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彼女は魔術と紅茶を楽しんで  作者: 賀来文彰
学生編 春のこと
17/323

四 いつもずっと一緒に

 開け放たれた馬車の窓から一陣の風が爽やかに吹き抜ける。


 魔物を討伐した帰りの冒険者達の嬉しそうな笑い声。焼き立てのパンを宣伝する店員の呼び声。街中は相変わらず活気に満ち溢れ、そこかしこで賑やかな喧騒が響いている。

 月が変わったのも賑やかさの原因の一つだ。別に四月が特別な月という訳ではないが、やはり新しい月というのは気分転換につながる。

 それらに身を委ねながらも、エリカはほんの少しだけ寂しい思いを抱えていた。


 桜である。


 前世では日本人だったが故に、四月になると桜のことを自然と思い出す。だが、色鮮やかな花や木が数多くある中で桜だけは存在していなかった。


 ほんのりと感傷的になっているエリカを乗せた馬車は行きと同じくゆったりとしたスピードで屋敷へと向かい、たどり着く。


「お帰りなさいませ、エリカ様」


 車止めに馬車が止まると同時に、玄関前に控えていたメイド長のアリスがエリカを出迎えた。


「ありがとう、アリス」

「エリカ様。アステリア様が温室でお待ちになられています」

「え、何かあったの?」

「コーンウェル伯爵夫人から見事なお花が送られてきました」


 驚いたエリカは一瞬足を止めるが、すぐにまた歩き始める。そして何事もなかったかのように、後に続くアリスに尋ねた。


「それでお母様はいつからそこに?」

「三十分ほど前のことでございます」

「では、十五分ほどで向かうと伝えてもらえるかしら?」

「かしこまりました。後程お部屋に参ります」

「ありがとう」


 一礼してから温室へと歩み去るアリスの規則正しい、優雅な足音を聞きながらエリカは自分の部屋へ向かった。


「それにしても、すごい喜びようだね」


 何気なく出た独り言に気付いて、自嘲するように軽く笑う。そして制服を脱ぐと、室内着のドレスに着替え始める。


 扉がノックされる。


「エリカ様。アリスでございます」

「ありがとう。どうぞ入って」

「失礼致します」


 部屋に入ったアリスはすぐにエリカの身支度の準備を手伝い始める。といっても後ろのファスナーを上げるくらいのもので、すぐにそれも終わる。


「お待たせしました」

「ありがとう」


 エリカの全身をさりげなく見回して身支度に問題がないかを確認したアリスは、どことなく満足した表情で軽く頷くと、またエリカの後に続く。


「ねえ。アリスはもう見たの?」

「はい。温室へ運ぶ際に」

「そうなんだ。綺麗だった?」

「ええ。それはとても」


 その口調からアリスがにっこりと微笑んでいるのに気付いて、エリカはサッと後ろを振り向く。そんなエリカに不意をつかれたアリスは驚いていたが、すぐに表情を改めると頭を下げた。


「申し訳ございません。つい浮かれてしまい……」

「ちょっと、勘違いしないでよ。アリスが笑っている姿を見たかっただけなんだから」


 その言葉にアリスはまた驚く。


「もっとアリスは笑顔にならないと。もったいないよ」

「いえ、そのようなことは……」


 いかにも困っている様子のアリスを見つめながら、エリカは少し感慨深いものを覚えていた。


 以前のエリカ・スタンフォードにとって、一回り近く年上のアリスは「怖いお姉さん」だったらしく、何かと理由を付けてはアリスを遠ざけようとしていたようだ。

 記憶を振り返る限り、おてんば娘というよりはじゃじゃ馬娘というべき奔放な子供だ。とてもじゃないが、貴族に仕えるメイド達を束ねる重責を約束されていた一人の少女と馬が合うはずがなかった。


 ただ、自分が転生してくる寸前の時期、両親を除いて誰よりもそばにいようとしたのはアリスだった。貴族に仕える者は自分の時間を持つことが中々難しい。だが、その貴重な時間も割いてアリスは懸命に尽くした。


