恐ろしの魔女
二人は意気消沈しながら砂丘をだらだら重い足取りで登った。気まずかった。かといって口を開けばネガティブなつまらないことを零してしまいそうだったから、タガヒコは大人しく黙っていた。
今になって魔女に投げつけられた罵詈雑言がじんじんした痛みを伴いながら精神を攻撃し始めた。
――ケツの穴に顔を突っ込んで失せろ。
――母ちゃんの直腸火かき棒で炙る。
そんなことを言われる日が来るなんて王子という華々しい人生を送っていたころには想像だにしなかった。
胃がぎゅうと絞られたように苦しくなる。
山嶺ではダイデラウマが置いてきたときそのままの姿勢で地面に座りこんでいた。しょんぼりして帰ってきた主人などいざ知らず、餌をよこせと容赦なく服を噛む。
タガヒコは自分が乗って来たダイデラウマの背を軽く叩きながら「予想に反する人が出てきたよ」と報告してやった。ウマは牛と豚の中間みたいな声で鳴いた。
「あの女まるきり頭がおかしいみたいでしたね」
マツスミはダイデラウマに馬具を背負わせ始めた。
「みたいじゃなくて、おかしいんだろうよ。おまえならこんなケツの穴みたいなところに独りで五千年も住んでいられるか?」
タガヒコは鞄からニンジンを取り出してウマにやった。
「おれには無理ですね。薄気味悪いし、パブもストリップもないし」
「接して確信したが、ありゃ噂通り、根っからの、れっきとした狂人だよ。おまけにヤク中だ。黒魔術使いで、ネクロマンサーで、アンデットで……あとはまあ色々やるんだろう。人殺しとか、それこそでっかい鴉を飼い慣らしたりとかな」
マツスミは身震いした。
「もしかすると、そのでっかい鴉は今も空からおれたちを見張ってて、おれたちが魔女になにかしようもんなら途端に脳みそをつつきにくるんじゃないですかね」
「ああ、間違いない」
とタガヒコは肯定した。
マツスミはバイブレーションみたいに本格的に震え出した。
「なんて女だ! 末恐ろしい! きっと土曜の夜にはサバトに参加して悪魔と乳繰り合うんだ! 赤ん坊を煮詰めて食べるんだ! なんて邪悪で非道なんだ!」
「最悪だ。ご機嫌をこれ以上損ねるとおれたちもデゥィストレア人のソテーになって食卓に並ぶことになるな」
「そんなの嫌だ。絶対嫌ですよ。死ぬにしたって死にかたってもんがありますよ」
「だから考えようって言ったんだ。知恵を出し合えばこのピンチを切り抜けられるさ」
タガヒコは革鞄から乾燥したナッツの入った小袋を出してポリポリ齧った。マツスミに一粒投げてやると、彼はうまくにキャッチして口に運んだ。
どこかねずみじみた動作だった。
「そうですよね。諦めるのには早いですよね。うん、確かにそうだ。国の命運がかかってる。頑張って考えますよ、おれ」
とねずみは神妙な面持ちで言った。
そして二人は考えた。
永遠ともとれる長い時間考えた。考え抜いた。
その結果得られた答えは、どうしたらいいのかまったくわからないってことだった。
だから素直に初心に戻ることにした。
父親譲りのお得意のシンプル土下座だ。
タガヒコとマツスミは魔女の家の玄関前に行儀よく正座していた。魔女は布の隙間から二人を面倒くさそうに見下ろしている。
「度々申し訳ない」タガヒコは重苦しい声で謝罪した。「ですが、先刻お伝えしたとおり、わたくしの国であるストーニャ王国が存続の危機なのです。未曾有の危機なのです。どうか、どうかお力添えをお願い申し上げます」
その言葉のあとをマツスミが引き継いで説明する。
「ストーニャは永遠に枯れぬ池のおかげで発展した国です。その池の底で水を生み出し続けていた水源機械が故障いたしました。貴女様ならば水源機械の仕組みや直し方を知っているのではないかと愚考しこの地まで参上した次第です。貴女様の叡智をほんの一欠片お与えくださるだけでストーニャ王国民はは幸福に暮らしていけます。池が元に戻った暁には、池に貴方様の名前を付け、社を立て、末代にまで貴女様の伝説を語り聞かせましょう。ですから、どうか、お助けください」
タガヒコとマツスミは予め覚えておいた台詞を淀みなく言い切れたことに満足した。そのまま、芝居がかった調子で額が焼けて爛れるほど熱い砂に顔をめり込ませた。
これで決まりだ。
魔女は目玉をぎょろりと回した。
