二 コーンウェル伯爵夫人の晩餐会
空に広がる雲は厚みがあり、どんよりとしたねずみ色が見渡す限り続いている。その下では、町を行き交う人々が暗い表情を浮かべていた。
雨が降るなら降る。降らないなら晴れる。白黒はっきりとつけてくれば良いのにと思いながらも天気は晴れることも崩れることもなく曇りのままで、エリカはしかめっ面を頭上に広がる雲に向けるしかなかった。
馬車が揺れる。地面に石でも転がっていたのか、揺れは大きくエリカは顔をしかめた。サスペンションの調子が悪いのか、鈍い痛みがお尻の辺りに広がっていく。痛みを和らげる為にエリカは座り直そうとするが、ドレス姿ではそれもままならない。
「エリカ、そんなに緊張しなくても大丈夫よ。コーンウェル伯爵夫人は素敵な方だから」
向かいの席に座る母親のアステリアが声をかけてくる。もぞもぞと動くエリカの姿を緊張によるものと勘違いしているようだった。エリカは曖昧に微笑むと、馬車に付けられた窓の外に視線を送る。
コーンウェル伯爵夫人はロンドンの社交界をざわつかせる女性の一人だ。貴族である以上、舞踏会や晩餐会といった集まりは必要不可欠なものだが、伯爵夫人は人付き合いが苦手だからと、そのような場へ滅多に顔を出さないし、自身で開催することもほとんどなかった。普通であれば、そのような振る舞いは上流階級のグループから爪弾きにされるが、伯爵夫人に関してはそれが当てはまらない。
そして、コーンウェル伯爵夫人が晩餐会を開催すると決めた時は社交界に激震が走る。彼女は決まって貴族だけでなく平民も招待するからだ。それも著名な人物だけでなく「町のお医者さん」のような、親しみやすいけれど知名度が高い訳ではない人物も対象に含まれる。また、その招待は突拍子もない方法で行われることで有名だった。
何でも変装した伯爵夫人が自ら訪れ、招待相手に直接招待状を渡すらしい。そしてその変装は多岐に及び、冒険者のような装いのこともあったという。
これ程イレギュラーな振る舞いを重ねていても社交界に多大な影響力を有しているのは、彼女が長命な吸血鬼で、かつては王室にも出入りする程の存在だったからだ。歴史の授業でも馴染み深い伯爵夫人に直接会う機会があることは大変な名誉とされている。
そんなコーンウェル伯爵夫人だが、何故かスタンフォード家とは親交が深いらしく、数少ない集まりには決まって招待されている。ちなみに今回の晩餐会は女性だけが招待されており、現当主で父親でもあるアルフレッドは伯爵夫人の型破りで突飛な振る舞いにひどく気落ちし、自身の妻と娘が馬車に乗って伯爵夫人の元へ向かう姿を未練たっぷりに見つめていた。そして、今回が初めての参加となるエリカ自身はそんな父親を微笑ましく見つめ返したものだった。
程なくして馬車は進路を変える。屋敷へと続くなだらかな一本道に入ると、エリカは自身を悩ませていた鈍い痛みが薄れていくのを感じた。揺れがほとんど無いのは道がしっかりと清掃されているからで、敷地外のところにまで行き届いているのはコーンウェル伯爵夫人らしい心配りだった。
「お母様。あのお屋敷がコーンウェル伯爵夫人の?」
「ええ、そうよ」
屋敷というよりは豪邸と言った方がイメージしやすかった。門番に守られた大きな門をくぐると広々とした車止めがある。その中心には噴水があり、馬車に乗っている人物があふれ出る水が織りなす景色を楽しめるような工夫が凝らされている。
馬車が止まる。扉を開けると玄関に女性が立っているのが見えた。照明代わりに点けられている大きなかがり火の前に立っているせいで逆光になり、顔が良く見えない。そんな彼女に向かって、先に降りたアステリアが挨拶する。
「こんばんは、コーンウェル伯爵夫人。この度はご招待頂きまして感謝しております」
「アステリア。私達の仲なんだから、そんな堅苦しい挨拶は抜きにして頂戴な」
貴族なら絶対に言わないようなことを言って、その女性はアステリアに歩み寄る。
アステリアは微笑んでごまかすと、エリカに向き直る。
「エリカ。こちらがコーンウェル伯爵夫人よ。挨拶なさい」
「初めまして、コーンウェル伯爵夫人。エリカ・スタンフォードと申します。この度はご招待頂きまして感謝しております」
「こんばんは、エリカさん。招待を受けてくれて感謝しているわ」
女性がにこりと笑う。何から何まで規格外だった。
