一 ある日の昼食の席で
爽やかな風が吹き抜けている。
ところどころで鮮やかな緑が溢れかえり、夏の到来が近付いていることを予感させられる。
この辺りの季節は何をするにしても過ごしやすく、穏やかな日常がそこかしこで繰り広げられていた。
それなのにスタンフォード家の食堂は何とも言えない居心地の悪い雰囲気に覆われていた。その発生源は人目もはばからず食卓の上に上半身を突っ伏しているが、窓の外から差し込む日差しに照らされているせいで、猫がひなたぼっこをしているようにも見えなくない。
「エリカ。いくら何でも行儀が良くないぞ」
「そうよ。あなたは当主なのだから、もっと自分の言動の重みに気を配らないといけないわ」
両親からの注意にエリカはしぶしぶといった様子で身を起こす。しかしその表情は深い悲しみの色に染まっている。
「だって舞踏会の招待状が届いたんだよ?カーティス、ワインをお願い」
「あら、とても光栄なことじゃないの。カーティス、絶対にダメよ」
「承知しました。アステリア様」
執事の裏切りにエリカは頬を膨らませるが、如何に当主といえども真っ昼間からアルコールの世話になるのは好ましくない。
とはいえ、そのまま引き下がるのは面白くないのでエリカは大皿に盛り付けられたローストビーフを多めに自分の皿へと移す。
その光景にアルフレッドは呆れたように目を回すが、何だかんだ言って愛娘を溺愛している彼はそれ以上の非難を表す態度を取らなかった。
そんな夫に不満げな視線を投げかけつつ、アステリアは紅茶を口にして気を落ち着かせる。
「あなたの気持ちも分かるけれども、いつまでもそんな様子ではせっかく招待してくださったコーンウェル伯爵夫人を傷付けることになるのよ」
「分かってる」
「それにご養女のシェリルさんも悲しむわ。自分の学友が浮かない顔をしているだなんて」
「分かってるってば」
エリカは不機嫌を隠すことなく、自身で盛り付けたローストビーフを三、四枚程纏めて一気に口へ運ぶ。リスの頬のように膨らむことはないが、その量を含んだまま慎み深く話すことは不可能だろう。
娘のささやかな抵抗にアステリアもそれ以上の小言を控えた。
こんな具合にエリカが不機嫌なのも、全てはルーシー・コーンウェル伯爵夫人から届いた舞踏会の招待状にある。
舞踏会は貴族の社交の華に見えるが、言ってしまえばお見合いパーティーである。独身の男女が踊り語らい合いながら将来のパートナーを探すのがその趣旨である。
だがそこに恋愛感情が芽生えるのはごく稀で、基本的には家柄や資産状況などの基本的項目に貴族間でのパワーバランスを加えた政治的判断によって引き合わされるのが常だった。
この辺りの感覚がエリカには未だに馴染まない。加えてエリカが「優良物件」である為に彼女の伴侶の座を狙う者が多く、その見え透いた下心に日頃からげんなりとしていた。
普段のエリカなら何かと理由を付けて不参加にしようとしていただろうが、他ならぬコーンウェル伯爵夫人その人からの招待を断る訳にはいかない。
ましてその舞踏会の目的が、養女のシェリルの社交界デビューにあるのだから尚更断る訳にはいかなかった。
親友の顔を再び見るのは随分と久し振りのことなので、当日が楽しみであるのは本心だった。しかし舞踏会という集いの性質上、嫌な思いをするのも確実でそのダメージが遥かに大きいと分かっているからこそエリカの心は晴れない。
ようやくローストビーフを飲み込んだエリカは満足げな表情を浮かべると、更に大皿からローストビーフを分捕った。
「ああ、幸せ」
豪快に舌鼓を打つ当主を見て、カーティスがサッと厨房へと向かう。きっとローストビーフの追加分を取りに行ったのだろう。中々機転の利く執事である。
「このローストビーフは絶品ね」
「エリカ。余り食べ過ぎてはこの後の仕立てに影響が出るわよ」
昼食のメインディッシュをほとんど一人でぺろりと平らげたエリカをアステリアがたしなめる。
その言葉に、まるで安心しきっている猫のように椅子の背もたれへ深く身を沈めたエリカは現実に引き戻される。
「せっかく忘れていたのに……」
エリカは再び落ち込んだような様子を見せる。ここまで真に迫った芝居ができる我が子に若干驚きつつも、両親はそれぞれの対応を取った。一人はジッと娘の次の言動を注視し続け、もう一人はどこ吹く風といった様子で、頬張ったパンをゆっくりと噛み締めている。
当主の座を降りてから父は随分と丸くなったものだとエリカは変な感心を覚えつつ、小姑のようにうるさい母を見つめ返した。
「お母様。可愛い一人娘にわずかな自由を与えてあげようという情けはない?」
「可愛いと思っているからこそ厳しくしているのよ。わたくしの心は泣いているのよ?」
全くそう見えない程にニヤニヤし始める母親の視線から逃れるようにエリカは紅茶を口に付けた。
「それにマーガレットさんはもっと厳しいわよ?お腹を膨らませて出向いてご覧なさい。情け容赦なく引き締めにかかることでしょう」
エリカは思わず天を仰いだ。
マーガレット洋品店の主は長命種のエルフの中でも特に長命だと噂されており、多くの者から畏敬の念を抱かれている。
そのことを当の本人も自覚しているからこそ、天真爛漫に見せて厳しい態度を誰に対しても取ることで有名だった。
その片鱗は学生時代にエリカも見たことがあり、それ以来ドレスの新調をせずに済むよう細心の注意を心掛けていた。
「ローストビーフでございます」
厨房から戻ったカーティスは、まるで何事もなかったかのように元あった皿を片付けると、新たなローストビーフの大皿をその場所に置く。
だが好物を目の前にしてもエリカは中々手を出そうとしない。自分の食欲とマーガレットからの諫言を秤にかけているのは誰の目に見ても明らかだった。
「忍耐よ、エリカ」
「ああ。その通りだ」
言葉だけだと愛娘を慮っているように聞こえるが、そう言ったそばからアステリアはローストビーフを優雅に、自分の皿へと取り分けていく。
アルフレッドも素知らぬ顔をしてアステリアに続いているが、この状況を面白がっているのは明白だ。
エリカはすっかりぬるくなった紅茶を敢えてじっくりと飲むことで、腹持ちを少しでも良くしようと試みた。