 それを知っているからこそ、今のエリカはアリスを大切に思っているし、もっと仲を深めていきたいとも思っていた。


 アリスとエリカは温室に辿り着く。その扉をアリスがノックする。


「アステリア様。エリカ様がいらっしゃいました」

「まあ、早く入って!」


 温室の中はアステリアの好みの花で彩られていた。その一角にあるテーブルの一つでアステリアは紅茶を楽しんでいた。


「ただいま戻りました」

「お帰りなさい」


 空いている椅子の一つに腰掛けると、すぐにアステリアが右手で温室の中心を指し示す。

そこには淡い薄紫色の花が植えられた鉢があった。


「素敵でしょう?」

「ええ」


 それはライラックだった。エリカはじっくりとその鉢をアステリアと共に眺め、その花に込められた想いを汲み取った。


 その花言葉は確か何だったかとエリカが思い巡らせていると、温室の扉がノックされた。アステリアが答えると、執事のカーティスがエリカの分のティーセットも用意されたティーワゴンを運んでくる。


「ありがとう、カーティス」


 お茶うけはエリカの大好物なアップルパイで、少し濃厚な甘みが口の中に広がる。血糖値やカロリーが一瞬気になるものの、この世界にはそういった概念がないことを思い出したエリカは、それを言い訳にしてアップルパイを慎み深く、それでいて大胆に食べ進めていった。

 三切れ目に差し掛かった時、アステリアがエリカに話しかけた。


「ねえ、エリカ。ライラックの花言葉は知っているかしら?」

「確か……。大切な友達でしたわ」

「そうだったわね」


 そう言いながらもアステリアの表情は少しだけ憂いを帯びていた。その表情の意味が何となく分かったからこそ、エリカはわざと無邪気に振る舞った。


「お母様。何か思い悩むことでもありますの?」

「え?そんなことは……」

「このライラックは伯爵夫人の本心だと思いますわ。だから安心しても良いかと」


 アステリアはようやく自分の娘が気を回していることに気付き、軽く笑みを作って何でもない振りをする。


「まあ、この子ったら。そんなことは分かっています」


 不安げな表情を見せないように明るく振る舞う母親に、エリカはもう一押ししておく。


「伯爵夫人も先生の元で教えを受けていた方ですから。大袈裟なところはあっても誠実な思いに変わりはありませんわ」


 そう言うとエリカはそっとアステリアの右手の上に自身の右手を重ねる。アステリアはようやく心からの笑みを浮かべた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 使用人ホールは昼夜問わず、常に人が出入りしている。食事の時間を過ごす者もいれば、つかの間の休憩を楽しむ者もいる。

 その中にいる時のアリスは普段と違い、年相応の一人の女性に戻る。年齢の近いメイド達とささやかな食事を楽しみつつ、休みを取った際に王都を楽しんだ一人のメイドの土産話に心をときめかせている振りをしていた。


 メイド長になってからアリスは一度も屋敷の外へ出たことがない。立場上、あまり外に出ることができないのもあるが、それ以上に王都には苦い思い出しかなかった。


 食事を終えたアリスは使用人ホールを出ると、使用人の居室が立ち並ぶ一角へ向かう。その廊下の突き当たりにある二部屋の内、右側がアリスの部屋だった。

 個室といっても内装はシンプルだ。シングルサイズのベッドが部屋の半分を占め、後は三段しかない小さなタンスと、引き出しの付いていない一人用のテーブルと椅子があるだけだった。

 だが、アリスはこの部屋にとても満足しており、感謝すらしていた。使用人の部屋は相部屋であることが多いが、スタンフォード家では小さいながらも使用人一人ひとりにこのような個室が与えられている。