スタンフォード家の爵位は子爵なので、爵位が上である伯爵夫人の誘いに応えるのは当然のことである。それなのに目の前の女性は純粋に自分の元へ訪れたことを喜んでいた。その裏表のなさと飾らない性格に、エリカはふと前世のことが懐かしくなる。異世界とはいえ厳然たる階級社会だからこそ、その人柄が眩しく目に映る。
コーンウェル伯爵夫人が二人を屋敷へ案内する。
玄関ホールは客人が最初に足を踏み入れる場所である為に、インテリアも凝ったものになっている。だが、ここは驚くほど質素で、暖炉も無ければ肖像画も飾られていない。申し訳程度にソファがぽつんと置かれているだけである。
気の利いたことを一つや二つ言わねばと思っていたエリカは拍子抜けしてしまい、何を会話の糸口にして良いか分からずどぎまぎしている。その様子をアステリアが微笑まし気に見ている。どうやら誰もが一度は通る道らしい。
「さあ、この扉の向こうが応接間よ。先にいらしている方々を紹介するわ」
伯爵夫人が楽しそうに扉を開く。
応接間には身分や種族関係無く数人の女性が思い思いの場所にいた。その中に見知った顔があったエリカは思わず目を丸くする。
「グレゴリー先生」
「あら、エリカさんじゃないの」
薬草学の教授であるリサ・グレゴリーがエリカをジッと見つめた。見慣れないドレス姿は美しかったが着ている本人は自信なさげだ。眼鏡の奥に見える瞳は安堵の光をたたえている。
元Aランク冒険者であっても、貴族が中心の集まりに顔を出すのは大変ストレスがかかることらしい。不安からか杖を強く握り締めていたのだろう。左手はまだ血管が浮き出ていたが、見るからにグレゴリーはホッとした表情を浮かべていた。
コーンウェル伯爵夫人は満足げに頷くと、室内にいる人達に二人を紹介し始める。
「皆さんにご紹介しますわ。こちらは親友のアステリア・スタンフォード。隣の可愛らしい女の子がエリカ。アステリアの一人娘ですわ」
かつてこれ程短く雑な紹介があっただろうかと思いながらも、エリカは室内にいる先客達にカーテシーを行った。その隣ではアステリアが、親友と紹介されたことへの感動で打ち震えている。
そんなアステリアを嬉しそうに見つめると、今度は先客達の紹介を順に始める。
「窓際に立っていらっしゃるのがグラスコット子爵夫人。確かアステリアは面識があったわよね?私は今日初めてお会いしたけれど、園芸の知識の虜になったわ。次に、暖炉の前にいらっしゃるのはミランダさん。彼女が作るパンは絶品で、下町一って評判なの。私もファンの一人なんだけどね。花瓶の近くにいらっしゃるのはブラナー男爵夫人で、話の引き出しが多いのよ……」
その後もコーンウェル伯爵夫人の紹介以上の解説は続き、その間エリカ達も先客達もどぎまぎするしかなかった。
新たな訪問客が訪れ、コーンウェル伯爵夫人は退室する。ようやく一息つけると胸をなでおろすエリカの左側からグラスコット子爵夫人が歩み寄って来た。
「まあ、アステリア。あなたとここで会えてホッとしたわ」
「私もよ、ケイト」
二人は小さい頃からの友達で、よく互いの家を行き来してはお茶を楽しんだり花を愛でたりしている。エリカも何度か挨拶しており、しばし三人の間には和やかな雰囲気が漂っていた。
緊張が随分と和らいだエリカは応接間を見回す。ブラナー男爵夫人を初めとする貴族ばかりのグループと、グレゴリーが中心になった平民のグループとで綺麗に分かれている。いくら伯爵夫人が先進的な価値観の持ち主とはいえ、普段は決して直接顔を合わせない関係同士どうすれば良いのか戸惑うのは仕方ないことだった。
だが、前世は一般人だったエリカにとって身分の違いは足かせにならない。それこそ、よく通うスーパーのなじみの店員に会釈するような気軽さでエリカは平民グループの元に向かい、普通に挨拶する。
「こんばんは。エリカです。皆さん、今日はよろしくお願いします」
「まあ、お嬢様。えっと、その……」
貴族が平民に挨拶してきて、全員がしどろもどろになる。その中で顔見知りのグレゴリーは気さくに挨拶を返してくる。
「こちらこそよろしくお願いしますね」
そしてグレゴリーは他の平民達に改めてエリカを紹介する。最初は緊張していた他の人達もグレゴリーのフォローとエリカの気さくな応対に緊張がほぐれたのか、徐々に会話に馴染んでくる。
