部屋の中だ。
様々な種類のハンギングプランツが天井から吊り下げられている。床には埃を被った分厚い古書が乱雑に散らばり、クラシックなオーク材のライディングビューローの開けっ放しの抽斗にはガラス製の実験器具が雑然と詰め込まれていた。
窓は明り取りに向かない小さいのがひとつだけで、四角く切り取られた太陽の光の中で塵が自由に遊んでいた。
タガヒコはきょろきょろと当たりをうかがった。壁一面を覆う棚が目に付いた。大小色んな壜が並んでいる。壜の中身は濁っている。よく見ようと近づいて、すぐに近づいたことを後悔した。
壜の中には脱色され、ふやけきった人間の臓器があったからだ。
これは標本だ。
小型の哺乳類や爬虫類や昆虫のもあった。
そもそもダドワナ大陸中に『恐ろしの魔女には近づくな』の不文律が轟いていたではないか。実際にあの女から狂気を見てとったではないか。池の水が枯れようとも、デゥィストレア人が流浪の民族に戻ろうとも、やっぱり彼女に頼るべきではなかったのだ。
――マツスミはどうなっただろう。
タガヒコは拳を握りしめる。
食われてしまっただろうか。それとも素晴らしい標本になるためにホルマリン漬けの下処理を施されている最中だろうか。
なんにせよもう遅い。ここに来たことが間違いだったんだ。
タガヒコは自分の片隅に置かれていた剣を掻き抱いて小窓に突進した。頭は通ったが肩がつっかえた。
その衝突の衝撃であばら家は地震が来たかのように振動した。
「んえ?」
聞きなれた声が寝ぼけた調子で言った。
タガヒコは振り向く。
剣を支えにして座っているマツスミがいた。寝ていたらしい。しょぼしょぼした目を擦っている。
「あれ、起きたんですか」
彼は牧場で草を噛む牛のような体たらくさで伸びをした。
「マツスミ!」タガヒコは歓喜に声を裏返した。「生きてたのか! ああ良かった! 生きてるのか! 生きてる! おれたちは生きてるんだな! ここはどこだ? 魔女はどうしたんだ? おれは魔女にケツを向けて……それから……そうだ、とりあえずおれのケツを見ろ!」
タガヒコはワンピースを捲りあげて尻を突き出した。「割れてないか!?」
「ええ……」寝起きいちばんにむき出しのケツを突きつけられたマツスミは当惑した。「割れてますけど……その、基本的には誰でも割れてるので……」
「違うよ! 四つとか五つとかに割れてないか見るんだよド阿呆!」
タガヒコはパンツを脱いでマツスミの眼前にずいと尻を持っていった。
「ちょっと! なにが楽しくて野郎の尻の臭いなんか嗅がなきゃいけないんですか。やめてくださいよ」
マツスミはどんどん迫り来る筋肉質の尻を手のひらで押し返した。
そのとき扉のない部屋の入口に人影が見えた。
咥え煙草の魔女だった。
彼女は二人の男がくんずほぐれつする光景を見て片方の眉毛をほんの少し上げた。それから
「どうぞごゆっくり」
と小声で言って姿を消した。
「誤解ですよリザベート様!」
マツスミは針のむしろにいる気分になって、腹いせにタガヒコの尻を勢いよく叩いた。タガヒコはつんのめって床に転がった。その拍子に、雑に積まれていた本やなにかの実験器具や植物が落ちてきた。
「マツスミ……怪我人になんてことしやがる……」
タガヒコが恨みがましく言うと、マツスミは唾を散弾銃のごとく飛ばしながら「あなたは怪我人じゃないですよ。リザベート様が治癒の魔法をかけてくれたんですから。どこも痛くないでしょ」とがなった。
確かに寝違えた腰以外どこも痛くなかった。触ってみればケツもいつも通り二分割きりだった。
「そうか、おれはてっきりおぞましいことをされたんだと思って……ん? リザベート様?」
「そうです。恐ろしの魔女の名前です。リザベート様とおっしゃるんです」
「名前を教え合うほど仲良くなったのか? 魔女と?」
「色々あったんですよ」
あなたは小便まで漏らして失神してたから知らないでしょうけど、という事実は王子の名誉のため墓場まで持っていこうとマツスミは決めた。
なにも知らないタガヒコは頬を蒸気させてマツスミににじり寄った。
「まさか、まさかとは思うがおまえ、ストーニャの女で培った手練手管で『魔女め、おれがおまえの邪悪さをこの絶倫聖剣で浄化してやる! 乗ってみろ! 絶倫聖剣を抜いてみろ!』とか強引に迫ったのか?」
「まさかまさかまさか! やめてくださいよ。リザベート様に対して恐れ多い。絶倫聖剣ってなんなんですか。だいたい、あの人はあなたが考えるような邪悪で気狂いの魔女なんかじゃありませんよ」
「じゃあなんなんだ! 人のケツを思いきり蹴飛ばしやがったんだぞ!」
