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ペガサスと鴉

 次の日の朝、リザベートの家の前庭に立った不細工なダイデラウマは不機嫌に前足で砂をかいていた。また歩くのかよ、とでも言いたげにしきりに鼻を鳴らしている。マツスミは二頭のウマの手綱を引きながら、再びの砂漠の旅をすでに億劫に感じていた。繰り返し言うようだが、ボレバリス砂漠には見るに値するものは本当になにもない。行きと同じようにひたすらに退屈な道中になるだろうことは簡単に予感できた。


 旅の道連れにリザベートが加わったのがせめてもの救いだった。彼女がいればまず食料や水の心配をしなくていいだろう。


 マツスミがダイデラウマに出立したときよりだいぶ軽くなってしまった荷物を括りつけていると、リザベートのあばら家の中からタガヒコが姿を現した。無精髭は綺麗に剃られ、眉も整えられ、久々に王子然とした調子を取り戻している。

「さっぱりなされましたね」

 マツスミが言うと、彼ははにかみながら

「帰るころにはまたくたくたに戻ってるさ」

 と答えた。

「リザベート様はまだお眠りですか?」

「いや、旅支度をしてらっしゃるよ。一応王族に会うならきちんと身なりを整えなきゃ悪いだろってさ」

「案外常識人なところもあるんですね」

「それ、本人の前で言うなよ。悪い人じゃないってことはわかったけれど、怖い人だってことに変わりないんだからな。あのお方がその気になればおれたちは瞬く間に細切れだよ」

「十分心得ておりますとも」

「それが不安なんだよ、まったく」

 マツスミはリザベートが前日に用意してくれたバケツいっぱいの水を喉を鳴らしながら飲むウマの鬣を優しく撫でながら「もうしばらくの辛抱だぞ、頑張ってくれよ」と言った。

「随分早くから起きて馬の世話をして、旅支度を整えて、百点満点の従者だな。おれの朝飯がないところ以外は」

 とタガヒコは言った。

「しまった」

 マツスミは慌てたが、昨日の時点で残っていた食料はすでにダイデラウマの背に積んでしまってある。途中で荷崩れしないよう布袋の上に何重にも麻縄を巻き付けているから、今更食料の入っている袋だけを取り出すのは不可能だ。

「おまえは詰めが甘いんだよ。だからいつまでたっても六十点どまりなんだ」

 タガヒコは呆れた顔で言って、マツスミの前にベージュ色のワックスペーパーで包まれたサンドイッチを差し出した。トーストされたパンの外側はカリカリしているのに、内側はふんわりと柔らかく、具材はジューシーな肉と瑞々しいリーフレタスと真っ赤なトマト、それからマスタードかなにかの調味料だ。マツスミは一口食べると目を輝かせ「うまい!」と大声で言った。

「王子お手製ですか?」

「軽食をくれと言っても自分でお作りになってはどうですかって返事しか返ってこない国の王子じゃ、自発的にやるようにもなるさ」

「わたしのぶんも勿論あるんだろうな」


 二人が振り返ると、家の外壁にもたれるようにしてリザベートが立っていた。


 彼女の背丈では引きずってしまうほど長い灰色の透かし編みが施されたくすんだローブを身にまとっていた。首からは彼女の目と同じ色の赤い宝石が嵌め込まれたペンダントトップが輝く細い銀のネックレスを上げている。繊細な造りで、大切にされてきたことが一目でわかる至極の一品だった。


「家中探して外に出ても恥ずかしくはない服を選んだが、どうだ」


 と彼女は尋ねた。

 十分すぎるほどだった。肌の露出はほとんどなかったが、それが返って彼女の内側にある穢れ知らずのうぶな少女性を浮き彫りにしていた。


「これ以上ないってくらいですよ」


 言いながらタガヒコはリザベートのぶんのサンドイッチを彼女に渡した。彼女はむしゃぶり付きながら「悪くない味だな」と評価した。

「リザベート様のところの食品を分けてもらえたから作れたんです。ありがとうございます」

「構わん。どうせわたしは普段食わないからな」

「食わないって、それじゃあ生きていけないでしょう」

 マツスミが手に着いたパン屑を払い落しながら言った。リザベートはアニメの悪役がやるようなしたり顔をした。

「いくら腹が減ってもわたしは死なない」

「不死ってことですか」

「多分な」


 リザベートは指先にぽっと小さな炎を灯してワックスペーパーを灰に変えた。


「さあ、おしゃべりはこのくらいにしていよいよおまえらの国に行こうか」

「仰せのままに。さ、こちらのウマにお乗りください」

 マツスミは右手を出し、自分が乗ってやって来たダイデラウマの背にリザベートをエスコートしようとした。彼女ははたと動きを止めた。

「リザベート様?」

「おまえらこの不細工馬で来たのか?」

 リザベートは呆れかえっていた。

「そうですよ」マツスミは堂々と答える。「ボレバリス砂漠を平気な顔で歩けるのはこのダイデラウマだけなんですから。それに、こいつらはそんじょそこらのダイデラウマと違います。ストーニャ王国公認の由緒正しい血統です。どんなに砂漠が熱くとも簡単にはへこたれません。さ、ささ、お早く」

