白い部屋で
風が硝子のない古びた窓枠を押すたびに、錆び付いた蝶番が物悲しい音を立てて鳴いた。室内には午後の憂いを帯びた淡い光が差し込んでいた。
光の中では埃が妖精の鱗粉のようにきらきらと舞って遊んでいる。
所々に穴が開き、雑草が生えた白い床は長年人の手が入らなかったことを物語っている。壁は床と同じく白で、塗装された漆喰がほとんど剥がれ落ちていた。
目の前には簡素な木の椅子がある。もとは良い仕立てだったであろうそれもこの建物と同じくらい古びて、見棄てられている。
それ以外にはなにもなしのがらんどうだった。
風がいっそう強く吹き、窓から伺える青々と生い茂った木々を大きく揺らした。小鳥達が囀りながらいっせいに飛び立った。
タガヒコはぼんやりとした頭を抱えながら身を起こした。鉄製のベッドの枠組み上に、古びたむき出しのマットレスが敷いてあり、彼はその上に寝かされていた。
「ようやくお目覚めだな」
声に驚いて振り向くと、さっきまで誰もいなかったはずの椅子の上にリザベートが偉そうに足を組んで座っていた。
「リザ、ベート、様……。どうして……おれ、ペルベドンの巣の手前で倒れて、それで……」
「薬瓶を開けただろう」
リザベートはパイプに煙草の葉を詰め、爪先に炎を灯してそれを燃やしながら言った。
「あれにはわたしの魔法がかかっていた。魔法が発動すると、その痕跡が僅かの間使用された場所に残る。この現象は発見した科学者の名前をとってラムフォード残留子放射と呼ばれている。つまり、おまえが薬瓶を開けたから、近くで魔法が発動したことがわかって、行ってみたらおまえが死にかけていたってことだ。初めは彼方の知り合いでも尋ねてきたのかと思ったが思い違いだったな」
「彼方の知り合い?」
「ああ、ずっと昔の……」
リザベートは口に溜めていた紫煙をまんまるの輪にして吐き出した。
「そうですか。助けてくれて、ありがとうございました」
と言いながらタガヒコは薄っぺらい服をしわくちゃになるまで握りしめた。
「それで、ここは?」
タガヒコはきょろきょろと当たりを見回しながら言った。マツスミと尋ねたとき、リザベートの住むオンボロ家にはこんなに広い部屋はなかったはずだ。
「わたしは魔女だぞ。そしてここは魔法の家だ。外見からでは数え切れないほどの部屋数があるに決まっているだろうが」
「ああ、そっか、そうですよね」
「それにしても、人助けとは柄にもないことをしたもんだ。明日は雪が降るな」
リザベートはまたパイプに口をつけた。
彼女は初めて会ったときの、温め直された死体のような風貌に戻っていた。薄い肌着からゴツゴツとした骨と皮だけの体がちらりと見えた。
「あの、どうしておれなんかを助けてくれたんですか」
タガヒコは恐る恐る聞いた。
「死にたそうだったからだ」
タガヒコは顔を上げた。リザベートは口の端を奇妙に吊り上げた悪人面で笑っていた。
「亡国の王子様。いや、もはや王子ですらないか。家族は殺され、ひとりの家来も友人もなく、帰る場所も生きる意義も失った。おまえは今や生ける屍だ」
「どうして……それを、知って……」
「意識を失っているとき、人は外界に対してほとんど無防備になるから、記憶を読むのは造作もないことなんだ」
少しの沈黙のあと、タガヒコは小さな声で
「人の頭の中を勝手に覗いたんですか」と聞いた。
リザベートはうんともいやとも言わなかった。変わりにまたパイプに口を付け、紫煙をくゆらせた。
「わたしはな、嫌がらせが趣味なんだよ。悪いわるーい魔女だからな。おまえ、本当は死にたかったんだろ。家族や国と一緒に心中しちまいたかったんだろ。だってもう、生きてる意味ないものなあ」
