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彼女は魔術と紅茶を楽しんで  作者: 賀来文彰
成人編 放浪の錬金術師
144/323

七 錬金術の誤った使い方

 大柄な彼には窮屈な広さしかない部屋の中で一人の男が力なく座り込んでいる。


 その顔は肩まですっかり伸びた髪に覆われて窺えないが、RCISの捜査官達の中で彼が帝国の将軍であるローランド・ピアースであることを知らない者はいない。

 度重なる「強化尋問」にも耐え、帝国の内情について中々口を割らないピアースだったが、その代償として一切の感情を失い、心は固く閉ざされてしまった。


 今のピアースに王国を度々悩ませた帝国の強者としての面影は既にない。


 生気を失った彼の瞳に光はなく、うわ言をつぶやきながら人差し指で地面に意味のない記号を描くばかりだった。

 だが、RCISの捜査官達はそんな彼の状態を無視している。地下の牢獄の中でもこの階は最下層に位置しており、この場所にいる者は法で裁かれることはない。決して赦されることのない罪を犯した者達が収容されるだけあって、一度そこに入れられれば二度と陽の目を浴びることはできない。

 そんな場所だから誰も囚人の状態に気を留めることはない。必要な情報が引き出せるまでは最低限の扱いは行うが、それが果たされる、或いは果たされる前に囚人が壊れてしまうとその後はそのまま放置される。


 当初は貴重な情報源として扱われていたものの、最近は関心を持たれなくなっていたピアースはこの場所でその生涯を終えるはずだった。


 甲高い靴音が牢獄内に響き渡る。


 わずかに漏れ聞こえてくる別の部屋の住人のどこか怯えたような声もピアースの耳には入らないが、その足音の主が部屋の前で立ち止まったのはさすがに理解できる。


「ローランド・ピアース将軍」


 その声は力強く、凛としていた。


 とっくの昔に壊れていたはずのピアースの理性と感性が強く揺さぶられ、驚きの表情で彼は声がした方を見上げる。


 頑丈な扉の上部に申し訳程度に据え付けられた鉄格子から覗くその顔は決して幻覚ではない。

 だが、馴染み深い声が聞こえたにもかかわらず、その顔つきには不思議と見覚えがなかった。


 やはり幻覚だろうか。そんなことをぼんやりと考えているピアースに再び男は語りかける。


「ピアース将軍。この声を忘れる程耄碌したとは思いたくないのだが」

「陛下……やはり陛下なのですか?」


 ピアースは目を見開く。長く溜まっていた目ヤニのせいで瞼が開き辛く、何かが剥がれるような鈍い痛みが広がっていくが、既にそんなものはどうでも良くなっていた。


「立てるか?」


 ピアースは立とうとしてよろめく。長らく拘束されていたことで彼の肉体を占める筋肉量は著しく減少していた。

 それでも彼は衰えた自分の肉体に檄を飛ばして身を起こす。壁に手を付いていないと立っていることすらままならない状態だが、その瞳には光が戻りつつあった。


「顔を覆え」


 言うが早いか重みのある扉に強い衝撃が加わり、次いでくぐもった爆発音のようなものが響き渡り、地面から土煙が巻き起こった。


「ゲホッ!……ゴホッ」


 すっかり萎びた声帯に土煙が纏わりついてピアースは噎せた。だが、もはや扉としての機能を果たしていないガラクタの向こうにいる人影にその眼差しは向けられている。


「元気そうで何より」


 そう言うと男は自分の顔に手を当て、そのまま左から右へと手を動かす。

 奇妙なことにそのまま皮膚がめくれていき、その下からまた別の顔が現れていく。段々と明らかになってくるその顔つきは馴染み深いものだった。


「ご苦労だった」

「勿体ないお言葉でございます……」


 ピアースの左肩に優しく手を置くのはリーヴェン帝国の現皇帝であるピーター・リーヴェンその人だった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 アンドリュー・マクストンがいるのは牢獄の二階に設けられた独房棟の一室だった。