「なあ、参考までに聞かせて欲しいんだがな、テメェらの言うストーニャとかいうところが、今までわたしになにかしてくれたのか? わたしがおまえらを助けたとして、なにか見返りがあんのか?」
「ストーニャは砂漠の小国です」予想外の質問だったのでタガヒコの受け答えが若干たどたどしくなる。「差し上げられるようなものは金にしろ食糧にしろほとんどありません。強いていえば、国民からの感謝だけです。無理を承知でお願いしていることはわかっておりますが、人助けだと思って、何卒ご助力いただくわけにはいきませんか」
「いかないね。話はこれで終わりだ。それ以上そこにいるならみじん切りにして食っちまうぞ」
「国民の命がかかっているんです!」タガヒコは吼えた。「七千五百人を死なせるわけにはいかないんです。あなたの慈悲の心を、施しを、ほんの少しで構わない。私の民に分け与えていただきたいんです」
「慈悲?」
魔女は口の端を精神異常者みたいに吊り上げて嗄れた声を引き攣らせた。それが彼女なりの笑い声らしい。
彼女は足を広げてしゃがみこみ、タガヒコの頭をむんずと掴んで無理やり顔を上げさせた。
「そんなもんは最初に殺したやつの隣に生ごみと一緒に埋めちまったな」また嗄れた声が引き攣った。「打つ手なしだな。さあどうするよ、オウジサマ」
魔女は目を細める。
身動きが取れなかった。圧倒的な強者への怯えからくる震えは指先から始まり背骨まで達した。全身の毛穴から出た冷汗は衣服をしっとりと濡らしていく。拳を握りしめた。歯が勝手にガチガチいった。
魔女の目は赤く、どこまでも赤く、今まで屠った人の血に濡れたような苛烈な赤だった。
タガヒコは消え入りそうな声で「お願いします」と口にした。
魔女は彼の頭を離し、つまらなさそうにまばたきした。
「断る。生憎自分から畜生みたいに頭を垂れる腰抜けどもにかける情なんか持ち合わせてないね」
「貴様ァ!」マツスミは震える膝を無視し、身体中の勇気を使い尽くしていきり立った。「黙って言わせておけばこの野郎! この方は己の国と民を憂いてわざわざこんな地の果てくんだりまで来て頭を下げているんだ! それをこの野郎! 魔女だかなんだか知らねえがもう我慢ならない! この方は、この方は、腰抜けなんかじゃない! 勇気に溢れる偉大なるストーニャ王国第一王子だ! もう貴様などには頼まない! おれの命と引き換えになるとしてもおまえをぶち殺してぶち転がしてぶちのめしてやる! ぐちゃぐちゃになって死ね!」
「馬鹿が! すぐに挑発に乗るな!」
と注意するタガヒコは地面に這いつくばったままだった。
「しかし……王子……」
「魔女様、この従者は正真正銘のまぬけにございます。どうかご無礼をどうかお許しください」
「いや、許せないな。従者の失敗は主の責任だよな。だからおまえ、ケツを向けろ」
魔女はタガヒコに向かって言った。
「えっ?」
「いいからケツを向けろ」
とせっつかれる。
「あのう……お気に障らなければ、なにをされるかお聞きしてもいいですか。まさかケツの穴に手を突っ込んで直腸引っ張り出したりしませんよね?」
「そしてその直腸を生き血が着いたまま喰らったり、悪魔召喚の儀式の生贄にしたりしないよな?」
とマツスミが余計なおぞましい具体例を付け足した。
「だァれがおまえの糞の詰まったモツなんぞ食うか。いいから早くケツを向けろ」
タガヒコはまごついて、壊れかけの機械人形みたいなごわごわした動きで後ろを向き、尻を突き出した。多分これから想像を絶する恐ろしいことが始まるんだろうが、それが少しでも痛くないといいな、と思った。
「ええと、魔女様、あの、なにを」
言いきらないうちに尻に衝撃を感じた。尻というより全身に、といったほうが正しい。魔女がタガヒコの尻に気持ちのいい音を立ててミドルキックを入れたことにより、彼の体は普通とは逆の方向に二つ折りになっていたからだ。彼はねじ曲がったまま地面と平行に飛び、盛り上がった砂にめり込んで静止した。
「タガヒコ様ぁ!」
マツスミが大慌てでタガヒコのもとにすっ飛んでいく。
タガヒコは白目を剥き、口の端から血液の交じった唾液を零していた。小便まで漏らしている。
「あんためちゃくちゃやってるぞ!」
マツスミは魔女に向かって怒鳴った。
「わたしは静かにここに住んでるだけだ。なのにおまえらはあーだこーだ言ってわたしのこじんまりした暮らしを邪魔しやがる。当然の報いだよ」