タガヒコは唇を噛み締めた。
「ええ。確かに、死にたいと何度も思いました。でも、おれは……ッ、それでも……、今は、生きようと、生きようと思います。おれが生きればデゥィストレア人という人々がこの歴史の片隅にいたということが忘れ去られずにすむかもしれない。もしそれが結果的になんの意味もなくても……それがおれに与えられた使命だから。最後のデゥィストレア人の王の末裔だから」
リザベートは椅子から腰を上げた。
「おまえの話はつまらんな」
「……すいません」
「だが、おまえは確かに天命を与えられたらしい。だから、まあなんだ、せいぜい好きにしろ」
タガヒコは顔を上げた。
リザベートは笑っていた。
「人の世は短いぞ。おまえが何を為すか楽しみだ」
「……あの、そこで折り入って相談があるのですが、どうかおれを弟子にしていただけないでしょうか」
リザベートは眉毛を持ち上げてぱちくりと瞬きしたあと豪快に笑った。
「ははははは、人の子が、恐ろしの魔女の弟子になるのか!? 魔法もろくに使えないくせに、なんでわたしがおまえのケツを拭いてやらなきゃいけないんだ!?」
「なんでもします!」
タガヒコはベッドから起き上がって頭を下げた。
「雑用でも便所掃除でもなんでもします。どうかおれに魔法を教えてください!」
「魔法を学んでどうする? おまえの国を滅ぼしたやつらを焼き殺しに行くのか?」
「過ぎたことはどうでもいいんです。ストーニャが無くなったのはおれの力がなかったからです。おれがもっと強ければ、敵を討ち滅ぼせたかもしれない。そして、将来もそんな場面に出くわすでしょう。そのとき、おれは、強くありたい。守りたいものを守れるだけの力を持っていたいんです。どうかお願いします。おれが持つもので欲しいものがあるならなんでも差し上げます。寿命でも背丈でも腕でも……!」
「そんなもの貰ったところで使い道がない」
とリザベートは一蹴した。
「だが、悪くない提案かもしれないな。この家を出なくてはいけないし、ちょうど雑用係が欲しかったところだ」
「じゃあ……!」
「ただし、魔法は基本的にはだめだ。教えられない。代わりに剣の稽古をつけてやろう」
「剣、ですか」
「不満か?」
「いえ、そんな、滅相もない」
「では決まりだな。生きるぞ、タガヒコ」
リザベートの長い髪がはためいた。彼女は背中に窓に四角く切り取られた真っ青な空を背負っていた。
「わたしの……荷物持ちか、兵士か、ペットか……情夫ってのはナシだな。ツラが好みじゃない。まあなんでもいいが、わたしと、生きるぞ」
ああ、なんでこの人はこんなに頼もしいのだろう、とタガヒコは思った。地下牢で何度も思い浮かべた彼女の顔そのままだ。小さな背がタガヒコには酷く大きく見える。リザベートさえいればなんとかしてくれるという気持ちになってしまう。
「どこまでもお伴します。リザベート様」
その夜、リザベートは部屋にチキンスープを運んできてくれた。窓の外はすっかり暗くなり小鳥たちのざわめきも無くなった。
相変わらず穏やかな風が吹いていたが、室温は快適だった。
「なにからなにまですいません」
タガヒコが言うと、リザベートはいつものポーカーフェイスでフンと鼻を鳴らしてなら
「まだクソガキの頃、わたしは酷く不幸でな、この世の全てを呪って死のうとしたんだ。だから、おまえの気持ちを少しはわかるつもりでいる」
と脈絡のないことを言った。
その言葉を聞いた途端タガヒコの両目からぼとぼとと雫が落ち始めた。リザベートはしゃくり上げる彼から少し離れたところに立って、窓の外を見つめていた。
「まずはエニシダの枝を集めなきゃいけないなぁ」
と彼女は億劫げに呟いた。