「おまえはどうするんだ、マツスミ。ここにはウマは二頭しかいないように見受けられるが」

「心配無用でございます。おれには母ちゃんからもらった立派な足が二本もありますから」

「ここにくるのにどれほどかかった?」

 リザベートはタガヒコのほうを見て尋ねた。

「二週間です。案外近くて助かりました」

「この不細工に二週間も揺られてられるか。却下だ、却下!」

 リザベートはマツスミの差し出した手を叩いた。

「でも、これしか交通手段はないですよ」


 タガヒコの胃がぎゅうぎゅう痛み始めた。

 ――この女、まさか土壇場で全部を帳消しにしてしまうんじゃないか。


 リザベートはローブを翻して家の中に戻って行った。ややあってからドタバタとなにかをひっくり返す音が聞こえだした。タガヒコとマツスミはそろって眉を下げ、口を真一文字に結んだままことの成り行きを見守っていた。


 ひときわ大きな、なにか重いものが倒れるような轟音がして、砂漠はふいに静けさを取り戻した。どこか遠いところで吹く風の唄が途切れ途切れに鼓膜を震わすだけだ。


 家の戸口に再び現れたリザベートの手には彼女の伸長を超える長い箒が握られていた。

 箒の柄は焦げ茶色の重厚な樫の木で、くにゃりと不思議な形に曲がっている。先端には透かし彫りの象牙と月長石があしらわれ、太陽に照らされてぴかぴか光っていた。テーパード型の穂にはエニシダの細い枝がたっぷりと使われている。エニシダをまとめ上げているのは柄と同じ色に染められた麻縄だ。埃を被り、蜘蛛の巣があちこちに張っていたが、それでも骨董品としてかなりの値打ちがあるだろうことは伺い知れた。


「魔女、箒……」


 マツスミが呟いた。


「そんな、安直な……」


 タガヒコがもごもご言った。


「わたしはこれで行く」リザベートは箒の柄の先を砂に叩きつけた。「一時間やそこらで着く」

「ええ、本当に、これ、の、乗れるんですか」


 マツスミは不躾な視線を隠そうともせず、じろじろ箒と魔女を見比べた。リザベートは笑い、箒を地面に対して平行にすると、まるで重力など存在していないかのようにふわりと跨った。箒は彼女ごと宙に浮いたまま静止している。


「魔女だ」マツスミが掠れた声で言った。「本物の魔女だ」


 リザベートは固まってしまったデヴィストレア人二人を尻目に空へと駆け上った。風が長い髪の間を通り抜けてびゅんびゅん吹くのが気持ちよかった。飛ぶのは実に久しぶりだった。調子よく雲を抜け、大きく旋回し、渡り鳥の群れをかき分け、それから一気に降下する。あわや地面に激突する寸前で柄を上げ、地表すれすれを低空飛行して二人の元へ戻った。


「ほらな、乗れただろう?」

 リザベートは悪戯が成功した子供みたいに笑った。

「カッケェー! それ、訓練とかすれば、おれも飛べるようになるんですか!?」

 マツスミが無邪気に言った。

「いや、それは無理だ。昨日も言ったが、水源機械やこの箒そのものには特別な力なんてないんだ。魔力を注ぐことで初めて魔法の道具になる。だから、魔力のない人間が持ってもただの実用性の低い箒にしかならない」

 マツスミは肩を落とし目に見えて落胆した。

「ひとりなら乗せて飛んでもいいんだが、大の男が二人ともなるとちょっとな……そうだ、そこの馬を少しだけ改造しよう」


 リザベートは哀れなダイデラウマに向かって右手を伸ばし、ぎゅっと目を瞑った。

 骨が握り潰されるような嫌な音がした。肉を引き裂くときみたいな嫌な音がした。ウマは突然の苦痛にいななき、前足を蹴り上げ、ついで後ろ足を蹴り上げ、のたうち回った。荷物をまとめていた麻縄がほどけ、馬具が外れてしまうほどの暴れ様だった。


「ちょっと待ってください! なにしてるんですか!」

 タガヒコはリザベートの右手にしがみ付いた。


「飛べるようにしてやる。さながら不細工なペガサスだな」


 ダイデラウマの胸椎を挟むようにして彼らの体の内側からなにかが盛り上がって出てきた。それは皮を膨らんだ風船みたいに限界まで引き伸ばし、そして破った。

 血と肉が噴き出たが、それは一瞬のことで、次の瞬間には肩甲骨が変形して形成されたらしい白い上腕骨と橈骨と尺骨、それから手先の細々した骨がそびえ立った。ついで翼膜や腱などの赤とピンクの筋組織が骨を覆い隠し、最後にダイデラウマの体毛と同じ色の初列風切と次列風切が隙間なく生えた。


 ウマたちはもう苦しんでいなかった。自分が授かった羽を揺らしたり、折りたたんだり広げたりするのに忙しかった。彼らは新しい自分を気に入っていた。というのも、魔女のくれた羽はどんな鳥のそれよりも威風堂々として素敵だったからだ。大鷲よりずっと大きく、鷹よりずっと鋭く、梟より豊かで、燕より滑らかだ。


