暗森
家をすっかり吹き飛ばしてしまったあとで、二人は揃って箒に跨った。タガヒコの箒には少し改良が加えられている。座ると尻にチクチク枝が突き刺さって煩わしかった部分に、フェルト生地の布を二重に巻いておいたのだ。これでいくらかは楽になるだろう。
バックパックの重みに気を取られながら、リザベートと行った訓練を思い出して箒を地面に対して完璧に並行にする。
脳みその奥深くに意識を集中させる。カッと熱くなる感覚が来た。それを掴んで決して離さないようにすると、身体がふわりと浮き上がる。
「タガヒコ、行くぞ」
とリザベートが声をかけた。彼女は既に空中に浮いていて、シャツの中に手を突っ込んで首からぶら下げた小型のコンパスを覗き込んでいるところだった。
「東はあっちだ。おまえのスピードに合わせて飛ぶから、遅れず着いてこい。遅れたら見捨てるからな」
彼女はコンパスを再びシャツの中に戻して箒を両手で掴んだ。進み始める。タガヒコも慌てて前進した。二人は雲の上まで上昇してから東へ向かった。空は涼しかった。いつまでも飛んでいられる気がした。
夜になると地上に降りて野営した。随分飛んだ気がしたが、まだ砂漠の上にいた。それだけボレバリス砂漠は広大だということらしい。
タガヒコはリュックサックに積んでいた調理道具と具材を使って豆のスープと肉と野菜の串焼きを作った。調理に用いた火はもちろん、薪など無くても燃えるリザベートの魔法の火だ。
ガツガツと食事を貪るタガヒコの傍らで、リザベートは相変わらず食事には一切手をつけず、スキットルから酒を飲むばかりだった。
「リザベートさん、少し食べましょうよ。ほら、この肉なんか肉汁が滴って美味しそうによく焼けてますよ」
タガヒコが言うと「いらん」という返事が帰ってきた。
「そうですか……美味しいのになあ」
リザベートはバックパックの中から寝袋を引きずり出すと、砂の上に敷いて体をすっぽりその中に収めた。
「火の後始末をしておまえも早く寝ろよ。明日も長時間飛ぶことになるからな」
そう言い残し、彼女は寝返りを打って背を向けてしまった。タガヒコは豆のスープをすすりながらいつ果てるともしれぬ砂漠の先を睨めつけるように眺めた。
それから一週間ほどは同じことの繰り返しだった。空を飛んで、地上に降りて野営をし、眠り、夜明けと共にまた空へ戻る。まるで鳥にでもなったかのようだった。
「タガヒコ、下を見てみろ」
と突然リザベートが言った。タガヒコは箒から気を付けて身を乗り出し、はるか下に広がる地上の風景を見た。そこでは赤茶けた砂漠が包丁でスッパリと切られたかのように唐突に終わっていた。砂漠の先にあるのは鬱蒼とした落葉広葉樹の原生林だった。
「あそこが目的地の暗森だ」
「……おれ、森に入るのは初めてです」
タガヒコはセレディアをぎゅっと握りしめた。
「いったん森の手前で降りるぞ」
リザベートは言うなり箒の柄を地面に向けて降下して行った。タガヒコも慌ててそれに続く。
森の前に立つと、その森が暗森と呼ばれている所以がわかった。おそらく何百年も、下手すれば何千年もその大地に根を這わせているだろう落葉広葉樹は、枝を大きく広げ、たっぷりと濃い緑色の葉を付けて、太陽の光が地上に届くのを遮ってしまっている。
木は所狭しと並んで生えており、そのせいで見渡しも良くなかった。
なんだか森に拒絶されているような気がした。立ち去れと言われているような気がした。風が吹くと女の低い叫び声のようなざわめきが森の奥から聞こえてきた。
立ち止まってしまったタガヒコを尻目に、リザベートは「なにしてんだ、さっさとしろ」と言って自分の箒をタガヒコに押し付けた。
こんなところに住むなら砂漠のほうが全然良いや、とタガヒコは思った。
リザベートは臆することなく森の中をずんずん歩いて行った。タガヒコは根っこに引っかかりそうになったり、頬を掠めた小枝に吃驚したり、奇妙な色のキノコに見とれたりして順調とは言えない足取りだったが、なんとかリザベートの背を見失わないように気をつけた。
ここで迷子になったら永遠に彷徨う自信があった。
途中で綺麗な湧き水が造る泉を見つけた。一週間湯浴みすらしていなかった二人はそこで水浴びをすることに決めた。
リザベートはローブを取り去ると、ベルトを外し、タガヒコの見ている前で恥ずかしげもなく次々と洋服を脱いだ。タガヒコは慌てて顔を隠して「ちょっと! リザベートさん! 女性なんだから恥じらいを持ってください!」と喚いた。
「男が見て興奮する身体じゃない」
リザベートはちゃぷん、と小さな音を立てて泉に入った。タガヒコは顔を覆っていた両手をゆっくり剥がした。視線を徐々に上に持っていく。傷だらけの小さな背中が見えた。ほとんどの傷は年月を経て白い線になっていたが、それでも膨大な数だった。
「おまえも早く入れよ。こんなところで時間を使うつもりは無いぞ」
とリザベートは言った。
タガヒコは洋服を脱ぎ、リザベートと背中合わせになるようにして泉に入った。水はぞくりとするほど冷たかった。
「その……リザベートさん……」
その傷はなんなんですか。
あなたの過去になにがあったんですか。
あなたは一体何者なんですか。
あなたはどうしてあんなところにひとりぼっちで住んでいたんですか。
家族や友人はいるんですか。
聞きたいことが次々と浮かんでは言葉にする前に喉の奥で消えていく。
ザブザブと水をかき分ける音がして、リザベートが泉から上がったのがわかった。タガヒコは石鹸で適当に身体と頭を洗い、泉から出た。
すっかり履きなれたブーツに足を通しているときだった。
「シッ」
とリザベートが唇に人差し指を当てて言った。
タガヒコはごくりと唾を飲み込む。
何か巨大なものの足音が森の深くから迫って来た。
それはあまりにも早く、タガヒコでは姿を捉えることすらできなかった。
リザベートが右手を宙にかざした。巨大なものは標的を彼女に絞って突進してくる。
衝突。
轟音と衝撃波がタガヒコを吹っ飛ばした。巻きあがった土煙が弱い太陽の光を受けてキラキラ輝きながら地面に戻っていく。リザベートはその場にびたりと静止していた。巨大な、巨大なそれは、四メートルほどの猪だった。猪は彼女と打ち合った瞬間、全身の骨を砕かれていた。巨体は力なくゆらりと倒れ始め、ずしんという音とともに大地に横たわった。僅かに上を向いた黒目は生気を失いどろりと濁っている。
「なんなんだ、ッたく」
リザベートは右手をぷらぷらとさせて猪の鼻っ面を観察していた。
「なんですかそれ……」
とタガヒコは箒を杖のように持ちながら猪の側へ寄った。足でちょんとつついて、巨体が本当に動かないことを確認するまで、彼の心臓は爆発しそうなほど大きく脈打っていた。
「ただの猪だろ」
「それにしちゃでかくありませんか」
「この森では普通だな。しかし、これはいい手土産になるかもしれん。タガヒコ、わたしの箒を持ってこい」
タガヒコは言う通りにした。リザベートは猪を無理矢理箒に括り付けて、箒だけを空中に浮かせた。
「異人街まではもう少しだ。着いてこい」
もうどんなことが起こっても驚かないぞ、とタガヒコは思った。今ので一生分驚いてしまった感じがしたからだ。




