半永久的水源保持供給機械
「父上、よく聞こえませんでした。なんですって? もう一度お願いします」
タガヒコは聞き間違いであってくれ、と願いながらザグナヒコの奇妙に渦を巻いたつむじを見つめた。
ザグナヒコは顔を上げなかった。食いしばった歯の間から呻くようにして
「おまえに死んでもらうことになるやもしれん」
とそっくりそのまま先程と同じ台詞を言った。
今度こそ鳩尾に氷の弾丸をくらったかのような衝撃を受けてタガヒコは足をもつれさせ、床に倒れ込む寸前でマツスミの肩に手をかけた。
マツスミは砂になって飛んでいきそうなほど狼狽したタガヒコを支えてやりながら、どうして王子はオカマみたいに薔薇の香りなんかさせているのだろうと場違いな疑問を持った。
「それはつまり……」タガヒコは砕け散りそうな声で言う。「どういったことで……つまり……ええ、なぜ……」
「つまり、池の水が枯れるのだ、我が息子よ」
タガヒコは視線を右往左往させた。彼の表情筋はどんな表情を作ろうとしても失敗したので口を半開きにしたところでストライキに入った。
マツスミの肩に置いた手に知らずのうちに力が入り、忠実な従者は「いてててて」と苦痛に喘いだ。
「ええと、すいません。なんですって?」
タガヒコはまた問いかけた。
「だから、池が枯れるのだ!」ザグナヒコはやけくそになって謁見の間に木霊するほどの大声で怒鳴り始めた。「池が枯れる! 水位が日増しに下がっている! このままじゃすぐに水が底をついてデゥィストレア人はかぴかぴの干物になって絶滅する!」
「はあ……」
「はあ? はあだと?」ザグナヒコはすっくと立ち上がり両手を振り回しながらタガヒコに詰め寄った。「ことの重大さをわかっているのか? わかったうえで呑気に『はあ』なんて言ってるのか? おれたちはまた流浪の民族になるかもしれないんだぞ!」
人間は不思議なもので、一時的にどんなに混乱していようとも、自分よりも混乱している他の人間を見るとおのずと冷静になる。今のタガヒコがまさにそうだ。彼は実父より下された死刑宣告から驚異的な早さで立ち直りつつあった。
「落ち着いてくださいよ、父上。まず説明してくださいよ」
「しただろう! 池の水が枯れる! わかるか! 枯れるんだ! するとどうなる? これもさっき言った通り! 流浪の旅人に逆戻りか絶滅だ!」
「それはわかりました。よくわかりました。しかしおれが欲しているのは、池が枯れるのはなぜかとか、池の面積や体積の調査はしたのかとか、池が枯れることとおれの死の関連性とか、そういう、一歩踏み込んだ疑問への答えです」
ザグナヒコは確かに息子の疑問はもっともだと感じ、巻き毛の黒い髭をゆったりと撫でて体を支配している興奮から距離を置こうと努力した。彼が再び口を開こうとしたとき
「池の調査はミヤリノがしてくれましたよ」
と凛とした声が言った。
声の主はちょうど謁見の間の扉の前に姿を現したところだった。豊かな栗皮茶の髪、巨大としか形容できない体から零れ落ちそうな胸、スリットの入ったクリーム色のワンピース。スリットから時折ちらちら覗く足は引き締まってすらりとのびている。
「母上」
「コウコ王妃陛下。本日もご機嫌麗しゅうございます」
タガヒコとマツスミは同時に言った。コウコは黒い瞳に茶目っ気のある笑みを浮かべて「おはよう、タガヒコ。マツスミ」と挨拶を返す。完璧な笑顔だった。マツスミは鼻の下をだらしなく伸ばす。
コウコはミュールの踵の音を響かせながら玉座まで真っ直ぐ歩いていった。
マツスミがごくりと唾を飲み下した。
「おい、人の母親で変な想像するな」
タガヒコが咎めると、マツスミは言い訳がましい顔つきになった。
「だって、コウコ様のあの足すんごいんですもん。とんでもない足ですよ。うちのお袋なんか豚足と見分けがつかなくなってるぐらいなのに」
「おまえの主人が死刑を宣告されてるときに主人の母親でマスかいてる従者があってたまるか! クビにするぞ!」
