罅隙
池の問題にかたが付いたことで、ストーニャは元通りの平穏な暮らしを手に入れた。
ゼグナヒコは全国民を集めて今回の池の水位の変動は水源機械のせいではなく自然災害だったと説明した。彼の釈明をストーニャ国民はもちろん受け入れた。国民は明日の酒が飲めればそれで良しと考えている連中なので、誰も王の言葉に疑問をもたなかった。
ミヤリノだけが水源機械を解体しようとしては失敗してみたり、中心に浮かぶ水でできた球体の構成成分を解き明かしてみようとしては失敗してみたりと、ひとりもくもくと研究を続けていた。
タガヒコとマツスミには長旅の見返りとして長期の休暇が与えられた。それで二人はストリップを覗きに行ったり、酒を飲んだり(タガヒコはソフトドリンクだったが)して悠々自適に暮らしていた。
いつ起きても良かったし、いつ寝てもよかった。自分でベッドメイキングをしなくてはならなかったけれど、ベッドのマットレスはふかふかで、飯は食べたいときに好きな分だけ好きなものを食べられた。それに、なんといってもシャワーだ。毎日シャワーを浴びられる幸せはこれほどのものだったのか、とタガヒコは心の底から嬉しくなった。
砂漠の旅からまだ幾日も経っていないのに、それが百年も遥か昔のことのように思えた。
だが、平和な日々はいつだって長くは続かないものである。
どんな秘密にも罅隙が生まれる。小さかったひび割れはやがて大きくなり、ストーニャの国民が酔っぱらってバカ騒ぎをしている間に、遠雷のように迫り来て、ついには丸々国を飲み込んだ。
そう、ストーニャ国民は誰も知らなかったが、ストーニャの隣国である南部沿エタポニエ公国から二百の騎馬隊がストーニャに向けて今放たれていたである。
騎馬隊たちは白昼堂々いつもあけっばなしのストーニャ王国の正門からわっとなだれ込んできた。昼寝をしていた人のハンモックをひっくり返し、日陰で午後の一杯を楽しんでいた人のテーブルをぶち壊し、女も子供も関係なく槍で串刺しにした。戦う術を持たないストーニャ国民たちは太っちょのドブネズミのように喚き散らしながら逃げるので精一杯だった。
そこらじゅうが血に染まった。
笑いとおふざけと享楽の日々はこうして唐突に終わりを迎えた。
王城の馬車寄せにはすでに南部沿エタポニエ公国の衛兵らが馬で乗り付けていた。
腕を縛られた使用人たちがざったに玄関ポーチに転がされている。ザグナヒコも捕縛されている最中だった。
「さっさと歩け!」
突き飛ばされながら王城の中から出てきたのは同じく縛られたコウコだった。
「彼女を丁重に扱っていただきたいな。あれはわたしの妻のコウコ夫人だぞ」
ザグナヒコがいくぶん刺々しい声で批判した。
「そうだ。大体なんの目的でこんなことをしてるんだ。あんたらは南部沿エタポニエ公国の騎士団だな。あなたたちの国とは国交も友好条約も結んでいた。それなのに、市井の罪なき一般市民を虐殺したそうじゃないか。どういうことか説明して欲しい。許されざる大罪だぞ」
タガヒコも後ろ手にがっちりと、蟻一匹通る隙間もないほど麻縄をまきつけられながら口答えした。
一瞬のことだった。
衛兵のひとりがタガヒコの腹に剣の柄を突き刺した。彼は体をふたつに追ってゆっくりと倒れた。
「タガヒコ!」
ザグナヒコは思わず叫んだ。
「タガヒコ様!」「若様ァ!」
と口々に悲鳴が聞こえる。
「おれの主人になんてことしやがるんだ!」
他の使用人と共に拘束されていたマツスミが縄を振りほどこうと腕をめちゃくちゃに動かすと、間髪入れずみぞおちを殴られた。息ができない。痛くて、熱くて、苦しい。
唾の混じった咳を何度かしていると、タガヒコがうずくまったまま右手をかざして
「大丈夫だ」
と弱々しく言った。口から吹き出たとろみのある血が顎まで滴っていた。
大丈夫なはずがない。
「離せ、はなせぇッ」
マツスミは獣のように唸った。衛兵のひとりはその剣幕に僅かにたじろいだが、拘束をときはしなかった。
「マツスミ!」
とタガヒコが彼を一喝した。マツスミははたと静まり主人の次の言葉を待った。
「大丈夫だってば。みっともなく取り乱すんじゃない」
「そうだ。大人しくしておいた方が身のためだぞ」
ひとりの男が重厚な馬具で着飾った馬の上から降りてきた。全身にぴかぴかと光る銀の鎧を着て、長身で、カイゼル髭が特徴的だった。
「これから大切な話をしよう。さあ、老いぼれをここに」
そう命令が下ると衛兵たちは鉄製の重い手枷が付けられたひとりの老人を引っ張ってきた。
彼の顔は青白く、頬は痩せこけて、もとの元気溌剌とした姿は今や見る影もなかったが、確かにミヤリノだった。
ミヤリノの血で黒ずんだ手には爪がひとつも残っていなかった。
「拷問したんだ……」
タガヒコは呟いた。
「そうよ。この爺、よく耐えおった。だが孫娘をひっ捕らえたら態度を一変させたわ。なんとまあ感動させる話じゃないか。孫娘のためにこれと、引いては国を売り渡したのだ。いやあ、よく喋ったぞ。魔女のことも、魔法の池のことも……」
そういう男の手には古いほうの水源機械が握られていた。
「どうか、お許しください!」
ミヤリノは頭を叩きつけんばかりに土下座して悲痛な声で叫んだ。
「あの子はまだ九つの誕生日もむかえとらんのです。どうか、王よ、おれのことは殺してくれて構わんから、孫娘だけには……あの子にだけには慈悲を……!」
ザグナヒコは優しい溜息を付いた。
「よい、よい。おれとておまえの立場になればそうするだろう。気にするなミヤリノ。それよりも、拷問はひどく辛かっただろう。ひとりでよく耐えてくれたな」
ミヤリノは嗚咽を上げ始めた。タガヒコは芋虫のように這いながら彼の元へ寄って行って、肩で彼を摩ってやった。
「あんたがたの目的は水源機械だったんだな」
ザグナヒコは言った。
「そうだ。おまえの国のまぬけな国民には隠し通せても……我が国の行商人には隠し通せなかったようだな」
「行商人……確か、父上に水源機械の話をされた日に、薔薇の香りのする趣味の悪い石鹸を誰かが行商人から買ったはずだ」
「そう、それが我が国の商人だったのだ。いやあ、これは誠に命運に尽きる。我が国も砂漠に近い国の宿命として水源確保にはいつも苦しんでいたからな。これからはその心配もなくなるらしい」
男はボロ雑巾のようなミヤリノの尻をつま先で蹴飛ばしてから言った。
「これより南部沿エタポニエ公国は正式にストーニャ王国に宣戦布告する」
タガヒコは己の人生が牙を向いて唸って涎を垂らし、金玉を勢いよく噛みちぎった音を聞いた。