 ダイデラウマは試しに羽ばたいてみることにした。


「ムムム」と一頭が馬の言葉で言った。「これはかなりいい具合だ」

「相違ないね」

 ともう一頭も羽毛をまき散らしながら返事した。

「どうだい、ちょいとばかり遠乗りと行こうじゃないか」

「ああ、それがいい。こんなに素敵な羽があるんだもの、行かなきゃ損だ。前々から思っていたが、おれたちはなんで人間と荷物なんかを一生懸命に運んでいたんだろう」

「そりゃあ、おれたちに翼が無かったからさ。鳥を見てみろよ、鳥は人も荷物も運ばず遊んで食って歌を歌ってばかりいるだろう。羽があるやつはそうやって楽しく暮らせるのさ」

「今、おれたちには羽があるな?」

「ああ、相違ない。おれたちには羽がある。人間なんて糞くらえ。荷物運びなんぞ金輪際するものか!」


 二頭は羽ばたきながらたっぷりと助走をつけて空に飛びだった。後ろ姿はぐんぐん小さくなり、すぐに空の彼方の点となって消えてしまった。

 この二頭はのちに奇形のペガサス伝説としてダドワナ大陸中に広く知れ渡ることになるのだが、そのお話はまた別の機会に語ることにしよう。


 さて、二頭のペガサスの暴挙を茫然と見送った二人のデヴィストレア人は最早溜息を付く気力もなく、ただ立ち尽くしていた。


「あー、えーっと」リザベートはしどろもどろに言った。「申し訳ないと思ってる」

「いえ」タガヒコは言った。「いいんです、もう、いいです……もう、なんと言うか、いっぺんに色んなことが起こりすぎていて……感情が追いつきません」

「でも、どうします、王子? 頼みの綱は今しがた雲の上ですよ。待ってりゃ帰って来ますかね」

「きっと帰らないだろうな。いいさ、歩こうじゃないか。リザベート様は二週間後にここを発たれてください。そしたらちょうど国の近くで合流できるでしょうから」

「この手は使いたくなかったんだがな」リザベートはタガヒコの話なんか聞いちゃいなかった。顔を歪ませてぶつぶつ言っていた。「しかし……王室公認の血統書付き……仕方ない」

「リザベートさん?」

 リザベートは二人のデヴィストレア人を真正面から見つめた。

「おまえらの馬を逃がしちまった埋め合わせをする。今からここにわたしの古い知り合いが来る。驚くだろうが、驚くな」

「は?」

「面倒くさいことになるから叫んだり喚いたり走り回ったりするな。いいな」


 そう言うとリザベートはローブのポケットに手を突っ込むと同時に空を見上げて「キッド!」と鋭く叫んだ。


 突然影が差した。タガヒコは目の上に手をかざしながらその影の正体を見極めようと首を伸ばした。


 影は翼をめいっぱい広げた巨大な鳥の形だった。鳥は逆光で闇よりも黒く見えた。鳥は羽を折りたたむと、弾丸さながらのスピードで地上を目指して滑らかに降下し、砂煙をまき上げながらリザベートの後ろに着地した。強い風が吹き、砂粒がタガヒコとマツスミの頬にぱちぱちと当たって跳ね返る。砂煙は風に押し流されて徐々に薄くなっていく。


「その汚物すれすれの猿みたいなのはなんだい、リザ」と優男の声がした。「新しいペットかい? 言っちゃあなんだが相当趣味が悪いよ」


 バカでかい鴉だった。


 バカでかい鴉が優男の声でオシャベリしているのだった。

 汚物すれすれの猿たちは二匹揃ってぽかんと口を開けながら鴉に魅入っていた。鴉は青みがかった艶めく黒い羽毛と、よく磨かれた剣のように鋭い嘴と、なんでも簡単に真っ二つにできそうな恐竜じみた鉤爪を持っていた。翼を広げればその体調はゆうに五メートルを超えるだろう。なぜか爽やかなシトラスの匂いがした。


「か、からす」

「で、でかい」

 と猿たちは言った。


「鴉じゃない」鴉はいささかムッとした顔で反論した。「ぼくはキッドだ。リザベートの息子でありよき相棒でもあるのさ」

「息子ってのは語弊があるが、まあそんな感じだ。タガヒコ、マツスミ、これはキッド。キッド、これはタガヒコとマツスミだ。仲良くしなさい」

「しゃ、しゃべってる」

「く、くわれる」

 と猿たちは言った。

「誰が喰うか。ぼくは生態的には雑食だけど個人的には美食家なんだよ。きみたちみたいな見るからにまずそうなの、喰ってたまるもんか。でも、もしリザに危害を加えるようなら、脳みそ抉りだして突いてやるからな」

「やめておけ。タガヒコはこれでも一国一城の主の正当なご子息だ」

 キッドはタガヒコをさも『こんなのが?』という目で見降ろし、実際に「こんなのが?」と口にした。

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