 だが、そこに向かうには魔法陣で封印された扉をくぐらねばならない。その扉が不気味なことに大きく開け放たれたままになっている。


 そのそばでは捜査官が二人うつ伏せで倒れていた。二人は見るからに酷い怪我を負ってはいるが、まだ生きている。

 チャールズは彼らを介抱したかったが、その気持ちを必死に押し殺すと自分の後に続く捜査官達にハンドサインで指示を出して彼らを託す。


 彼らが今追っているのは怪物だ。一瞬でも隙を見せれば途端に追いかける者から追いかけられる者へと立場が逆転してしまう。

 チャールズは杖を油断なく構えながら薄暗い廊下を進んでいく。


 ここに来るまでにジェファーソンがいる部屋を確認したが、彼は連行された時のままぼんやりと天井を見上げていた。

 しかし伯爵夫人が手をかざし、何かを唱えるとジェファーソンの姿が見る見るうちに変わっていき、別の人物の姿が露わになる。

 それは別室で拘束しているはずのマクストンだった。


 つまり、最初から彼らは入れ替わっていたのだ。弁舌爽やかにバクスター達やRCISを翻弄していたのはマクストンではなくジェファーソンだった。


 そして今、危険な錬金術師がマクストンとして大人しくその場に留まってくれている可能性は限りなく低い。

 現に負傷者が出ている。独房内の囚人も何人か攻撃されているのをチャールズは横目に見ているが、あの様子だと助からないだろう。


 危険はすぐそこで息を潜めている。


 しばらくするとまた誰かが倒れているのに気付く。その見覚えのある姿にチャールズは思わず駆け出しそうになるが、必死の思いで自制すると慎重に歩を進めていく。


「アシュリー……」


 倒れていたのはアシュリーだった。鋭利なもので貫かれたのか、腹部から出血が広がっている。

 チャールズは捜査官達に目配せすると処置を頼み、もどかしさを抱えつつも目的地へと急いだ。


 込み上げてくる怒りの念を堪えつつ、チャールズは杖を握る力を強めた。

 恐らくジェファーソンの狙いはこちらの人数を減らすことにある。囚人達よりも仲間を優先するのを理解しているからこそ、捜査官達には怪我を負わせるだけに留めたのだろう。いくら人数を集めようと手負いがいればそこに人手を割かねばならない。


 独房棟に踏み込んだ当初と比べるとすっかり心もとない人数になっているのを改めて確認しつつ、チャールズは薄暗い廊下の奥に目を向ける。


 程なくして独房に辿り着いたチャールズ達だったが、既にジェファーソンの姿はない。だが、それは彼がまだこの地下牢獄のどこかにいることを証明しただけに過ぎなかった。


「む?」


 その時、チャールズは机の上に一枚の手紙が置かれていることに気付く。封もされず、誰でも読める状態になっているそれに目を通したチャールズは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。


【王国の雷神に宜しく】


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 ピアースは本来ならばここにいるはずのないピーターの先導を受けながら石造りの廊下を進んでいく。

 じめじめとした空気は不快感を呼び起こすが、ピアースの頭脳は捕虜になる前の明晰さを徐々に取り戻していた。


 一回しかここを通ったことはないし、それもかなり前のことではあるが、ピアースは頭の中で描いていたここの地図を思い返す。だが、彼の右腕であるダニエル・アトキンスが収容されている場所までは分からない。

 ピアースは非礼を承知でピーターに頼みこむ。


「陛下。大変申し上げにくいのですが、ここには参謀のアトキンスも収監されています。どうか助け出して頂けないでしょうか」

「気の毒だがそれはできない」

「無理を承知でお願い致します。どうかアトキンスを」

「彼は対象に含まれていない」


 素っ気なく答えるピーターにピアースは違和感を覚える。確かにピーターは冷徹な判断を下す人物ではあるが、帝国の、ひいては自身の利益になることをみすみす手放すことはない。

 アトキンスが持つ情報はどれも帝国にとって必要なものであるし、そういったものを上手く扱い、調整してきた彼自身の存在も重要であることをピーターは認識しているはずだった。


「陛下。恐れながら申し上げます。アトキンスがいなければマクファーソン王国を跪かせるまでに時間がかかりますし、多くの資源を浪費することになります。どうか再考の程を」


 ピーターは振り返ると無言のままピアースを見下ろす。その感覚にピアースは奇妙な感覚を抱く。

 しばらくしてピアースはその正体に気付く。ピーターと自身の身長差が逆転しているのだ。年若い皇帝とはいえ成長期はとっくの昔に終わっている。なので、このような現象が起こるはずがなかった。