「いやあ、冗談ですよ王子。そんな不埒なこと一瞬たりとも考えてませんって」
マツスミは調子よくはにかんで床に片膝を着き、姿勢を正した。タガヒコもそれに習う。
コウコは玉座に腰掛けると魅力たっぷりに足を組んで手に持っていた扇子を開き、尖った顎のあたりを扇ぎながら二人を見下ろした。
「それで、話はどこまで進みました?」
並の男ならすくみ上がるほどの美貌が煌めいている。
とんでもない女だ。
マツスミは駄目だとわかっていながらもコウコとひょんなことからどうにかこうにかなる妄想を再開するほかなかった。
タガヒコは軽蔑の眼差しをマツスミに投げかけ、それでもなおうっとりしている彼の足の先を強めに踏みつけてから答えた。
「父上には池が枯れるとだけ聞きました」
コウコは夫を呆れ顔で見つめた。
「あなた、少しは仕事をしてください」
「したよ」ザグナヒコは年端のいかない少年のように薔薇色の頬を膨らませた。「でもこいつが話の腰を折って」
「あなたが癇癪を起こしたんじゃなくてですか?」
「ちがっ、う、と思う、けど」
コウコは溜息をついて顔と同じくらい美しく、しなやかな指で扇子をぴしゃりと閉じた。
「まあいいです。ここは不問にいたしましょう。ザグナヒコ様の代わりにわたくしが説明します。タガヒコもマツスミもよく聞きなさいね。話は一週間ほどまえに遡ります」
一週間前、初めて異変に気がついたのは意外や意外、ザグナヒコ王本人だった。
彼は王城に隣接する五階建ての塔に自分の書斎を持っている。書斎といっても、彼は生まれてこのかた幼児向け絵本以外の活字なんて読んだことがないし、教養という言葉を聞くだけで全身に虫唾が走るたちだったので、その部屋はもっぱら私室として寝起きにつかっていた。
自分でも説明できないが、なぜか子供の頃から煙と同じで高い所が好きなのだ。
塔の最上階から見るストーニャの街並みは美しいとは言えないまでもまあまあ満足いくものだった。砂丘も地平線まで見渡せたし、ストーニャ唯一の巨大な青の池の透明さも独占できた。彼は池を愛していた。単に美しかったという理由もあったが、加えて池はまったく理解不能な原理で水を湧き出し続けてくれるからだ。
デゥィストレア人がこの地に住み着いてからもうすぐ五千年になるのに、池は一度たりとも水位を変えず、温度を変えず、面積を変えずに存在し続けた。どれだけ飲んでも、体を洗っても、便所を流しても、池は透明度の高い水を湛えたままその静謐さを頑として崩さなかった。
まるで魔法がかけられているみたいだった。タガヒコは池を見つめながら毎晩酒を飲んだ。たまにコウコを見つめて飲んだ。甲乙つけ難いな、と彼は思った。どっちも同じくらいいい女だ。
そんな矢先。いつものように池を見て酒を煽っていると、その形が見慣れたそれと少し違うように感じられたのだ。違う、というか、なんだか小さくなっているような。けれど、そんなはずはないと即座に考え直した。五千年間同じ形だったものが、一日二日で変わるはずがない。ザグナヒコは酒のせいで目が回ったのだと決めつけてベッドに潜り込んでしまった。
次の日、いまいましい朝日に瞼を嬲られて叩き起された彼は窓から見た景色に愕然とした。やっぱり池が小さくなっているのだ。日増しに小さくなっている。
こうしちゃいられない。
ザグナヒコは空飛ぶ屑鉄造りのミヤリノを城に呼びつけた。
空飛ぶ屑鉄造りというのはミヤリノに付けられた渾名である。
ミヤリノは王家の遠縁にあたる老人で、現生デゥィストレア人においてただひとりまぬけではない人物だった。彼は相対性理論を理解出来たし、量子物理学を勉強するのが趣味だったし、優れた精神分析医でもあった。副業で内科、外科、精神科の医者をやりながら、本業では空飛ぶ鉄の鳥の設計をしていた。なぜ鉄の鳥を空に飛ばしたいか、自分自身を精神分析にかけてみても納得のいく答えはでなかったが、とにかく飛ばしたかったのである。
まぬけなデゥィストレア人はもちろん彼の壮大な計画をいっぺんたりとも理解できなかった。
