タガヒコ王子殿下
父親譲りの黒い巻き毛と黒い瞳を持つタガヒコ王子は、いつも心配ごとをごっそり抱えていた。心配ごとの種類は実にバリエーションに富む。
たとえば、ストーニャ国民の半分がアル中な上に肝臓に深刻な問題を抱えて土色の顔をしているといった極めて具体的で大きなものから始まり、自分の右の頬に定住しなかなか出ていかない噴火寸前の引きこもりニキビはどうすれば治るのか、といった小さなことまで、だ。
彼はそんな膨大な心配ごとをいっしょくたにミキサーにかけて頭の中に押し込んでおくので、しまいにはなにに向かって心配しているのかわからないがそれが心配だ、と思い始めた。
おかげで全然眠れなくなった。眠れないことも心配だ。眠れないと胃が痛くなる。引き攣るような痛み。胃が痛いことも心配だ。なんでもかんでも心配だ。不安だ。
タガヒコは部屋の中を行ったり来たりする。それが済むと寝台に腰掛けて深いため息をつく。また部屋の中を行ったり来たりする。以下、繰り返し。
こんなときに酒が飲めればいいのに、とタガヒコはいつも思う。遺伝子の突然変異は彼から楽天性だけではなくアルデヒド脱水素酵素2まで奪った。彼の酵素はアルコールが入ってきてもぴくりとも動かない。つまり、王子はまったくのゲコなのである。
けれども、その朝の心配さ加減というか、不穏さ加減はいつものそれとは異質な感じだった。
まるで池の水が血に変わったり、蛙とか蚋とか虻とかが飛び交ったり、疫病や腫れ物が流行ったり、蝗が飛んできてなにもかも食らいつくしていったりするようなことが起きるんじゃないかという類のきな臭さが彼を包んでいたのだ。
窓扉を開けて砂漠に容赦なく差す陽の光を浴びたって少しも気分が良くならない。ため息をついて扉を閉めた。風呂に入ってみた。誰かが気を利かせて行商人から買ったらしい紛い物の薔薇の香りの石鹸のせいで、気分は良くなるどころか悪くなった。こんな香りを体中からさせているのはオカマぐらいなものである。まただ。胃が引き攣れてきた。最悪だ。
部屋のドアがノックされる。この叩き方はマツスミだ。マツスミはタガヒコの従者で、器用貧乏な男だった。兵士としての腕は六十点、側近としての頭の良さは六十点、料理をさせても味は六十点、性格もやっぱり六十点だった。
タガヒコは天蓋付きの寝台のカーテンを開けながら「入れ」と言った。
「失礼します」
マツスミは太くてつり上がった濃い眉毛と丸い鼻、薄い唇を持っていた。言わずもがな顔も六十点だ。
マツスミの手にはタガヒコの朝食が乗った盆があった。
この王室ではそれほど使用人を雇っていないので、必然的になんでもできるやつが重宝される。庭で洗濯物を干しているメイドたちは経理総務人事も同時にこなすし、訓練場で朝の走り込みをしている近衛兵たちは料理も客人接待もする。
国民七千五百人の極小国家なのだ。なんだってカツカツになるのが必然だ。
だから、普段ならばタガヒコは王子と言えども食堂に下って行って自分のぶんの朝飯を確保しなければならない。
なのに。
なのにマツスミが持ってきた。
間違いない。おれの第六感は、おれの胃は、これからとんでもないことが起きるという未来予知をしたのだ。
来るのはなんだ。蛙か蚋か虻か蝗か。最悪だが蝗じゃなければ少しはマシだ。あのぴょこぴょこと飛び回る動作とやたらに柔らかそうな腹が気持ち悪くてしかたない。
「あの、タガヒコ様」
とマツスミが遠慮がちに声をかけた。タガヒコは間髪入れずに
「よせよマツスミ。四人の御徒が二億の騎馬兵を引き連れてこの国に宣戦布告していますなんて報告した日には、おれの胃は痙攣しすぎてケツの穴から飛び出してまた口に逆戻りするからな」
と早口でまくし立てた。
「はあ……。おれにはなにを仰ってるのかわかりまねますが、朝食後で構わないので謁見の間に馳せ参じよと、国王陛下と王妃陛下からの勅命ですよ。さ、さっさと食って、着替えをなさってください」
「ほら見ろ!」タガヒコは怒鳴った。「おれの思った通りだ。今日はもう本当に最悪だ。どんな日照りよりも酷い日になる。自分が蛙か蚋か虻になるよりずっとな!」
「なに喚いているんですか?」
「ああそうだ、わかった、このさい蝿になったっていい。マツスミ、こんなクソッタレの王位継承権なんぞおまえにやる。おまえが王子になれ。おれは蝿になってでっぷり太った蝿にしちゃ可愛らしいメスを見つけてファックして誰かの丸めた紙に叩き潰されてあの世に行く。今そう決めた」
