四 プロトタイプの試験走行
前世であれば四月の初めは新生活の象徴である。しかしエリカにとってその日は新時代の幕開けと言うべき一日だった。
ベアトリスから連絡を受けていたエリカは、本来ならば休日であるのにも関わらず、学院の敷地内にある蒸気機関学専用の大規模研究スペースに足を運んでいた。
「お呼び立てして申し訳ございません。スタンフォード卿」
今や同僚にして先輩教授という立ち位置にありながらも貴族に対する口調へ切り替えているのはパトロンへの敬意を込めてのことだろう。そんなベアトリスにエリカは期待を膨らませる。実際、彼女は頬を紅潮させていた。
「試作車が完成しましたのでご覧頂きたく思いまして」
「完成おめでとうございます。この日を心待ちにしておりました」
胸が高鳴るのを感じながらもエリカは努めて平静を装う。それでも普段から窮屈に感じている貴族としての口調が今は煩わしくて仕方なかった。
「では、こちらへ」
ベアトリスの案内を受けてエリカは研究スペースの奥へと向かう。そこにあったのは以前エリカが図面上で目にしたものだった。
見た目は馬車のワゴンの部分が数台連結されただけの無骨で粗削りなデザインだが、先頭にあつらえられた運転スペースには大人が四人がかりで抱えても運べなさそうなほどに大きな蒸気機関が鎮座している。
「……!」
その姿を見てエリカは感嘆の溜息をもらした。
「マッコード先生。この蒸気機関車は走れるのですか?」
「理論上は問題ありません。蒸気を送るシリンダーや制御装置のテストは何度も繰り返していますし、馬車をそのまま転用しているので強度も心配ありません。沸騰させる水の調整も」
「マッコード先生」
熱中するあまり話をいつまでも続けそうなベアトリスをエリカは優しく押しとどめる。我に返ったベアトリスは恥ずかし気な笑みを浮かべるとエリカを見た。
「えっと……何でしたか?」
「この蒸気機関車はもう走れるのですか?」
「はい。その試験走行をこれより実施しようと!」
満面の笑みを浮かべるベアトリスを見てエリカは急に冷静さを取り戻した。
「マッコード先生。試験走行はまだなのですね?」
「はい。その記念すべき栄光はスタンフォード卿にこそ相応しいかと」
気付かれないように注意したが、エリカは自身の頬が引き攣るのを感じざるを得なかった。
熱心な研究者になればなるほどパトロンの機嫌を取ることを忘れなくなる。どういった内容にせよ研究には金がかかる。国や学院から支給される研究費は充分な額だが、資金は多ければ多いほど良い。
その手助けをしてくれるのが貴族や有力商人といったパトロンで、研究者達は彼らが喜ぶサービスを用意することを忘れなかった。
普通であれば初めて完成した蒸気機関車の試験走行の機会を与えられるのはパトロンとして最高の特権の一つだろう。
だが、こと安全性に対しては慎重な姿勢を徹底しているエリカからすると、ベアトリスのサービス精神はありがた迷惑に過ぎなかった。
エリカは必死に頭を巡らせながらもベアトリスに微笑む。
「とても嬉しいお話ですわ。ただ、これほどの素晴らしい機会をわたくし達だけで見届けるのは実にもったいないことだと思うのです。ここは、他にも何人か先生方に立ち会って頂きませんか?」
「立ち会いですか?」
ベアトリスが首をかしげるが、不測の事態に備えたいエリカとしては頑として譲るつもりはない。
「ええ。せっかくの機会ですから。わたくしとしてもマッコード先生の輝かしい成果を皆さんにも見て欲しいと願っております!」
「わ、分かりました。それでは声をかけて参りますね」
エリカの勢いに押されたベアトリスが学院に戻ろうとするが、エリカは彼女を押しとどめる。
「わたくしが声をかけて参ります。マッコード先生は最後の調整をお願いします!」
そう言うや否やエリカは、ベアトリスの返事を待たずに急いでその場を立ち去った。
(危なかった……)
冷や汗をかきながらもエリカは目的の場所へと向かう。こういう時に頼れそうなのは彼女以外に思い当たらなかった。
「あら、エリカさん。今日は休日ですよ?」
私室兼研究室の扉をノックすると、部屋の主であるアイリーン・キャッスルが顔を覗かせた。
休みだからか、キャッスルは普段とは違って緩めの服装に身を包んでいる。そのギャップに心を若干奪われながらもエリカは用件を切り出した。
「お休みのところ申し訳ないのですが、キャッスル先生のお力が必要な事態が起こりまして……」