彼が一生懸命に屑鉄を寄せ集めていじっている場面に出くわすと首を捻って
「あんた、なにしてんだい?」
と聞いた。
「もう少ししたらこいつが空を飛ぶのさ」
とミヤリノは教えた。
「屑鉄がか? そんなわけあるかい。そんならおれはケツの穴からカバ生んでやらあ」
「でも飛ぶのさ。おれの遺伝子がそう言ってる」
「イデンシってなんだい、爺さん」
「失せろ馬鹿め! うすのろ! 昼間から酒ばかり飲みおって、このあんぽんたん! 少しは知的活動をしろ!」
ミヤリノはこんな調子で突然怒りだすので、街の人は彼を腫れ物扱いし『空飛ぶ屑鉄造り』の渾名を与えたのだ。
閑話休題。
王城に呼びつけられたミヤリノは居心地悪そうに応接間のマホガニー製の硬いソファに腰を下ろしていた。目の前にはザグナヒコとコウコが並んで座っている。ザグナヒコは爪を噛み、頭を掻きむしり、貧乏ゆすりをして、精神分析医でなくとも簡単に普通の精神状態でないことが見抜けた。
彼はあわあわするばかりでなにも話さなかったため
「話とはなにかね」
と老人が火蓋を切った。
「あんたに調べて欲しいことがあるんだ」ザグナヒコは貧乏ゆすりを止めない。「池の水位とか、面積とか、体積とか、そういうものを。あんたは毎年趣味で調べてるんだろ?」
「ああ、まあな。あの池は本当に不思議なんでね。普通砂漠のオアシスというものは近くの山脈の雪解け水なんかが地層深くに染み込んでいく過程で作られる帯水層を通ってたまたま湧き出した場所にできるんじゃ。だから積雪量や天候によって水位に変動が見られるはずなのにあの池に限ってはいつでも同一値なんだ」
「待った」
ザグナヒコは片手を老人の眼前に突き出した。なにを言っているか一切理解できなかったのである。
「ここでは、その、そういう形式ばった話はしなくていいんだ」と誤魔化しながら「おれが知りたいのは池の水が減ってるんじゃないかってことだけだ」
「えっ?」
「どうも池の形がおかしいんだよ。小さくなってる気がするんだ。池の形が変わるなんて話聞いたことあるか?」
「そりゃあ普通の池はしょっちゅう変わるがね。あの池に限ってはないと思うな」
「おれもそう思ってたよ。でも明らかに小さくなってるんだよ、爺さん。王室からのお願いだ。早急に調査してくれよ」
「構わんが」ミヤリノは白髪頭をかいた。「もし本当に小さくなってたら陛下、あんたどうするつもりだい?」
ザグナヒコは厳しい顔で沈黙した。ぶつぶつと聞き取れないほどの声で「生贄」だの「雨乞い」だの呟く彼をミヤリノは心底軽蔑した。そんなもので救われるなら今頃全人類が永遠の幸せと春を謳歌しているだろう。
ミヤリノは野蛮人みたいな王様は放っておいて早速池の調査に乗り出すことにした。調査の結果、去年よりも現在のほうが明らかに水位が低いことがわかった。大発見だった。この池も完璧じゃないということだ。ミヤリノは常々なぜこの池がここに存在しているのか疑問視していたのだ。
北の山脈の雪解け水が湧き出すにしてはここは遠すぎるし、雨水が溜まって出来たのならなぜ土壌が砂なのに地下に浸透せず留まっていられるのか。
彼は知的好奇心を擽られ、御歳七十という老体を無視してお手製の屑鉄酸素ボンベを背負い池にダイブした。
そして、底で見つけたのだ。
立方体を。
その立方体は支柱だけで出来ており、面にあたるものはなかった。支柱の中には完全で透明な球体が収まっていた。球体は驚くべきことに百パーセント水で構成されている。それなのに球体という形を保っていられるのだ。これが水を供給していたエネルギー源に違いなかった。
ミヤリノは歓喜に打ち震え、これを半永久的水源保持供給機械と命名して(しかしこの名称はデゥィストレア人にとってあまりにも長いので単に水源機械と呼ばれた)池の水位、面積、体積の変動結果をまとめた報告書とともに王室に持っていった。
ザグナヒコは応接間のソファにだらしなく座って手に収まるほどの立方体を矯めつ眇めつしながら