「この家で働けるのはね、本当にありがたいことなんだよ」


 アリスがスタンフォード家に初めて仕えたその日、先輩のメイドの一人がしみじみと言い聞かせてくれたことをアリスは覚えている。


 タンスの一番上の引き出しをアリスはそっと開く。その中にある眼鏡ケースと一冊の絵本、そして一通の手紙をゆっくりと取り出してテーブルに置き、慎重に眼鏡ケースを開いた。

 丸みを帯びた鮮やかな黄色の花びらで作られた押し花が顔を覗かせている。


 アリスはその押し花をしばらくの間、眺め続けていた。


「はい、これ」

「エリカ様?」


 半年前の朝、いつものようにエリカの部屋を訪れ、身支度の手伝いをしている時に、エリカから一冊の本を渡された。

 それは普段のエリカどころか、かつてのおてんば娘だったエリカですら読まないようなほんわかとした絵本だった。


「今、王都で流行っている本なんだって。絵本って言って、本のほとんどが絵だけなの。珍しいでしょう?

 ということだから、アリスにと思ってね」

「エリカ様、いくらなんでもそれは……!」

「誕生日なんだから気にしないで。それに受け取って欲しいのよ」


 少しはにかんだ様子で話すエリカを見て、アリスはそれ以上断れなかった。


 学院に向かうエリカを見送ると、アリスは急いで自分の部屋に向かう。そして受け取ったばかりの本を、貴重品入れと化しているタンスの一番上の引き出しに仕舞った。

 休憩時間の際に、アリスはその絵本を読んでみる。今までにない新しい種類の本ということで、どの書店でも売り切れ状態で予約待ちになっていることを、メイド達の雑談で知ったばかりだった。


 開いた本のページの途中、絵にしてはリアルな花びらがそこにあった。その隣には小さく折り畳まれた手紙も添えられていた。


 その手紙はエリカからで、この花は押し花というものであること、いつかは色あせてしまうのでなるべく日に当てないようにすること、花の種類はミモザであることが書かれていた。そして、いつもありがとうという感謝の言葉で締めくくられていた。


 それからというもの、アリスは眼鏡をテーブルの上に置くようになり、代わりにその押し花を、この部屋の中で一番安全な場所である眼鏡ケースの中に仕舞うようになった。


 アリスはゆっくりと眼鏡ケースを閉じると、隣に置いた絵本を手に取る。何度も何度も読み返したのでストーリーは頭の中に入っている。

 中身は街から街へと渡り歩く行商人の冒険譚で、商品や資金を狙う盗賊とのカーチェイスや、襲撃してきた魔物との戦いが描かれている。そして行く先々で出会う人達との交流と別れも盛り込まれおり、何度読んでも飽きが来なかった。


 ただ、いつもそのページになると読み進める手が止まる。


 そこで描かれているのは、数々の花が咲き誇る草原の中で行商人とその仲間達が愛馬と共に昼寝を楽しんでいるシーンだった。

 このページに押し花と手紙が挟まれていたのだった。


 ちょうどその本の真ん中にあたる部分だったから押し花が作りやすかったのだと、後にエリカは照れくさそうに話していたが、アリスはそのページに描かれた色鮮やかな花々とミモザの押し花のコントラストが忘れられなかった。


 そして、エリカのその気配りが嬉しくてたまらなかった。


 使用人の誕生日は使用人同士で祝うことが多い。これは何も差別されているのではなく、貴族と平民の違いに過ぎなかった。

 だが、スタンフォード家に関してはプレゼントの贈呈こそないものの、二日間の休みとボーナスが与えられる。それだけでも充分すぎる厚遇だが、ことエリカに至っては貴族と平民の間にある壁を一切感じさせない振る舞いが多かった。


 アリスはそっと絵本の背表紙をなでると、手紙を読み直す。そして眼鏡ケースも含めてタンスの一番上の引き出しに仕舞う。


 休憩時間もそろそろ終わる。アリスはまたメイド長としての鎧を着て、自分が仕える相手の元へと向かう。


 窓から差す光は暖かった。


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