六 転移の魔法陣
朝から湿った空気が纏わりついて鬱陶しい。下着がじんわりとした汗を吸い始め、不快感がゆっくりと、しかし確実に増していく。
エリカは苛立たし気に扇子を振って風を送る。少しだけ涼しくなるが、振る腕が重くなってきて面倒になる。
隣ではグロリアとナタリアがノートに絵を描き合っている。どうやら絵しりとりをしているらしいが、二人とも教科書や別のノートでパタパタと風を送りながら描くものだからお互いの絵はブレが酷く、とても判別できるものではなかった。
午後からの魔物・動物学は臨時休講となっていた。ただ、前世の大学と違って休講になったからといって空き時間ができる訳ではない。この授業では、監督する者もいないままに自習をしなければならなかった。
実際にはゴーレムの監督官が二人、教室の扉の近くにいる。ただ、それらはこちらからの問い掛けや私語には一切反応しない。そのくせに教室を抜け出そうとすると途端に動き始め、外に出ようとする試みを阻止していた。
「ゴーレムなんて初めて見たよ」
そんなことを言っていたテンション高めの集団も、今ではその大半が教科書を枕にして夢の世界に逃げ込んでいるか、取るに足らない話をグダグダと喋りつづけている。
「そう言えば、錬金術も休講になってるらしいよ」
「それだけじゃないよ。全部の戦闘術も休講みたい」
「嘘でしょ。楽しみにしてたのに」
ふと聞こえてきた会話に、エリカは扇子を振る腕を止める。
「そうなの?私は体術よりも魔術が好きだから正直どうでも良いかな」
「でも、なんでそんなこと知ってんの?基本戦闘術以外は全部上の学年対象でしょ?」
「昨日の放課後なんだけどね、オリヴァー先生とジェラルド先生が飛び出していくのを見たのよ」
マーティン・オリヴァーは基本戦闘術と一般戦闘術の担当教授だが、男爵でもある。領地はスタンフォード家とコーナー家の間に挟まるように位置している。
また、最高学年対象の専門戦闘術担当教授のジェラルドはオリヴァー家に仕える将の中でも最古参で、エルフでもある。
そんな二人が学院にいないということは、コーナー家への魔物侵攻の脅威度が跳ねあがったということだろう。
「それってかなりマズいんじゃないの?」
「うん。先生達が危険に巻き込まれることも充分に考えられるからね」
いや、あの二人に限っては大丈夫だろうと、エリカは思う。コーナー家とは違い、オリヴァー家はスタンフォード家と良くも悪くもライバル関係にある。王国の貿易と防衛の要である商業港と軍港をそれぞれ持つことでにらみ合いが代々続いているが、それ故にお互いの能力や実力は把握している。
二人が動いたなら問題はないだろうと安心したエリカは、意識を親友達に向ける。彼女達の絵しりとりはいつの間にか、自分が知っている魔法陣の見せ合いになっている。
「これは知ってる?」
「疲労回復でしょ。これはどう?」
「私の実家は商会だって覚えてないの?収納は小さい頃から見慣れてるから」
楽しそうにやり取りしている二人を眺めていると、グロリアが声をかけてくる。
「エリカは魔法陣に詳しいの?」
「うーん。一応詳しい方だとは思うけど」
「じゃあ、一緒にやろうよ」
「そうそう。グロリア相手だと余裕過ぎて退屈だったんだよね」
「はーん。そんなこと言って本当は焦ってた癖に」
くだらないことを言い合いながら、三人は魔法陣を書いては見せ合いをしていく。ある程度進んだところでナタリアが手帳を取り出し、それを見ながら一つの魔法陣を書いた。
「ねえ、この魔法陣なんだけど二人とも知ってる?」
「え、知らないの?」
「うん。家の倉庫で見つけたんだけど、家族も知らなくてさ。多分、かなり昔に収められたんだと思う」
「うーん。見たことがある気がするんだけど……」
エリカはその魔法陣に見覚えがあったが、それがどういう効果を持っているかは思い出せなかった。
「見たことあるってのがすごいよ。さすがっす、エリカ先輩」
ナタリアのおどけた口調にエリカとグロリアは噴き出した。その時、どすっ、どすっと重い足音が聞こえて三人は振り返った。
「あれ?なんでゴーレムが?」
グロリアはきょとんとしている。後ろにいたはずのゴーレムがこちらに近づいていた。
「何だか嫌な予感がするんですけど」
ナタリアが引きつった笑みを浮かべる。無意識のうちに絵しりとりや魔法陣を書いたノートを隠そうとする。
その時、ナタリアの手帳がぼんやりと明るくなり始めたことにエリカは気付いた。見ると、先程の魔法陣が発動しようとしている。
「ナタリア!」
慌ててエリカが注意するが、魔法陣は青い光を放つとエリカ達をぼんやりと包み込む。そこへゴーレムが手を伸ばしてくるのが見えたところで、エリカの視界は真っ白になった。
まだ目はチカチカとしている。ただ、周りの様子から自分達が教室にいないのは分かった。