マツスミは盆を寝台のサイドテーブルに置いて溜息をついた。
「継承権なんていりませんよ。今のところ無くて困ったことないですし。それより王子殿下、お願いですから着替えて飯を食って謁見の間に行きましょう」
「うう……胃が痛い……吐きそうだ……」
とタガヒコは言ってみた。
「行ってみればなんてことないですって、ね? 早く準備なさってください」
タガヒコは抵抗を諦め、促されるまま野菜のスープと硬いパンとお気持ち程度に添えられた肉を口に押し込んだ。今にも胃がひっくり返って全部床にぶちまけそうだった。
タガヒコはもたもたとクローゼットまで歩いていき、王の前に立ってもみすぼらしくない程度の古臭い貫頭衣仕立てのくるぶしまである白いワンピースを身につけた。
ストーニャでは強い日差しから身を守るため、みんな長いワンピースを体を覆い隠すようにゆったりと着ている。日焼けはしないが風通しは抜群のすぐれものだ。頭には肩口までくるような布を巻いて、その布がズレないように頭の形に合わせた輪っかをかぶる。あるいはターバンをぐるぐる巻きにしてもいい。
準備が終わったところで、タガヒコは弱々しく
「マツスミ……信じてくれなくてもいいが、おれの胃には第六感があるんだよ……」
と言った。
「なら信じません。さあ行きましょう」
「クソ野郎」
「なんですか?」
「ああ行こう、と言ったんだ」
タガヒコたちの住む王城は一応城と呼称されてはいるが、他のダドワナ大陸の王国のそれと比べればとても小さく、とてもみすぼらしい造りだった。日干し煉瓦製で、小さな窓がぽつぽつ空いていて、平民の家の二倍ほどの大きさで、どことなく無愛想な感じがする建物だ。
建設した大工がアル中だったために建付けが悪く、年季が入って壁がところどころ裂け始めている。砂漠から吹き飛ばされてやってくる細かな砂が吹き溜まり、いつも埃っぽいが、辛うじて謁見の間だけは綺麗に整えられている。他国の賓客をもてなしたり平民の陳述を聞くために使用されるので、ここが薄汚ければ王室の品位が疑われるからだ。
タガヒコは謁見の間に通じる無骨で巨大な両開きの扉の前で呼吸を整えた。隣にはマツスミが伺候する。今更気がついたが、マツスミもいつもとは違う、彼が持つ最大限に上等なワンピースを着ている。
「胃が痛い」
と性懲りも無くタガヒコは言った。
「気のせいでしょう」
とマツスミは流した。
二人は幼なじみだった。主従の関係である前に友人だった。砂丘を駆けずり回ったり、両親に隠れてこっそりストリップを覗きに行ったり、思いつく限りの悪さをしたりするとき、いつも一緒だった。
「タガヒコ様、あなたはいつも色んなことを心配されてるけれど、おれはあなたが心配になります。考えすぎなんだと思いますよ。まだ起こってもないことを悩んで右往左往してる。デゥィストレア人にはそういうのは合ってないですよ」
マツスミは鳩尾を抑えて猫背になっているタガヒコを横目でちらっと見やった。
「そりゃ、おれだっておかしいと思うよ。でも、それがおれなんだ。ちくしょう、おれはおれがおれだってことがときどき嫌でたまんなくなるよ」
「わからんこともないですけどね。パブで好みの女の子を見つけて、話しかけて、酒を何杯か奢ったあとで店の外に連れ出そうとすると、女の子はあんたとなんか死んでもファックできないって言うんです。そういうとき、おれはおれとお袋と親父を全員まとめてぶん殴りたくなる。でもま、記憶をぶっ飛ばすほど飲んで寝ちまえば次の日には元気になりますよ」
「おまえは単純でいいな」
マツスミは肩を竦めた。
「タガヒコ様は仮にも一国の王子様なんですから、いいじゃないですか」
「それがいちばん嫌なんだよ。おれの人格はおれの鋳型にあってないんだ。おれがおれという精神体である限りおれは王子に求められる資質を欠いていて、俗世間に相応しくないんだ」
「はあ……ちょっと意味がわからないですけど……」
二人がぼそぼそ喋っていると、近衛兵のひとりが馬鹿デカい声で「タガヒコ王子殿下の御成ぃ」と叫んだ。両開きの扉がぎいぎい軋みながら開かれていく。
謁見の間はがらんどうの吹き抜けで、中央奥の一段高くなった場所に王と王妃の玉座がある。玉座の前に立つ人影が見えた。
現国王、ザグナヒコだ。
ザグナヒコはタガヒコの姿を見留めるとその場で膝を折り、額を地面に叩きつけんばかりの勢いで土下座した。それから躊躇いがちにこう言った。
「すまん、タガヒコ。死んでもらうことになるやもしれん」
胃が断末魔を上げた。