「貴様……。一体何者だ?」


 警戒心を露わにするピアースにピーターは何も答えない。だが、その口元は少しずつ歪んでいく。


「さすがはピアース将軍。もう回復しつつあるとは」


 今や醜悪な笑みを浮かべているピーターだが、その声は既に彼のものではない。若い顔つきには不釣り合いなしわがれ声がやけに耳に残る。


「おのれ……。皇帝陛下を騙るとは無礼千万!」


 ピアースは拳を握り締めると目の前の男に殴りかかろうとする。しかしその拳が届く前にピアースは両膝から崩れ落ちる。


「ピアース将軍。態度には気を付けることだ。今の君は既に私の支配下にあるのだよ?」

「何を!うぐっ」


 立ち上がろうとするピアースだったが、またすぐに膝をつく。まるで見えない手によって頭から力強く押し付けられている感覚に襲われていた。


「考えたまえ、ピアース将軍。長く牢に繋がれていた君のどこにそんな力があったというのかね?私に救い出された時は立つのもやっとのことだったというのに」


 そう言いながら男はまた顔に自身の手を重ねる。しかし先程と違うのは皮膚をめくる動作をしない点だった。

 男は重ねた手をそのまま左方向へスライドさせる。途端に顔が変わり、新たな顔が露わになる。


「き、貴様は……」


 ピアースはその顔に見覚えがあった。帝国に新たな技術をもたらし軍事的優位性を築き上げた功労者でありながら、倫理的観点の欠如から蛇蝎のごとく忌み嫌われていた男がそこにいる。


「それにしてもヒトとは単純な存在だと思わんか?信を置ける者の姿を見せるだけで希望を持てるのだから。

 その衰弱しきった脆弱な肉体のままだと私の力に耐えきれなかっただろうが、皇帝の声を模倣するだけで元気になるとは。いやはや現金なものだよ」

「貴様!」

「おっと。今の君は私の力によって人並みに動けるようになっていることを忘れるな。君が私を苛立たせなければ再び故郷の地を踏みしめることができるが、全ては私の気分次第だ」

「ふざけたことを言うな、ジェファーソン。私を救出しに来たのであれば貴様には私を無事に送り届ける義務がある」

「何ともおめでたい男だな。正直に言って君の生死などどうでも良いことなのだよ」


 そう言うとジェファーソンは歩き出す。それと同時に自身を襲う不思議な圧力が消えて、ピアースはようやく立ち上がることができた。

 渋々彼の後を追うピアースだったが、歩く度に鼻をつく臭いが強まっていくのを感じていた。


 その正体はすぐに分かる。鉄格子の向こうにいるはずの囚人達が軒並み無惨な状態で横たわっている。その中には見知った顔もあった。他ならぬ自分自身が王国に放ったスパイで二度と帰ってこなかった者達だ。その最期に痛ましい気持ちを覚えるのと同時に、その様な無惨な状況が広がっている現状に対する一つの名状しがたい怒りにも似た疑念が巻き起こってくる。


 ジェファーソンはふと足を止める。そして右手側の独房に顔を向けた。

 嫌な予感がしたピアースはその独房の前に恐る恐る歩いて行く。そして鉄格子の向こう側を目にして絶望する。


「そんな……」


 そこにいたのは参謀にして自身の右腕でもあったダニエル・アトキンスだった。その身体は全身血に濡れており、夥しい切り傷が至るところに刻まれていた。

 部屋の壁にも同様の傷がついていることから高威力の風魔術が放たれたことが分かる。きっと突然のことに痛みを感じる時間もなかっただろうと思いたいが、実際はそんな安らぎは与えられなかったことに気付いている。


「安心するが良い。彼の記憶は全て私の頭の中にある。今の君が心配すべきなのは自分自身のことだけだ」

「ジェファーソン……。まさかと思うが……」

「ああ。彼に限らず全て私がしたことだ。これから長旅になるのだから荷物は少ない方が良いだろう?」


 平然と言ってのけるジェファーソンに強い殺意を抱くが、すぐに彼は話の先を続ける。


「私に挑むというならそれで構わん。結局のところ、君の記憶さえ手に入ればそれで良いのだから」


 ピアースは強く歯ぎしりする。ジェファーソンは決してハッタリをかけている訳ではない。記憶ではなく自分そのものが帝国に必要とされているからとりあえず生かしているだけに過ぎないのは一目瞭然だった。

 それに今の彼は余りにも無力だった。ダニエルや他の仲間達の仇を取るにはもう少し我慢しなければならない。


 静かに怒りを滾らせつつもピアースは目の前の男の後を追いかけていく。


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