「このおもちゃみたいなのが故障したから池が小さくなったってことか?」
と能天気さ丸出しで言った。
「このあんぽんたん!」老人は怒りをぶちまける。「これがなにかわからんのかね! 王ともあろう者が、これの凄さが一ミリもわからんのかね! これは水源そのものであり、半永久機関であり、オーバーテクノロジーであり、もしかするとエム境界以前に栄えた古代文明の置き土産かもしれんのだぞ!」
「古代文明って……なんの夢物語だよ。ファンタジー小説かなんかの読みすぎじゃないのか?」
ザグナヒコは興味なさげに水源機械を放り出した。ミヤリノは慌てて受け取りながらもう一度「あんぽんたん!」と糾弾した。
「これが壊れた、あるいは力を失ったということはだな、あの池はもう水を供給されないということだ。ストーニャ国民がこの調子で水を使い続ければ近いうちに池は枯れて無くなり砂漠になるということだ。わかるかこのでれすけ! デゥィストレア人は流浪の旅に逆戻りだ!」
ザグナヒコは弾かれたように立ち上がった。
「それはまずい。まずい。非常にまずい。そうだよな、爺さん」
「そうだ! なぜわかり切っていることを何度も言うんだ! なぜおまえのような男が王なんぞやっとる! どうするか考えろ!」
「そんなこと言われても……どうすればいいのかさっぱり……直してもらおうにもこれを作ったやつに心当たりなんてないし……」
「まあ……それは、そうだがの」
二人は俯いて黙っていた。
五千年、あるいはそれ以上昔にここに水源機械を設置して池を作り出した人物。普通に考えればその人はもう死んでいるだろうし、池を作っておいてそこに定住しなかったということは、水源機械を大したテクノロジーとも考えていないほど発達した文明を持っていたことになる。
それはダドワナ大陸の歴史と矛盾した。ダドワナ大陸に文明と呼べる規模の人間の大規模集落が現れたのはだいたい五千年前のことだからだ。
それ以前の古代の人間文明に関しては、断片的な風習や口頭伝承、たまに地層の深くからひっくり返って出てくる石版に刻まれた文字くらいのものしか伝わっていない。
「ひとつだけ」老人は言いにくそうに口にした。「魔女ならなにか知っておるかもしれん」
「魔女?」
ザグナヒコは凛々しい眉毛を持ち上げて顎髭を触った。なにを言い出すんだこの耄碌爺は、昔からおかしいと思っていたがとうとう呆けが始まったのか、とザグナヒコは心中密かに考えていた。
「魔女って、あんたまさかペルベドンの巣の恐ろしの魔女のこと言ってるのか?」
「そうじゃ。彼女に聞けばなにかわかるかもしれん。解決は出来なくとも、このテクノロジーを知っているかもしれん。なんせあの魔女は五千年生きとるらしいからの」
「よりにもよって恐ろしの魔女か……一応お隣さんにあたるが……国交というか、そんなものは一切ないし……下手したら殺されて晩飯の具材にされるんじゃ」
「おれの知ったことか。そこをどうにかするのが王の務めじゃろうて。いかん、つい長話をした。おれはこいつの研究をせねばな。これの仕組みが分かれば鉄の鳥を飛ばすことなど造作もなくなる。あんぽんたん、政治手腕を振るうのはお主の役目だ。じゃあの」
老いぼれ科学者はそさくさと、スキップを始めそうな足取りで王城を後にした。勝手に怒り散らして勝手に帰っていく。まるで嵐のような男だなというのがザグナヒコの感想だ。
「……と、いうわけで水源危機と水源機械と魔女は同一の問題と見ることができます」
コウコは硬い声で話を終えた。
タガヒコは尋常じゃない脂汗をかいていた。常夏の砂漠地帯のはずなのに背骨が冷たい。鳩尾に本当に氷の弾丸がめり込んでいて体を内側から凍りつかせようとしているんじゃないかと思うほどだ。
ザグナヒコがタガヒコににじり寄って来た。見ているだけで人を不快にさせる類の笑みを浮かべていた。タガヒコはげんなりした。
「死んでもらうことになるかもしれないってのは、水源枯渇の旱魃で死ぬわけじゃなくて、魔女に釜茹でにされて来いって意味だったんですね」
