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五 エリカの苦悩

 伯爵夫人と予期せぬ再会をしたその日の夜。

 エリカは寝室でまんじりともせずに天井をぼんやりと眺めていた。


(どうしてこんなことに……)


 かつてのエリカなら義憤に駆られて伯爵夫人の助けになろうとしていただろう。だが、今の彼女は怒りに燃える次期当主でもなければ、単なる学生の一人でもなかった。


 エリカはその日何度目か分からない寝返りを打つ。


 前世から眠る際は明かりを点けない派だったエリカだが、今は囲いに覆われた蝋燭の火がぼんやりと室内を照らしている。完全に真っ暗だと子供達の夜泣きが激しくなるのだ。


(まさか行燈の真似事をすることになるなんてね)


 子供達に危険が及ばないよう寝室の隅に設置された蝋燭の明かりと、壁に映るその炎が揺らめく影に目を向けながらエリカはまた寝返りを打った。


「眠れないのかい?」


 隣にいるデイヴィッドが小声で話しかけてくる。小声なのは近くで眠っている子供達を起こさない為だ。


「起こしちゃってごめん」


 エリカも小声で応じると、デイヴィッドの頬をそっとなでた。

 その手をそっと受け止めながらデイヴィッドはエリカを見つめる。


「伯爵夫人の件で悩んでいるんだろう?」

「まあ……ね」


 エリカはごろんと仰向けになると、また天井を見つめる。その脳裏には伯爵夫人との会話が蘇っていた。


「もし一日経っても私が姿を見せなかったら、後のことをお願いしたいの。こんなことを頼めるのはあなたしかいないわ、エリカさん。どうか力を貸して頂戴」

「ええ、シェリルのことはお任せください」


 頭を下げる伯爵夫人にエリカは答える。だが、含みのある言い方に気付かない伯爵夫人ではなかった。


「武装蜂起の件は頼めそうにない?」

「お力添えしたいのはやまやまですが、今の私には守るものが多過ぎるのです」


 エリカは頭を下げる。伯爵夫人が自分を頼りにするほどの事態だと理解はしているが、裏を返せばそれだけ危険が大きいということだ。

 口が裂けても言えないが、エリカからすれば生まれてまだ日も経っていない子供がいる家庭を勝手に巻き込もうとするなという気持ちだった。


 そのことを伯爵夫人自身も理解しているようで、バツの悪そうな顔を浮かべた。


「そうよね……。無理を言ってごめんなさい」

「いえ、こちらこそお力添えできず申し訳ございません」


 その時になってシェリルが口を開く。だが、その声音は非常に冷たかった。


「お母さんが頼んでるのにどうして力を貸してくれないの?昔のエリカならすぐに助けてくれたじゃない」

「シェリル……」

「もういい」


 珍しく伯爵夫人はオロオロとしていた。エリカも親友が今までに見せたことのない表情を浮かべていることに驚きを隠せなかった。


 エリカは思い返す。あの時のシェリルの目が姫島晴夏だった頃の自分の目と同じだったことを。


 そのまま無言で去っていったシェリルに声をかけられなかった自分をエリカはひたすら悔やんでいた。


「エリカが気に病むことはないさ。こう言っちゃ何だけど、エリカは伯爵夫人の使い勝手の良い駒じゃないんだからね」

「そうだけど……ね」

「シェリルも分かっているよ。自分達がどれだけ無茶ぶりをしているかって」

「……」


 いつになく厳しい声音でデイヴィッドは言う。確かに彼の言うことは正論なのだが、そうと割り切れないものが自分の中にあるのがエリカは辛かった。


「……まあ、気にせずゆっくりと休まないと。明日も早いんだろう?」

「ええ、そうね。寝ることにするわ」

「眠れそうになかったら目を閉じておくだけでも良いよ。それだけで身体の疲れは取れるからね」

「……うん」


 エリカは静かに答える。デイヴィッドはしばらくの間エリカの様子を窺っていたようだが、程なくして規則正しい寝息を立て始める。

 それを聞きながらエリカは伯爵夫人との会話の続きに思いを馳せる。


 シェリルが去った後、取り残された二人の間に漂うぎこちない空気を何とかしたい思いで話を振ったエリカだったが、そのやり取りはデイヴィッドにも話していなかった。そしてその内容は、シェリルのことと同じくらいエリカの心に引っかかっていた。


