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彼女は魔術と紅茶を楽しんで  作者: 賀来文彰
学生編 夏休みのこと
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一 夏休み初日

 七月である。


 長かった学年末テストも終わり、ついに夏休みが始まった。この期間にエリカは親友達と王都の散策をする約束をしており、シェリルとの魔術の勉強もしていく。そしてスタンフォード家の領地を見に行くことも決まっていた。

 これほどの楽しみが待っている夏休みを迎えたのに、エリカのテンションは上がらなかった。


 この照りつけるような暑さである。


 日差しは強く、少し庭園を散歩するだけで額に汗がにじむ。

 アルフレッドに至っては子爵としての誇りをかなぐり捨ててタオルを首元に巻き始めている。その様子を見かける度にアステリアからは強くたしなめられ、執事のカーティスからはやんわりと控えるように釘を刺されていた。


 エリカ自身は日本のじめじめとした梅雨の時期とうだるような蒸し暑い夏を経験しているので、アルフレッドの気持ちが痛いほど分かった。

 悲しそうに何度も何度も汗を拭う父親を見かねてエリカが見張りを買って出てからは、耐え切れない暑さに対抗する者同士の協定が結ばれた。そしてエリカがキュウリの一本漬けという夏の定番を教えてからは、親子の絆が更に強まっていた。


 その日もエリカとアルフレッドはアステリアとその指示を受けた使用人達の厳しい監視の目を潜り抜けて、台所から失敬した二本のキュウリを冷たい塩水に浸しては食べるという至福のひとときを過ごしていた。


「こんなにシンプルな食べ方があるとは未だに信じられん」


 シャクッという小気味良い音を響かせながら、アルフレッドがキュウリをかじる。


「貴族にはハードルが高い食べ方だと我ながら思いますわ。とはいえ、やはり丸かじりでないと、このみずみずしさが損なわれてしまいますから」


 一応の恥じらいを見せつつも、エリカは遠慮なくガブリとキュウリを食べる。


「確かに。だが、これはたまらんな」


 首に巻いたタオルで汗を拭きながらアルフレッドはもう一口キュウリをかじる。その姿はお昼頃の夏祭りで見かけるおじさんそのものだった。

 エリカ自身、色気より食い気な一面があるので、首にタオルこそ巻かないものの手に届く範囲にハンカチを置きっぱなしにしている。


 書斎は図書室と同じく、本が傷まないように日差しがあまり入ってこない、薄暗い造りになっている。なので、他の部屋に比べるとほんのりと涼しくもあるが、ダラダラと過ごしているのが見つからないように窓は閉めているので、暑さは残っている。


 そのせいかアルフレッドはシャツを第二ボタンまで開けて、少しでも涼を取ろうと頑張っている。はだけた肌にはタオルが巻かれているのでスカーフに見えなくもない。

 数日前、エリカにそう言われたアルフレッドは一度、しかめっ面のアステリアに対してそのままこれはスカーフの代わりだと伝えたことがあったが、アステリアは無言のまま持っていた扇子でピシャリと机を叩くことで返答とした。慌てて、ジョークだと言って逃げたアルフレッドの姿は見ものだったが、その眼差しが自分にも向けられてそそくさと退散したのをエリカは既に懐かしんでいる。

 それ以降、アルフレッドは「夏の特製スカーフ」を人目につかないところでこっそりと行うようになっていた。


 エリカ自身もそうしたいところではあるが、さすがに十代の少女の外見で首にタオルを巻くのは気が引けた。

 代わりに、遠慮なく風魔術と水魔術を用いて冷たい風を起こしている。これは前世での体験談が活きている。駅のホームにミストの噴霧器が設置されており、通勤ラッシュ時に作動したそれは利用者に少しの間、涼やかな時間を与えていた。

 その設備を思い出したエリカは水魔術で小さな水滴を生み出し、それを風魔術で自分に吹き付けている。


 こうしてゴロゴロと過ごすのも悪くないと思いながらキュウリを食べていると、書斎の扉をノックする者がいた。

 エリカとアルフレッドは、後ろめたいことをしている者同士の特有の目配せを行うと、それぞれの役割を果たしていく。

 エリカがキュウリの一本漬けを隠したのを見たアルフレッドは、その時には首元のタオルを隠してシャツのボタンも締め直し、扉の向こうにいる相手を招く準備ができていた。


「アルフレッド様。オズワルド様がお越しです」

「カーティスか。すぐに向かうと伝えてくれないか」

「それが、既にこちらへいらしておいでです」


 首をかしげるアルフレッドはとりあえず扉を開いてオズワルドを招き入れる。その瞬間、オズワルドが少し顔を上気させながらずんずんと室内へ入ってきた。そして呆然としているエリカに向かって歩み寄ると、大きく鼻から息を吸い込んだ。