「随分と楽しそうじゃない、エリカ。わたくし達も会話に混ぜてくれないかしら?」
アステリアが話しかけてくる。それをきっかけにブラナー男爵夫人達のグループもこちらにやって来る。どうやら話しかけるきっかけが欲しかったらしい。
その後も新たな招待客がやって来る度に親睦の輪は広がっていった。出会ったばかりの頃は緊張で固まっていたミランダも、今ではパンの作り方のコツを貴婦人達に紹介している。
しばらくすると執事が現れ、全員を食堂に案内する。そこの内装もとてもシンプルで飾り気がなかった。
テーブルの奥にはコーンウェル伯爵夫人が腰掛けている。彼女の近くに座るのは名誉なことである一方で、遠慮したい気持ちも生まれる。何しろあのコーンウェル伯爵夫人である。貴族のしきたりが通用しないが故にどのようなサプライズがあるか分からない。
執事の案内で一人ひとりが席に着いていく。伯爵夫人に近いところにはアステリアとグレゴリーが誘導され、それを見ていたエリカを初めとする他の貴族達はある意味真っ当な席の配置に胸をなでおろした。
アステリアは伯爵夫人の左手側に座り、そこから爵位順に貴族が並んでいく。反対側はどのような順番か分からないが、全員の表情を見る限り誰もが納得のいく配置だったようだ。
「皆さん。今日はお集まり頂いて感謝しています。さあ、今日は存分に召し上がって」
伯爵夫人の簡潔過ぎる挨拶を合図に、メイド達が大皿を持って現れる。それらは一旦サイドテーブルに置かれ、執事とメイド長が取り分けていく。
食事は大変豪華なもので、一般的な晩餐会の品数以上でボリュームもあった。特に子羊のカツレツは通常の二倍はあり、貴族も平民も関係なくその量に圧倒されていた。だが、会話自体は驚くほど弾み、互いの身分を忘れて談笑し合う光景がテーブルのあちこちで広がっていた。
楽しいひと時はあっという間に過ぎ去り、デザートの時間になる。デザートを食べ終えると居間に移動し、紅茶を楽しむ時間となる。
執事の案内で全員が移動していく中、エリカは伯爵夫人に呼び止められた。
「エリカさん。ちょっとお待ちになって」
突然のことにエリカは驚くが、アステリアは安心させるようにエリカの肩に手を置いて微笑むと、他の招待客に続いて部屋を出ていった。
「驚かせてごめんなさいね。でも、個人的にお話したいこともあったから」
伯爵夫人が右手を差し出すと、いつの間にかエリカの後ろに立っていたメイド長が彼女に紅茶を用意する。伯爵夫人自身は赤ワインの入ったグラスを持っている。
伯爵夫人は一口ワインを飲むと、エリカに笑いかける。
「オズワルドはお元気?」
「え、先生をご存知なんですか?」
「面白いことを言うわね。彼はドラゴンで私は吸血鬼よ?長生き同士親しくなるものなのよ」
長生き同士というがその期間が普通ではない。彼女は吸血鬼の中でも長命で、その半生で確認されていることの代表的なものが百年前に今の伯爵夫人の地位を得たことだ。
「まだ私が小さかった頃、オズワルドに魔術の手ほどきを受けたの。その時は面倒になって、隙を見てはよく逃げ出していたのよ」
そう言うと伯爵夫人の姿が急に見えなくなる。
「不可視の呪文ですか?」
「そうよ。よく知っていたわね?確かこの呪文は上級魔術学で習うものだから、あなたの歳で知っている人はほとんどいないわよ」
「先生に教わりまして……。まだ使いこなせてはいないのですが」
「使いこなせる方がおかしいんだけどね」
姿を現した伯爵夫人が苦笑いを浮かべる。その後もオズワルドの厳しい授業の愚痴などをこぼし合っては互いに慰め合い、話は盛り上がった。
当時の伯爵夫人が癇癪を起こし、屋敷の上空にドラゴンの形をした花火を打ち上げた話に腹筋を痛めている時に執事が現れ、彼女に耳打ちする。彼女は軽く呼吸を整えるとエリカに向き直った。
「もう時間みたい。私達も居間に移りましょうか」
「はい」
伯爵夫人に腕を取られたエリカはエスコートされるようにそのまま居間へ移動する。そちらはそちらで和やかに話が進んでいたようで、アステリアがコーンウェル伯爵夫人に親友と紹介された理由について様々な憶測が流れているところだった。
「あらあら、楽しそうなお話。私達も混ぜて頂戴な」
上機嫌で会話の輪に入っていく伯爵夫人を眺めながら、エリカは早くも次の集まりへの招待が待ち遠しく思えてならなかった。
次回は18日(月)の午前7時投稿です。