「ええと、なんて言えばいいのかな……ただの五千年生きてる魔法を使う女性ですよ」
「それを魔女っていうんだろうが阿呆め!」
「ちが、違うんだけど……ううん……ニュアンスが難しいな……」
「いい加減終わったか?」
度重なるアルコールの過剰飲酒と煙草の吸いすぎて参ってしまった声帯特有のいがらっぽい声にタガヒコは肩をびくつかせた。
魔女が入口の壁に背中を預けて立っていた。
「出すもん出して満足したか?」
彼女は手に持っていた火のついた吸殻を床に投げ捨て、サンダル履きの足で容赦なく踏み潰した。
まるで今からおまえらのこともこうしてやるって宣言するみたいに。
「逃げろマツスミ! おれが時間を稼ぐ!」
タガヒコは素早く剣を抜き、片腕を伸ばしてマツスミを庇った。
マツスミは苛々しながら自分の前に立ちはだかる邪魔な腕を掴み、ぐいと下げた。
「なにしてるんだ! 逃げろって!」
タガヒコは振り返らずに金切り声を上げる。
マツスミはひとりだけ必死になっている彼を無視して魔女に語りかけた。
「リザベート様、おれとタガヒコ様はそういう関係じゃないですよ。おれは根っからのストレート、おっぱいがでっかい女専門です」
「おまえの性癖はどうでもいい」魔女はひらひら手を振った。「オウジサマも元気そうだな」
「あんた、どういう魂胆だ」
タガヒコは切っ先を魔女の喉元に突き立てて問い質した。切っ先は震え、声も震え、胃も震えていたが、マツスミを守らなければならないという使命に裏打ちされた精神力だけでなんとか踏ん張っていた。
「おれの従者に妙ちきりんな洗脳魔法をかけやがったな。悪魔の手先め! 淫売の狂ったけだものめ! どうしておれたちを殺そうとした! なぜ生かした! おれたちをどうするつもりだ!?」
魔女は顔の前で人差し指を立てた。
「質問はひとつに絞れ」
タガヒコは心の底からせり上がってくる色んな疑問を口から飛び出る寸前で無理やり飲み下した。
ストライキの準備に入ろうとする脳みそのケツを、第四コーナーを回って直線に入った競走馬を鞭打つジョッキーみたいに引っぱたいて思考を巡らせた。
質問はひとつだけ。
裏を返せばひとつならどんな質問にも答えてくれるということだ。
タガヒコはたっぷり考えた。
しずしずと口を開いた。
「あんたは何者だ」
「名はリザベート」魔女は静かに言った。「世間では恐ろしの魔女と呼ばれているようだが、本名はリザベートだ。ここ――ペルベドンの巣――には五千年前から住んでいる。歳は五千歳と少し。魔法を使える。おまえたちの先祖、デゥィストレア人のオボロロヒコとは古い盟友だ。わたしはそうは思わんが世間一般的に見ればあきらかに気狂いに分類されるだろうな。邪悪な悪魔の手先というのもあながち間違いじゃない。あと、おまえたちが水源機械と呼んでいるものを作ったのはわたしだ」
「リザベート!?」
「ああ」
「五千歳!?」
「そうだ」
「オボロロヒコ様の盟友!?」
「いかにも」
「悪魔の手先!?」
「昔色々あってな」
「水源機械を作った!?」
「おまえ瀕死から生き返ってすぐにまたぶち殺されたいのか? 余程のマゾヒストらしいな」
タガヒコは口を噤んだ。
「おれも吃驚しましたけど、そういうことらしいですよ、王子。オボロロヒコ様の末裔ならばということで、今回は特別に力を貸していただけるそうです」
マツスミは石像そっくりに固まってしまったタガヒコの手をゆっくり剣の柄からひっぺがし、剣を鞘にしまった。
「よかったですね。水源機械が直ればデゥィストレア人はずっとストーニャに住み続けることができますよ」
タガヒコはギギギというオノマトペがお似合いの動きで首を捻ってマツスミを見た。
「おまえ、今の荒唐無稽にもほどがある話を信じたのか?」
「隅から隅まで信じましたよ」
極太の眉毛の下に曇りのない眼があった。
マツスミもデゥィストレア人らしくきちんとまぬけだったことをタガヒコはすっかり失念していた。
タガヒコは魔女がいるほうへまたギギギというオノマトペがお似合いの動きで首を捻った。
彼女は肩をそびやかしていた。
「信じるも信じないも全部事実だからな。おまえらが欲しいのはこれだろ。やるよ」
と言って立方体を放り投げた。
思わずキャッチしてからタガヒコは驚愕に目を剥いた。
立方体は半永久的水源保持供給機械そのものだった。
ストーニャで見つけたものは旅の途中で万一紛失でもしたら大変だからとミヤリノに預けておいたのだ。
だから、超自然的な奇跡でも起こらない限り今この瞬間この場所に水源機械があるはずがない。
なのに。
ある。
キャパシティオーバーしたタガヒコは心のままに絶叫した。