「エリカ嬢。今回の学年末テストの結果に関してじっくりと話し合わねばなりますまい」


 怒っている顔ですらカッコ良いとエリカは思ってしまう。状況を考えるとそのようなことを思うのは不謹慎だが、見とれてしまうのは仕方なかった。

 オズワルドは好みのタイプにドンピシャだったのである。


 前世では海外の映画が好きだったエリカだが、その中でも特に好んで繰り返し見ていたロングセラーのスパイ映画の主人公にオズワルドは似ていたのである。

 その俳優のファンだったエリカからすれば、転生先の家庭教師が彼に似ているというだけでテンションが上がる。


 だから怒られていても、ついまじまじと相手の顔を見てしまう。だが、それは火に油を注ぐ結果になるのも自然なことだった。


「エリカ嬢。もっと真剣に考えて頂かなくてはなりません。控えめに言っても、あなたは戦闘面に関しては学院内で首席クラスの知識と力量を備えていると断言できます。それなのに何故、基本戦闘術がAマイナスなのですか。それと魔法史学もBでしたね。一体、どういうことなのですか」


 相手の剣幕に押されて、さすがにエリカも表情を引き締める。そして正直にその理由を話した。

 オズワルドは不服そうに聞いていたが、話が進むにつれ残念そうな表情を浮かべ始める。


「エリカ嬢。お気持ちはよく分かりました。デーモンスパイダーの一件で学院の教授陣から良くも悪くも注目されているから、不必要な誤解は避けたいというのも頷けることです。

 ですが、それ以前にあなたはスタンフォード家の次期当主なのです。三年間しか関わらない学院の関係者に気を回すのではなく、将来の子爵としてどう羽ばたいていくかを意識せねばならないのですよ」

「申し訳ございません。先生」


 シュンと項垂れるエリカに反省の色を感じ取ったのか、オズワルドは攻勢を緩める。


「まあ、初級魔術学のように想定以上の評価を得ているものもありますから、あなたへの理解者も多いでしょう。だから安心して実力を発揮されるべきです。むしろ、そうしないとそれこそあらぬ誤解を受けてしまいます」

「まあ、オズワルド。そのくらいにしてやってくれないか。娘も反省していることだし」


 アルフレッドが間に入る。怒っている側もどこかで落としどころを見つけたいと思っていることが多いので、アルフレッドのタイミングは絶妙と言う他なかった。

 普通ならこれで全てが丸く収まっていくところだが、オズワルドはドラゴンの中でも最も敵に回したくないエンシェントドラゴンで、アルフレッド自身もかつてはオズワルドから教えを受けていた一人だ。

 オズワルドの目が再び、厳しい教師のものに戻る。


「アルフレッド・スタンフォード。そう言えば、かつて初級魔術学でCを取ったことがありましたね。その時のように気が緩んではいませんか?」

「ハハハ。そんな訳ないじゃないか、先生」


 そう言いながらアルフレッドは暑さとはまた別のところから出てくる汗をそっとハンカチで拭った。

 オズワルドは呆れたように溜息をつくと、エリカに向き直る。


「いずれにせよエリカ嬢。この夏休みは忙しくなりますからそのつもりで」


 補修が決まるとテンションは下がるものだが、オズワルドと少しでも長くいたいエリカにとっては棚からぼたもちといった具合で、嬉しさのあまり小躍りしたい心境だった。だが、そんな喜びはおくびにも出さず、エリカは神妙な表情で頷いた。


 オズワルドはそこでようやくエリカへの説教モードを解き、普段の様子に戻る。エリカはそのままオズワルドと話し込みたかったが、当の本人からお父上とお話があるのでと先を越されてしまい、しぶしぶ書斎を後にした。


「あ、キュウリ……」


 廊下を歩いている最中、エリカは忘れ物を思い出す。だが、今の自分にはどうすることもできない。

 父が上手く立ち回ることを願いながら、エリカは次なる涼しい場所を求めて、屋敷の中をさまよい歩いた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 アルフレッドはオズワルドに椅子を勧めると、自分自身も腰掛けた。

 オズワルドは軽く右手を振るってから、椅子に身を沈める。


 大きな机を挟んで向かい合う二人の表情はどこか悩まし気だった。


「オズワルド。この屋敷ですら防諜魔法が必要か?」

「ああ。これでも物足りないくらいだよ」


 そう言うとアルフレッドの旧友は空中に水滴を生み出し、それを風で散らした。


「全く、見事な魔術師だよ。あの子は」

「家庭教師の教えが良かったのだろうね」

「そんなことはない。私は今まで通りのことを行ってきただけだよ。まあ、そのスピードは速かったかもしれないが」

「十歳の頃には『魔術史概論入門編』を読んでいたからね。その姿を見た時はアステリアと一緒に驚いたものだよ」

「貴族の典型的なおてんば娘がこうも聡明な少女に変容するとはね。正直に言って、君以上に苦労すると思っていたのだが」

「私は真面目な方だっただろう?」

「貴族の中ではね」


 クックッと笑い合うが、少しだけ身を乗り出した時にはオズワルドの表情が薄暗くなっている。


「王室のことは聞いているかね?」

「いや、全く。だが、何かあったことくらいは分かるよ。飛行船大量造船のことは何故か大々的に報じられていないし、学院では蒸気機関学とかいう科目が新設されるそうじゃないか。それも勅命でね。後、コーンウェル伯爵夫人が私達と友達になってくれと急に仰ったことも、何かあったのではないかと考えさせられる一因だよ」