「転移の魔法陣……」
今更ながらに思い出す自分に嫌気が差しつつも、エリカは他の二人を探す為に声を上げた。
「ここにいるよ」
「私も」
ナタリアとグロリアが返事した時には視力は回復していた。エリカはゆっくりと辺りを見回す。
そこは地下室だった。だが、空間そのものはとても広く、息苦しさは感じられない。
「二人とも大丈夫?」
「うん」
「大丈夫。こっちのゴーレムはダメみたいだけど」
二人ともショックを受けているようだが、それ以外に問題はなさそうだった。
ナタリアのそばでは、ゴーレムが完全に岩に戻ってしまっている。
「ナタリア。手帳はある?」
「あるよ」
「ちょっと貸して頂戴」
ナタリアから受け取ったエリカは、魔法陣に魔力を込める。だが、魔法陣は反応しなかった。
「この魔法陣だけど、ゴーレムに込められた魔力に反応して発動したみたい」
「え?じゃあ、三人で魔力を注ぎこんだら……」
「壊れてるみたい……。多分、転移する時ね。ゴーレムが腕を伸ばしてたから、その時に当たったか汚れたかして、壊れたんだと思う」
「嘘でしょ」
魔法陣は術者が意識的に魔力を込めて使うものだが、稀に周りの強い魔力に反応してしまうことがある。
そして魔法陣の内容が高度で複雑になればなる程、小さな汚れやキズなどがついた途端に文字通り使い物にならなくなることが多かった。また、魔法陣は発動する度に必要な魔力量が増えていくので、高度なものになると一回限りの使い切りになることもあった。
「ノートの方は?」
「うーん……。全然ダメだね。反応しないや」
「こんなことになるんだったら、丁寧に書いておけばよかった……」
ナタリアが落ち込む。
「魔力が無くなったから岩に戻ったのね」
ゴーレムの残骸を見ながらグロリアが残念そうに言う。
「でも転移先がナタリアの家でまだ良かったよ。移動には時間がかかるけど、何とか学院には戻れる距離なんだし」
「ちょっと待って。ここは私の家じゃないよ」
「え、どういうこと?倉庫にあった魔法陣を写したんでしょう?だったら転移先はそこになるんじゃ……」
「家の倉庫には地下室がないんだよ」
重苦しい沈黙が辺りを包み込んだ。グロリアが段々と落ち着きをなくしていく。
「え、それじゃあ、私達はどこか分からない場所に閉じ込められてるってこと?」
「そうなるね……」
ナタリアも声に張りがなくなっていく。
「エリカぁ……。どうしよう……」
「とりあえずここから出よう」
情けない声を上げるナタリアにエリカが答える。だが、その声は少し遠く聞こえた。
「出ようって……。てか、今どこにいるの?」
「こっちこっち」
エリカが魔法の光を浮かべる。いつの間にか二人から離れたところにいたようだ。
「ここに扉があるから外には出れるよ」
エリカの元に二人が急いでやってくる。その様子に苦笑するが、同時にホッとする。不安なのはエリカも一緒だった。
その木の扉は簡素な造りだった。恐る恐るエリカが扉を押すと簡単に開く。
扉の先には七段だけの小さな階段があり、階上の様子も見ることができた。
「ボロボロだね……」
階段を上がり切った三人は溜息をついた。部屋の隅には蜘蛛の巣がかかり、階段のそばに置かれてある木製のカウンターテーブルはところどころが腐っていた。
「王都にこんな廃屋ってあったっけ?」
ナタリアが努めて明るい声で言ったが、二人が無言で首を横に振るのを見て肩を落とすしかなかった。
外に出た三人は自分の目に映る光景に呆然とするしかなかった。周りは鬱蒼とした森が辺り一面に広がっているだけだった。
「森だね」
そう言うナタリアの声は低かった。明らかにテンションが下がっている。
気落ちする二人の隣でエリカは目印となる何かがないかを探していた。代わり映えのしない同じような景色が続く中、エリカは空の上に立ち昇る細い煙を見つけた。
「見て!あそこに煙があるよ!」
「人がいるのかも!」
「他に行く当てもないし、行くっきゃないよね」
不安がないと言えば嘘になる。ただ、それを上回る期待と希望を抱いて三人は歩き始める。細く黒い煙を目指して。
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コーナー男爵は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべていた。その隣では王室からの伝令が恐怖に打ち震えている。
そこにあったのは村ではなく、戦場だった。
建物は倒壊するか炎上しており、地面のところどころに大きな穴が開いている。村の防衛に来ていた兵士達の死体はまだ回収し切れていなかった。
「被害状況は」
「一個中隊が全滅。増援部隊は何とか撤退に成功しましたが、被害は甚大。冒険者パーティーは一つが壊滅し、もう一つは領民の避難活動中に半数を失いました」