「さすがは我が息子だ! 飲み込みが早くて助かるぞ」
「嫌です」タガヒコは一刀両断する。「おれは行きませんよ」
「なぜだ!」
ザグナヒコは息子の肩に両手を置いて前後に激しく揺すった。
「この国と民の危機が迫っている! ここで立ちあがらなければなにが王子だ! 大体おまえはいつも引きこもって心配ごとを並べ連ねてさらに不安になっているだけでろくろく公務もしてないじゃないか! 役に立ってみせろ!」
「じゃあ言わせてもらいますけれどね、死にに行ってくれって言われて『はいわかりました』って言えるほどの愛国心はないですよ。父さん、あんたのせいでね! あんたは飲んだくれてばっかりだ! 公務をしてないのはそっちでしょう! あんたがサボったぶんのツケが誰に回されてるか知ってますか? おれですよ! おれが部屋に引きこもってるのはあんたが街に出て酔っ払って同じ酔っ払いどもに愛想振りまいてる間に溜まった書類を片っ端から片付けているからですよ! そんなこと知らなかったでしょう。面倒くさい仕事は全部おれのとこに来るんだ! それでなんだ、お次は自分は安全なところにいながらおれにはカミカゼアタック決めてこいだって!? ふざけるのもいい加減にしていただきたい!」
「この、この、このクソガキ!」
ザグナヒコは飛び上がってタガヒコの首を締め始めた。タガヒコはザグナヒコの顔にパンチを入れながら抵抗する。欠けた歯が宙を飛んで行った。今日も容赦なく砂漠を嬲る太陽に照らされて一瞬ダイヤモンドのような輝きを放った。マツスミと使用人たちが息せき切って二人をなんとか引き剥がす。
タガヒコは鬱血した顔で荒い呼吸をした。使用人たちに取り押さえられた四肢を懸命にばたつかせ、唾を飛ばしながら猛然と反撃に出た。
「このクソジジイ! よくもやりやがったな! 城にうんこ投げつけてやる! 小便も引っかけてやるからな! すごく臭くて黄色いのを引っかけてやる! それから、ええと、それから、とにかく……色々、色々してやる! してやりますからね!」
「おれの小便のほうが臭い!」
ザグナヒコは堂々と張り合った。
「なんで匂いの話になるんですか! 関係ないでしょう!」
「じゃあうんこの話は関係あるのか? ええ?」ザグナヒコは自分ができる最大限に険しい目つきで凄んだ。「糞がなんだってんだ。この国と民が死ぬってときになんで糞の話なんかしなくちゃいけないんだ? 糞なんぞ口の中に放り込んどけばいいんだ! このまぬけめ!」
「まぬけはあんただ! 年がら年中酔っ払って母上の尻ばっかり追いかけておまけに糞を食うだって!? そんなことばっかりして政にかまけないから大変な事態になったんじゃないんですか!? 池を王室の政策の一環として毎年調査なされてれば異変の早期発見と対策ができたんじゃないんですか!?」
ザグナヒコは口をぽかんと開けて反論の言葉を探し、見つからなかったので閉じ、それでもなにか言ってみようと思って開け、やっぱりなにも言うべきことなんてないと思い直して閉じた。
タガヒコのザグナヒコに関しての指摘は概ね当たっていた。彼は人当たりがよく愉快な男で、民衆からの人気も高かったが、反面、デゥィストレア人らしいまぬけさというか、その日が良ければそれで良しといった楽天性の致命的な欠点をきちんと持ち合わせていたのだ。
ザグナヒコは息切れに肩を震わせ、大きく喘いで玉座に深く座り、苦し紛れに「ちくしょう」と言い捨てた。まるで糞を口から吐き出しそうな顔つきだった。
「喧嘩はおよしなさいな。王族が糞とか小便とか言ってみっともない。過ぎたことを悔やんでもどうにもなりません」
いい加減頭が痛くなってきたコウコがそう口出しした。
「ですが母上、死んでこいというのはあんまりじゃないですか」