言葉を濁すエリカの表情を見て、キャッスルは自分が厄介事に巻き込まれつつあることを敏感に察した。
「その先を聞くのが怖いのですが、聞かなくてはなりませんか?」
「マッコード先生です」
「仕方ありませんね。聞かざるを得ないでしょう」
かつての同級生から全く信頼されていないベアトリスのことを少しだけ気の毒に思いつつもエリカは事のあらましをキャッスルに説明した。
事態を把握したキャッスルは浮かない表情でエリカに告げる。
「話は分かりました。ただ、私一人には荷が重いのでシャーロットにも声をかけましょう」
魔法薬学のシャーロット・コリンズも二人の同級生である。気心知れた者同士で信を置きたい気持ちも理解できるが、コリンズが不測の事態に即応できるかエリカは少しだけ不安だった。
二つ返事で了承したコリンズと共にベアトリスの元へ向かうエリカ達は途中、偶然出くわしたヴィクター・ソレンソンも半ば強引に引き込んだ。蒸気機関の前では等しく無関係だが、一人でも男手がある安心感には代えられないし、彼が初級魔術学と中級魔術学の担当であることもポイントが高かった。
「もし蒸気機関車が暴走したら、全力で止めてください」
エリカの懇願に三人は顔を曇らせ、せっかくの休日が台無しにならないことを心の底から祈った。
研究スペースに着いたエリカ達を出迎えたベアトリスは変わらず満面の笑みを浮かべている。愛おしそうに蒸気機関車のプロトタイプに手を差し伸べている光景はどこか狂気を孕んでいるようにも見えて、エリカは背筋を冷たいものが流れる感覚を覚えた。
「お待ちしておりました、皆さん!
スタンフォード卿のお力添えの下、遂に蒸気機関の研究に新たな一ページが刻まれることになりました!」
恍惚とした表情を浮かべるベアトリスの話を適当に聞き流しながらも、エリカは彼女の豹変ぶりに今更ながら呆れ返っていた。
(最初はびっくりするくらい消極的だったのに、研究に打ち込んだ途端これだから)
何かと理由をつけて蒸気機関車の研究を後回しにしようとしていたベアトリスの姿をエリカは遠い目で懐かしんでいた。
「では、これより試験走行を行いますので、皆さんこちらへ」
ベアトリスが杖を振るうと、研究スペースの壁の一部がゆっくりとスライドしていく。その先にはいつも見慣れている第二運動場が広がっていた。
「実際に乗り込んでみたい方は遠慮せずにどうぞ!」
馬車をそのまま流用しているのだから乗り心地は保証されている。それでもその場にいる全員が目の前の存在に乗り込むことをためらった。
「スタンフォード卿の席はこちらです」
ウキウキとしながらベアトリスはエリカを運転席の真後ろにあるワゴンへと案内する。逃げ場をなくしたエリカは腹をくくると、ゆっくりと乗り込んだ。
(もしもの時はお願いね)
憐れみの視線を向けてくる面々にエリカは悲壮な決意を込めた視線を送り返す。
「いざ!」
ベアトリスは運転席の蒸気機関にあるレバーの一本を引っ張る。それと同時に何やらシューっという音がし始めて、わずかにワゴンが揺れ始めた。
心地良さを感じたのは最初の方だけで、段々と激しくなる揺れに胸の辺りが少しむかむかとしてくる。
(もう少しスプリングをしっかりとしないとね)
早くもプロトタイプの欠陥を直視したエリカはうんざりとするが、次の瞬間にはそのことを忘れていた。
蒸気機関車はエリカが危惧していたようにいきなり暴走することなく、なめらかに発車した。
車窓の向こうの景色がゆっくりと動く様子に、それまでのマイナスの印象が一気に吹き飛んだエリカは一人拍手する。
「やった!成功よ!」
さすがはベアトリス。蒸気機関学の権威だと手のひらを返すエリカだが、すぐに景色の変わりゆく速さに気付いた。
それは普通の馬車の全速力を超えていた。
エリカは迷うことなく窓を開けるとキャッスル達を探す。見れば、必死の形相で自分達を追いかけているところだった。
「急いで止めて!」
拡声魔法で告げると、運転席からひょっこりとベアトリスが顔を覗かせる。
「もうですか?分かりました」
ベアトリスは事もなげに別のレバーを引く。その途端、ガクンという衝撃が伝わってきて、見るからにスピードが落ちてきた。
ホッとしたエリカは座席に深く身を沈める。やがて完全に停車した馬車の中で、エリカは二度と試験走行に立ち会わないことを心に強く刻み込んだ。