部隊長の一人が報告する。装備の至る所に傷やへこみが目立っている。その表情は暗く沈んでいた。
「領民達は?」
「死傷者多数。重傷者を中心に第一陣をサンスキンへ移送しております」
「分かった。ご苦労だった。今は休め」
部隊長は敬礼するとその場を去った。その足取りは重かった。
コーナー男爵は村の中央に立てられた見張り塔に上がる。高所から見える景色は村を襲った脅威の凄まじさを違った角度から見せつけてきた。
それを一つ一つ目に焼き付けながら、コーナー男爵は自身の喉に魔法をかける。
「諸君」
コーナー男爵の声は辺りに響き渡った。動ける者は皆、見張り塔へ頭を向ける。コーナー男爵は一人一人に視線を配りながら語り始める。
「諸君。我々は大きな危機に直面している。
魔物の正体はデーモンスパイダーだと判明した。そう、伝承でしか記録が残っていないあの魔物だ」
この言葉に兵士の多くがざわつく。デーモンスパイダーは過去にも猛威を振るっているが、最後に確認されたのは百年以上前のことだった。
魔物は基本的に短命である。それは災害級の魔物と称されるデーモンスパイダーも同様で、そのことは歴史が証明していた。人の言葉を話し、魔物を使役することができ、自身も強固で強力な存在だ。数年もかからずに多くの国が壊滅的な被害を受けただろう。だが、実際はそうではない。
だからこそ皆、浮足立つ。出会うとは思っていなかった化け物と相対することになると、誰もが予想だにしなかった。
「だが、そんなことは今更関係無い。この戦場と化した村を見れば一目瞭然だ。恐らく一つ目の村も二つ目の村も似たような状況だろう。
私達は災害級の魔物と戦っているのだ。今、この時代に、この場所で。もしかするとここに来る前に鉢合わせていたかもしれない。だが、それはなかった。だからこそ、今こうして諸君一人ひとりの顔を見ることができている。
不意をつかれずに済んだのは非常に幸運なことだろう。だが、我々が少しの間とはいえ幸運に恵まれている裏側で、不幸に見舞われているところもある」
何人かの兵士がハッとした表情を浮かべたのが目に入って、コーナー男爵は思わず下唇を噛んだ。やはり家族か知り合いがいるのだなと思うと、気が重くなる。
「我々と鉢合わせていないことから、デーモンスパイダーは城塞都市カービンに向かっているはずだ」
コーナー男爵はうつむく。これから口にする言葉がどれ程冷酷なものになるかを考えると胸が締め付けられる。だが、王国から領地を与えられ、そこに住む領民達の安全を守る立場にある者として心を鬼にしなければならない。
「我々に残された選択肢はたった一つだ。これよりカービンに向かい、デーモンスパイダーを挟撃する。
恐怖で足がすくむだろう。絶望に震えるだろう。だが、ここで我々が引き返しても脅威が消える訳ではない。このような恐怖を味わうべきでない領民達が再び立ち上がり、辛い記憶を乗り越え、新たな一歩を踏み出す為に、私達は最後まで戦い続けなければならない。
それに良い知らせもある。オリヴァー家当主が直々に増援に駆け付けてくれるとのことだ。
だからこそ我々はやり遂げねばならない。そして証明せねばならない。自らの手で平和を掴めることを!」
コーナー男爵が片手を上げる。兵士達が鬨の声を上げて答える。
新たな熱気に彩られた村の中をコーナー男爵は歩いていく。王室からの伝令が駆け寄ってくる。
「男爵。感服致しました。デーモンスパイダーの所業を見ても尚、皆の士気がここまで上昇するとは」
感激した表情を浮かべる伝令の隣で、コーナー男爵は静かに呟いた。
「私は残念でならない。本当に残念だよ」
コーナー男爵の嘆きは今も続く鬨の声にかき消されて誰の耳にも届かなかった。
そしてそんな男爵をジッと見つめる一人の女性兵士がいた。
彼女は魔物襲来を告げたエルフの女性を世話していた。エルフの女性の話は荒唐無稽で冗談にも聞こえなかったが、実物を目の当たりにしてすぐに考えを改めた。
しかしその代償は大きく、彼女の左足は使い物にならない状態になってしまった。
そして、代償はそれだけではなかった。
彼女は足を引きずりながら建物の残骸の撤去や斃れた兵士達の回収を手伝っていく。王室からの伝令は急ぎ王都に引き返し、コーナー男爵は部隊を再編成し、城塞都市へ決死の行軍をする決意を固めている。だが、その奥に深い苦悩が隠れていることを彼女は自分の中にある目から見抜いていた。
彼女は今すぐ男爵の元に駆け寄って、彼を安心させてあげたかった。耳元でこうささやくだけでいい。
「大丈夫。そっちには行かないから」
彼女はニヤリと笑う。早くこの皮を脱ぎ捨てて、獲物を狩りに行きたくて仕方なかった。
次回投稿は27日(水)7時です!