「さっきの話ですが、パーカー先生はどうされているのですか?同じく王都に?」

「え?どうしてジュリアが?」

「お会いになられていないのですか?」


 エリカは説明する。少し前からジュリア・パーカーがウッドバーン家とゴールドグラバー自由都市同盟の動向調査として北部に駆り出されていることを。

 話を聞くにつれ伯爵夫人の顔色がみるみるうちに青褪めていく。そして最後まで聞き終わらないうちに伯爵夫人は席を立った。


「こうしちゃいられないわ。急いで引き上げさせないと!」

「ちょっと、ルーシーさん!」


 エリカは慌てて彼女を引き留めようとする。だが、その時には伯爵夫人は駆け出しており、エリカも彼女を引き留められなかった。


(いえ、引き留める気になれなかったのよ)


 エリカは大きく溜息をついた。

 どれだけ言い繕っても自分の気持ちは他ならぬ自分自身が理解している。要は危険から遠ざかっただけなのだ。そしてそれは正しい判断だった。


 それでもモヤモヤとしたものが残っているのは、危険の渦中にいるのが自分の知り合いだからだろう。


(私が望んだことじゃない)


 エリカはそう自分に言い聞かせる。今の自分は伯爵であり学院で教鞭も執る身だ。それに生まれたばかりの子供だっている。自ら危険に飛び込むつもりはさらさらなかった。


 エリカはデイヴィッドと子供達を起こさないよう最大限の注意を払ってベッドを抜け出す。一瞬、シーツの衣擦れの音がしてエリカは硬直するが、デイヴィッドの寝息のリズムは変わらないままだった。


 続いての難関である子供達の傍もそっと通り過ぎ、三人が健やかに夢の世界にいることを確認する。その安らかな寝顔がとても羨ましかった。


 静かに寝室を抜け出したエリカは廊下の壁に背を預けた。夜ならではの冷たい空気が堂々巡りの思考をクリアにしてくれる。


(私は最善の選択をした)


 まだ自分に言い聞かせている節はあったが、それでも罪悪感はいくらか薄れている。


 少しだけ気が楽になったエリカは、途端に喉の渇きを覚える。それほど緊張状態にあったのだろう。

 エリカは水を飲みに厨房へと向かう。全員が寝静まっているこの時間なら気を遣うこともない。


(あれは……?)


 階段を下りている時、エリカは微かな気配が階下にあるのを感じ取る。物音を聞いたわけでも何かの影を見たわけでもないが、誰かがいるのは確実だった。


 エリカは静かに自分自身に不可視の呪文をかけると、気配の正体を探りに行く。こんな時間に屋敷の中をうろつく者は使用人達の中にも家族の中にもいなかった。


(どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの)


 エリカは拳を硬く握り締める。今の彼女は武器になるものを持っていなかったが、その不利を感じさせないほどの闘気に満ち満ちていた。


 階下を物色している気配はエリカに気付いていない様子で、エリカは息を殺してその瞬間を待った。

 全身をローブで覆ったその気配はゆっくりと階段に向かってくる。それを真正面から見据えたエリカはタイミングを見計らうと、一気にローキックを繰り出した。


「……ッ!」


 階段の途中まで来たところで足首の辺りを襲った衝撃にローブの侵入者は体勢を崩す。それでも声を上げなかったのは大したものだが、エリカの追撃を躱すことはできなかった。

 身を屈めて駆け出すように体当たりしてきたエリカの体重をさばくことはできず、侵入者は階段を転がり落ちていった。


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