「まあ、ルーシーのことはあまり気にしないで欲しい。長く生きていく中で散々嫌な目にも合ってきたからね。人との関わり合い方が少々不慣れなんだ」


 オズワルドはかつての教え子を、毒舌を交えながらもフォローする。


「だが、それ以外のことは君の見立て通りだ。この蒸気機関というものを強硬に進めようとしている者が王室の周りにいる。その者の目的が何かは分からないが、既に国王は取り込まれているようだ」

「オズワルド。いくら君とはいえ滅多なことを言うものではないよ」


 アルフレッドが右手を上げて制したが、オズワルドは肩をすくめるだけだった。


「仕方あるまい。あの口やかましい図書室の守護者がそう言うのだから、これは厳然たる事実だよ」


 話の内容がここまで深刻でなければ、アルフレッドはオズワルドとジェニファーの夫婦漫才をからかっていただろう。二頭のエンシェントドラゴンは昔から仲が悪いそうだが、その中身は子供のケンカと同じで、周りから見ればどちらも素直になり切れていないだけだった。

 彼らのいがみ合いはまるで、まだ恋を知らない学生のピュアな恋愛模様を見ているようでほのぼのとした気持ちになるのだが、今はその時ではなかった。


「彼女がそう言うとなると余程のことだ。王室の相談役の目をかすめて国王陛下を取り込むなど不可能なはずなのに」

「確かに。あれは黒魔術と白魔術に関しては随一の腕前だからね」


 黒魔術はデバフや諜報活動などの際に用いられるもので、白魔術は反対にバフや防諜活動などに用いられる。ただ、真逆の性質故に両方を使いこなすのは至難の業と言われている。


「だが、その者の正体は掴めている。第三王女に密書を渡した者がいてね」

「それは誰かね?」

「ジーナ・ローリー。近衛兵団の団長を務めている。恐らく近衛兵団も彼女に与しているか、何も知らずに利用されている可能性が高い」

「何たることだ……。このことを知っているのは?」

「第三王女とバンクロフト卿、そしてジェニファーだ。恐らくルーシーも辿り着くだろうね」

「だが、正体が分かっているのならRCISに報告すべきではないかね」


 RCISとは王立犯罪捜査機関のことで、マクファーソン王国内の警察権を有している。


「いや、信憑性の薄い密書だけでは彼らを動かせない。それに相手は王室の安全を一身に背負う近衛兵団だ。確実な証拠が山のように積み重ならない限り、動きたくても動けないさ」


 オズワルドは椅子の背もたれにもたれかかる。


「まずはローリーの思惑を探らねばならない。それに国王をどう取り戻すかも考えねば」

「だが、それほどの話を何故私に打ち明けた?いくら君と私の仲とはいえ、一介の子爵にできることなどないぞ」

「打ち明けたのは他でもない。エリカ嬢の存在だ」


 アルフレッドは眉をひそめる。どうして娘がこの話に絡んでくるというのか。


「デーモンスパイダーを苦もなく退けた件は国王の耳にも届いている。どうやら国王はエリカ嬢のことがいたく気に入ったそうだ」

「それは……」


 本来ならば非常に光栄なことなのだが、先程からの話の流れを見るに素直に喜べない。


「国王を取り込む程だ。ローリーがエリカ嬢を放っておくはずがない。警戒しておくに越したことはないだろう」

「忠告感謝する。だが、どう娘に伝えたら良いものか……」

「その辺りは私が何とかするさ。ちょうど補習も行うことだしね」

「まあ、お手柔らかに頼むよ」


 アルフレッドが力なく笑う。そこでようやく難しい話が終わったのだろう。オズワルドは緊張状態を解くとリラックスした体勢に戻る。


「ところで、さっきからこの独特の香りが気になるのだが」

「ああ、これは娘が作ったものでね。キュウリの一本漬けというらしい」


 アルフレッドはエリカが隠していたそれを取り出すと、まだ手の付いていないキュウリをオズワルドに薦めた。


「キュウリを丸ごと食べるだけなのかい?」


 そう言いながらもオズワルドはキュウリを頬張る。


「どうかね、中々イケるだろう?」

「ああ。暑い時期にはもってこいだね。それにしてもネーミングセンスは中々……」

「あの子らしいだろう」


 二人の紳士は笑い合いながら涼を取る。つかの間の平穏な日常がそこにはあった。

かつての師にコミュ障と言われたり評価が乱高下する伯爵夫人……。


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