旅路
旅の進路は北西へまっすぐ、ペルベドンの巣まで最短距離で取った。この旅の唯一の美点を上げるならば、見渡す限りの砂漠を進行するので迂回すべき山や崖が存在しないことだ。羅針盤の通りに進み、夜になれば星の位置を見て明日の進行方向に多少の修正を加える。あとは飯を食って眠るだけだ。
砂漠には人間の生命を脅かすほどの大型肉食獣はいない。毒を持った昆虫や小型の爬虫類ならいたが、デゥィストレア人は長い放浪の賜物としてそういった小さな生物の毒への耐性を持っていた。
だから歩哨も立てずに毎晩ゆっくりぐっすり眠れた。
二人はすぐに暇を持て余した。
行けども行けども代わり映えしない風景に、何回見ても隣に並ぶのは同じ男の顔。しかもその男とは寝るときも食うときも糞を垂れるときも一緒ときた。
おかげで元々乏しかった話題もついに尽きてしまった。
長い旅路だ。
ひとりじゃなくて良かったと思う反面、お互いの存在が次第に耐えられないほど疎ましくなってくる。なんで隣にいるのが見慣れた男で、美人でとびきりの乳と尻をもった女じゃないのかと不満がつのる。
タガヒコが鼻持ちならないのはマツスミの顔だった。なんでこいつはこんなに眉毛が太くて濃いんだ。なんでこいつは大して整った顔立ちでもないのに女を取っかえ引っ変えできるんだ。おれは一度たりとも女とソウイウコトをした試しがないのに。
マツスミが鼻持ちならないのはタガヒコが息を吐くように漏らす弱音の数々だった。タガヒコの虚勢は一日と持たなかった。ストーニャを出発して七日が経とうとしていたが、日を追うごとにタガヒコは腰抜けになった。
「おれたちはきっと死んじまう」「魔女に殺されるんだ」「水源機械がなんだってんだ。いますぐうちに帰りたい」
とかなんとか、ぶつぶつネガティブなことを呟いては勝手に胃を痛めて腹を下す。
二人の間にはいつの間にか膨らみすぎた風船のような緊張が張りつめ、まさに一触即発の雰囲気だった。
八日目の朝。
いつも通り調子づいた太陽は地平線から出勤するとその仕事ぶりを全世界に見せつけるように意気揚々と地上を照らし出す。
空には爛れた真っ赤な朝焼けが広がった。空から漏れ出た赤は砂漠までもを犯し砂を鈍い赤褐色に染め上げる。
タガヒコとマツスミはのんびり起きてダイデラウマに餌をやってから朝食をとることにした。
朝食のメニューはヤギの干し肉と乾燥したパンとドライフルーツだ。
マツスミはそれらをダイデラウマに括りつけた革の鞄から手早く取りだして木製の皿の上に乗せた。
タガヒコは物言いたげだったが、マツスミはあえて無視して干し肉に手を伸ばした。タガヒコは干し肉をつまみ上げて落とす。つまみ上げ、落とす。落とす。落とす。
根を上げたのはマツスミだった。
「なんなんですか? なにを仰りたいんです?」
「飽きたよ」タガヒコは憤慨していた。「ここ一週間ずっと干し肉と干し魚とカラカラのパンとドライフルーツと腐りかけの水ばっかり食ってるぞ。そろそろおれが干し人間になってもおかしくないな」
「そうならないために乾物食べて水飲んでるんです」マツスミはまなじりを決して反発した。「これは長期保存食で、これ以外のものはすぐ腐っちゃうから持ってきてないんですよ。これしかないんです。気に食わないなら自分でなんか採ってきたらいいじゃないですか」
「おまえの目は節穴か? こんな砂場でなにが採れるっていうんだ? 新鮮なフルーツか?」
マツスミは両手を上げて肩を竦めた。
「せいぜいサソリやヘビ、よくてネズミでしょうね」
「そんなもん食えるか!」
「じゃあ一体なにを食うって言うんです? 蜃気楼の木になる新鮮なフルーツですか? 沢山ある砂ですか? 砂食って自分の小便飲むんですか? どうぞご自由に。その試みが成功した暁には完全に砂漠に適応した新しい人種になれますよ」
タガヒコは唇を噛んだ。
マツスミは食事に戻った。
タガヒコの拳がマツスミの横っ面に叩き込まれたのはその直後だった。
二人は幼い頃から今まで数えきれないほど喧嘩した。だからマツスミにはタガヒコが本気で殴ったわけじゃないと容易に理解できた。
けれど、殴られたのは事実だ。
殴られたら?
