卵を茹でるプライド
2021年 喫茶店のモーニングに付いてくるゆで卵を食べた時のお話
その店のゆで卵はとてもよくできていた。
スプーンでこつこつ叩いてヒビを入れる。ひび割れた殻をはがしてみると、内側の薄皮からするりと剥けるのが気持ちいい。食べてみれば黄身がとろりと半熟だ。
最初はたまたまかと思っていた。ところがいつ行ってもその店の卵は同じクオリティを保っていた。半熟はまだ分かる。沸騰したお湯に6分半、それで半熟になるのだから。だが、いつもするりと剥ける殻、あれはどうやっているのだろう。もしかしたら注文を取ってから茹でているのだろうか。
考えてみればゆで卵などはモーニングの「おまけ」であり、大量に茹でて冷蔵庫に保存しておくのが効率的だ。実際ほとんどのお店はそうで、食べてみると冷たいパサパサの固ゆで卵だったりする。しかし私は考える。少しでもおいしくしようと、殻を剥きやすくしようと、店のマスターはどれだけの工夫をこらしたのだろう、どれだけのこだわりを込めたのだろう、その熱意がどれだけの人に伝わっているのだろう、と。
私が本気でデザインに取り組んでいた頃、美術館を回るのが好きだった。
ある日私は1枚の絵に釘付けになる。それはなんでもない風景画だったが、そこにある緑、その緑色が素晴らしく、目が離せなくなったのだ。なんて緑色をのっけるんだ、ああ、この緑色を出すのにいったいどれくらいの試行錯誤がなされたのだろう。
それはほとんどの人には伝わらなかっただろう。真剣に描いている人にだけ伝わる。そういう世界は間違いなくある。
ミュージシャンが海外でレコーディングするのは、そのギターが作られた土地の湿度が、ギターの鳴りを良くするからだと聞いたことがある。その真偽はおいておこう、私にはわからないから。だが、この話を聞いて「そんな違い誰もわかんねーよ、バカだな」と思うだろうか。たとえほんの少しでも、作品が良くなるのならやるべきではないか。伝わる人には伝わるのだから。そしてなによりもレコーディングする本人にはわかってしまうのだから。だからこだわる。それがプロというものだ。
卵を食べながら、今日も私はマスターに敬意を払う。たかが卵、されど卵。そこには間違いなくマスターのプライドが詰まっている。