魔女は非道な目で二人を見つめた。
マツスミは鞘から剣を抜いた。
覚悟を決めた。ここで相打って死ぬ覚悟だ。
マツスミは確かになにをやらせても六十点止まりの男だったが、タガヒコと王室に対する忠誠心だけは百点満点だった。
頑張れマツスミ、と自分を鼓舞した。ここで勇気を出さなきゃどこで出すんだ。あの世で出したってもう遅いんだ。タガヒコをみすみす殺されておいて、彼の死体を持って国になんか帰れるはずがない。
ストーニャ王国とデゥィストレア人の誇りにかけて。
「ストーニャ王国とデゥィストレア人の誇りにかけて!」
雄叫びを上げ、マツスミは魔女に斬りかかった。半歩踏み出したところで突風のようなものが足に激突した。マツスミはバランスを崩して顔から砂に突っ込んだ。
「デゥィストレア人?」
魔女は呟いた。
マツスミは口の中に入った砂を吐き出して瞬時に立ち上がる。
「おれはこんなところで死なない! 国のみんなの運命がおれにかかってるんだ! タガヒコ様の仇は必ず討つ! だから、ええと、おれは、あんたを、殺す……そうだ、あんたを殺さなきゃいけないんだ!」
マツスミは最早自分でもなにを言っているのかわからなかった。
魔女は顎に手を当てて難しい顔をした。
「いや……待て、デゥィストレア人なのか、おまえら」
「黙れ! みんな馬鹿にするけれどデゥィストレア人は歴史ある素晴らしい民族なんだ。ストーニャだって住めば都なんだ。オボロロヒコ様、どうかわたくしめにお力をお貸しください。あなたの民を救うための力をお与えください。魔女よ! おれはまだ闘える! 腕一本でもおまえを殺してやる! 殺したあとは死体を引きずり回して、殴ったり蹴ったりしてやる! 細切れにして豚に喰わせてやる! 地獄でも酷いめにあわせてやる!」
「おまえらわたしに池の水をどうにかしてほしくて来たんじゃないのか。わたしを殺しちまったらどうにもしてもらえなくなるだろう」
「そ、そうだけれども! けれどもだ! おれは主を殺されて黙っているようなまぬけじゃない!」
「声がデカい。ちゃんと聞こえてるから普通に話せ。あと、そいつ……タガヒコとか言ったか? 死んでない」
「嘘だ! 白目剥いて小便垂らしてるじゃないか!」
「そんなに簡単に人は死なん。ところでさっきオボロロヒコと言ったが、あいつは息災か?」
「馬鹿め、オボロロヒコ様は何千年も前の英雄だ。昔話の絵本に登場するような偉大な方だ! 生きているわけがないだろう。さあ愚かな嘘つき魔女」と言いながらマツスミは立ち上がった。「戦いの続きだ。負ける気がしない」
彼は言葉通り俄然無敵な気分だった。生命の危機を感じ取った彼の脳がドーパミンやアドレナリンやセロトニンやエンドルフィンといったあらゆる脳内伝達物質を過労死寸前の超スピードでせっせと合成し始めたからだ。
彼は剣の柄を両手でぎゅっと握りしめ、もう一度魔女に斬りかかった。
「そうか、オボロロヒコは人間でいられたものな。あいつはいいやつだった。あんなにまぬけになってしまったのが悔やまれる」
魔女は遠い目をしてぶつぶつ言いながら、マツスミの剣を親指と人差し指で挟んでびたりと止めた。彼女が指を捻るように力を込めると、剣は容易くぽきりと折れた。
砂漠に一陣の風が吹く。
決着は付いた。
マツスミは泣いた。
守れなかった。仇を取れなかった。ちくしょう。なにもできなかった。なにも成さないまま殺されるのだ。生まれてやったことと言えば、お袋の乳首を吸って、酒を飲んで、可愛くもない女の乳首を吸って、パンツを引きずり下ろしてぐしょぐしょやって、それだけだ。ちくしょう。
マツスミはうなじをさらけ出すようにして魔女の足元で膝を折り、また覚悟を決めた。
今度のは殺される覚悟だ。
「タガヒコ様! あの世でお会いしましょう……!」
魔女はあからさまに辟易した。
「ひとの話を聞かないことに関しては天才的だな、おまえ」
「黙れ! ひと思いに殺せ! 情けなどかけられたくもない! 卑しい魔女め!」
「本当にうるさい。無駄口叩いていないで小便垂れのオウジサマを連れて着いてこい。死んでないと言ったが虫の息だ。内蔵と骨とその他もろもろやっちまったから治してやる」
と言って彼女は背を向け、お粗末な家の中に入っていった。
マツスミは涙と鼻水と汗でびしょびしょに濡れた顔を上げて「へ?」と言った。