同じぶんだけ力を込めて殴り返す。
めそめそ泣き自分が悪くもないのに頭を下げてごめんなさいと戯言を吐くのは弱さに甘んじることであり、下劣な卑怯者のすることだ。
例え適う望みのない猛者が相手でも、やれるところまでやれ。
でも死にそうになったら方向転換だ。
めそめそ泣いて頭をできるだけ低く下げてごめんなさいをする。
それがデゥィストレア人の単純明快な教育方針だった。
純粋デゥィストレア人のマツスミは両親と御先祖の教えを忠実に守った。
「このクソッタレ! なにすんだてめえ!」
と瞬時に爆発しながら、タガヒコの肩に多少の手加減を加えた右ストレートをぶち込んだのだ。
純粋デゥィストレア人の由緒正しい血統であるタガヒコも爆発し返した。
「誰に向かって口聞いてるんだクソッタレ! おれはおまえの雇い主だぞクソッタレ!」
「んなこと知るかクソッタレ! クソッタレにクソッタレって言ってなにが悪いんだ! わがまま言うだけでなんにもできねえ甘ったれの弱虫童貞坊ちゃんがいきり散らかしやがって! かかってこいよクソッタレ、ぶちのめしてやる!」
この言葉はタガヒコにクリーンヒットした。
詳細に述べるなら『わがまま』、『なんにもできねえ』、『甘ったれ』、『弱虫』、『童貞』、『坊ちゃん』という単語が特に酷くプライドを傷つけた。
タガヒコは怒髪天を衝き、マツスミにヘッドロックをかけた。マツスミはタガヒコの腹に何発も膝蹴りをおみまいした。そのうちの一発が奇しくもタガヒコの金玉にがっちり噛み付いた。
タガヒコは人が出せる中でもっとも動物に近い声で鳴いたが、マツスミの頭に回した腕だけは解くまいと血の気が引いた顔で奮闘した。
そのあとはもうしっちゃかめっちゃかな大乱戦になり、二人はもつれ合ったまま砂丘を転がり落ちた。
腰を落ち着けたまま二匹の猿の痴話喧嘩を見守っていた酷く不細工なダイデラウマはひときわ不細工な低い声で鳴いた。
彼らの言語をわたしたちにわかるように翻訳するならこうなるだろう。
『まったく人間というのは野蛮で賎しい種族だね。女や食物や縄張りを取り合うためでもなく趣味で殴り合うなんて』
もう一匹のただ不細工なダイデラウマは同族が零した嘆きを一寸足りとも聞いていなかった。主人たちがぶちまけていった朝飯を主人たちが冷静になってここに戻ってくるまでにすべて胃に押し込むことへ全身全霊をかけて挑んでいたからだ。
タガヒコとマツスミは丘陵の底に仰向けになって横たわり、息を弾ませていた。そこらじゅうが痛かった。ダイデラウマの言葉通り、この喧嘩で得たものはひとつもない。無駄に体力を消耗しただけだ。
しかし二人は体を動かしたことでなにかに満足した。恐らく青春とか友情とか呼ばれる実態のないふわっとしたものだろう。
寝転がったまま青い空を流れていく真っ白な巨大な雲を眺めていると、タガヒコの脳裏にふとある考えがちらつた。
――こんな人生も悪くないんじゃないか。
両親はまぬけなりにたっぷり愛情を注いでくれたし、マツスミという愉快な親友がいる。ストーニャは緑豊かで、水がうまく、国民は陽気で、なにより王子という身分だった。これから魔女に釜茹でにされるなり脳みそを啜られるなりしたとしても、まあまあの人生だったと言えるんじゃないだろうか。
タガヒコはゆっくりと目をつむった。
マツスミは額に浮き出た汗を拭い、緩慢に上半身を起こした。
「ねえ王子、この際聞いてみたかったことがあるんです。無礼に当たるのは承知の上ですけど」
「なんだよ」
タガヒコは目を開けてマツスミに一瞥くれた。
「王子は王妃様に似てなかなかの美男じゃないですか。陛下譲りのカールした黒髪も甘いマスクに似合うし、それだけでいくらでも女が寄ってくるでしょ。なのに、なんで童貞を貫いてるんです?」
「本当に無礼だな」
タガヒコは暫くの間沈黙した。そして「お前が言ったとおり弱虫でおまけに意気地無しだからだろ」と結論付けた。
「ガツンといけばいいんですよ。女はちょっと強引に迫られるくらいのほうがグラッとするんですよ」
「おまえはいつもそんなふうにやってるのか?」
「ええ、まあ……」
マツスミはへらへらはにかんだ。
「その手口で何人誑かしたんだ?」
「ええと、十人と少しくらいですかね。勝率は五分ってとこです」
「死んじまえ!」
「怒ることないでしょうよ。おれは王子がその顔を持て余してることのほうが問題だと思いますよ」
「だって……だから、弱虫なんだよ……その……つまるところ自分に自信がないんだろうな。おまえのように迫って嫌われたらどうしようと……嫌われて酷いことを言われたら、もう一生立ち直れん……考えるだけでも石を飲み込んでしまったみたいに胃が重くなるよ……」
「相変わらずナイーブですねえ。うちの飼い猫だって去勢されて玉無しだけどそんなに女々しくないですよ」
「うるさい。繊細なんだよおれは。おまえみたいな図太さが服きて歩いてるような連中にはこの高尚な苦悩はわからんだろうな」
「高尚って。……童貞を捨てられないって悩みほど低俗でありふれてる悩みはないでしょうよ」
そこまで言うと二人は顔を見合わせて笑った。笑い声は段々大きくなり、二人は腹を抱えて転がり回り、世界中の笑いを使い尽くせんばかりだった。
笑うのに疲れると、二人はまた仰向けになって横たわり、腹の上で腕を組んで空を自由に渡る鳥を眺めていた。なにもやることがない砂漠では、時間が進むのが相対的に遅い。
タガヒコは自由だった。今は王子という身分からも、デゥィストレア人という民族からも解き放たれている。
太陽の灼熱の光すらも心地いい。
どんな結末が待ち受けていようとも、今ならば、本当に悪くない人生だったと自信をもって断言できる。
マツスミは立ち上がり、服に着いた砂を払ってからタガヒコに手を差し出した。
「タガヒコ王子殿下。魔女になにをされようとも、おれは兵士として、いや、友達として、最後まであんたを守り抜きます」
彼らしくないいやに真剣な口調だった。
「知ってる」タガヒコは彼の手を取った。「わざわざ言わなくてもわかってるよ。おれたちは親友だもんな」
タガヒコも真剣な口調で答えた。
「はい。地獄の底に追いやられたって変わらずおれたちは親友ですよ」
「うん……そうだな……うん」
タガヒコは唇の両端をきゅっと結んで泣くまいとした。
二人は砂丘を登り、ダイデラウマの元に戻った。
朝飯は行方不明になっていた。