「わたくしたちは魔女と話して水源機械についての何らかの情報を聞き出してほしいと言っているだけで、あなたに死んでほしいわけではありません。この公務は王族としての責務です。わたくしたちはあなたを信じてこの命を託すのです。あなたはずっと、普通のデゥィストレア人とは違いましたね。心配性で、神経質で、繊細でした。だからこそ魔女とうまく話合えるかもしれない。この国と民を救えるかもしれない。これはね、最後に残った一縷の望みなのです」
タガヒコは唸った。
「タガヒコ、これはわたくしにもザグナヒコ様にもできないことです。だから、どうかあなたに行ってほしい。お願いできますね?」
タガヒコはザグナヒコを見やった。彼は息子から罵られたショックから早くも復活し、優雅に「誰か、おれにソーダ割りをくれないか? 暑くてたまらん。忘れずにレモンをひと垂らししてくれ。ひと垂らしだよ。一滴だけだ。くれぐれも二滴は垂らさないように」と使用人に言いつけていた。
正真正銘のまぬけっぷりだ。
「母上、話は変わりますが父上とご結婚なされてから不倫ってしたことありますか」
タガヒコは縋るような声で尋ねた。
「まあ、なぜそんなことを聞くのかしら?」
「自分がかつてそこのうすばかの金玉にいたという事実と対面すると決まって舌を噛み切りたくなる衝動に襲われるもんで」
「それはそれは。ザグナヒコ様の金玉は子兎のように可愛らしいのに」
「クソババア」
「はい?」
「いいえ。わかりました。わかりましたと言ったんです。抵抗したところでいずれは干からびて死ぬか、魔女に殺されるかの二択だし、なら行ってきますよ。魔女と話し合います。でも、どうにかなることは期待しないでくださいよ。なにしろ正体不明の女です。魔法なんて夢物語はおろか、水源機械に関与しているかすら不明なんですからね」
コウコはにっこりと笑って、それでいいのですと頷いた。タガヒコはなんにせよ絶対に城の壁に糞を投げつけてから旅立とうと決心した。
コウコは息子に向けていた視線をやにわにマツスミに移した。マツスミは嫌な予感を感じ取った。
そう、多分「それじゃマツスミ、あなたには旅に同行の上、王子の身の回りの世話をすることを命じますね」とか言われるんじゃないかという予感だ。案の定その通りになった。
コウコの視線という蜘蛛の巣に絡め取られた小さな昆虫のマツスミはたっぷりと硬直し、ゆっくりと「あ、あわ……あ……」と口にした。そのあと「え、う、あ……」と鳴いてから「いや……ええ……その……」とやっと言葉らしいものを発語した。
しかしながら哀れマツスミ、そのころにはコウコの話は最後の仕上げに入っていた。
「ひとりの親として、息子の無事を願っています。ひとりの王妃として、使用人の無事も祈っています。二人ともきちんと帰ってくるように」
「はい、母上。ストーニャ王国第一王子タガヒコ、ご命令しかと承りました」
「えっと……おれは……えー」
とマツスミはまだ仄かな抵抗を繰り広げた。
一方のうすばかことザグナヒコは、レモンをひと垂らししたソーダ割りを飲み終え、煙草を一本吸い終えてリラックスしていた。
彼は「それでおれはなにをするんだ?」とコウコに尋ねた。そろそろ王として自己主張してもいい頃合いだと踏んだのだ。
コウコはその美貌を惜しみなくふんだんに顔中に散りばめた笑みを浮かべた。
「大丈夫、此度の由々しき問題はタガヒコが片付けてくれることになりましたから。あなたはいつも通り、そこにふんぞり返ってわたくしのお尻を見たりお酒を飲んだり笑ったりしていれば良いのです」
ザグナヒコは得意げに微笑んだ。薔薇色の頬がさらに赤く色付いた。
「ああ、それなら造作もない。生まれてこのかたずっとやってきたからな。上手くできるよ」
「さすがですわ」
「王妃陛下、申し訳ないのですがそのご命令、辞退ってわけには」
マツスミは今更になってやっと口を挟み、コウコを見上げた。彼女の瞳は瞬時に石のように硬くなった。
「……もちろんいきませんよね。わかっておりますとも。このマツスミ、命に変えても王子をお守りしますよ……ええ、しますとも……」
マツスミはどんよりと肩を落としていく。タガヒコは彼の背中を叩いて「早速糞を投げつけに行こう。小便でもいいぞ」と誘った。