五 密談
ベルニッシュの港に程近い一軒の酒場は相も変わらず賑わっている。だが、この地に古くから住んでいる者達であれば、そこの一階にいる客達は全員、旧商業組合の重鎮達の関係者であり、彼らで満席となっているその空間は実質貸切状態にする為であることは理解していた。
だが、その酒場には隠し通路があり、地下にこぢんまりとしたスペースが設けられていることを知っている者はほとんどいない。
大人が六人もいれば窮屈さを感じるその部屋で、ダグラス・ストーナーは不機嫌な表情を隠そうともしなかった。
「アンソニー。人の庭で何をやってくれた?」
その鋭い眼光にアンソニー・ファリントッシュは一瞬身をすくめそうになるが、海千山千の相手を渡り歩いてきた商人としての意地が恐怖心を無理やり押さえ込む。
ファリントッシュはあくまで笑みを絶やさず、落ち着けと言わんばかりにストーナーへ両手を向ける。
「ダグラス。これは誤解なんだ。伝票にミスがあった。それだけのことだ」
「お前がそんな初歩的なことをやらかすわけがない。見え透いた嘘は止めることだな」
そう言うとストーナーは苛立たし気に右手を揉みほぐす。若い頃からお互いを知っている身として、それが危険な兆候であるとファリントッシュはすぐに察する。
ファリントッシュが頭を使って今の地位に上り詰めたのとは対照的に、ストーナーは腕っぷし一つで成り上がってきた。
そんなストーナーが、荒くれ者が多い港湾関係者の尊敬を一身に集めるのに時間はそう長くはかからなかった。
だが、立場が大きくなるにつれてストーナーはその力を自分の為ではなく、自分に忠を尽くす者達の為に使うようになっていった。その背景には彼の生い立ちが関係しているはずだが、そこまで深い話をファリントッシュは聞いたことがない。それは彼が舌先三寸だからと信用を得ていないからだが、ファリントッシュもストーナーを時代遅れの堅物だと侮っているので仕方ないことではある。
ビジネスという面で利害が一致しているからこそ水と油の価値観を持つ二人の商会長は今までベルニッシュの商業組合を支えてきた。
だが、その足並みは揃わなくなりつつある。
「見え透いた嘘だと?なら聞くが、どうしてあの若造に肩入れする?俺達の利権にズカズカと土足で踏み込んできたというのに」
「話を逸らすな。質問をしているのは俺だ。お前じゃない。分かるな?」
「言ったはずだ。ただのミスだ。何度も言わせるな。それとも何か証拠があるとでも?」
ファリントッシュは内心ほくそ笑む。実際、それはよくあるミスの一つに過ぎない。出てくるものと言えば数量の記入に誤りがあった伝票だけだった。
しかし長年の付き合いで相手のやり口を知っているストーナーは、これが純粋なミスでないことに気付いている。
「なあ、アンソニー。すぐに証拠があるか聞く時点で自分が犯人だと言ってるようなもんなんだよ。やましいことがない奴はそんなことを口にしないからな」
「それはお前の意見じゃないか。大体、お前には何の関係もないはずだ。迷惑だってかけちゃいない。伝票ミスで損したのはこっちだけなんだからな」
確かにファリントッシュの言うように、表面上は彼の商会が損失を被っただけの話である。船乗り向けに仕入れている商品に不備があればいざ知らず、今回のような荷物の運搬で起きたことについてはストーナー商会には何の損失もない。
伝票に書かれている分量通りの荷物を船に積み込んだ。それだけの話である。中身が実際は空だったり伝票の数字よりも少なかったりしようと、中身を検める明確な理由がない以上は関係ないのだ。
だが、それでは良しとしないのがストーナーという男だった。そういった事柄に自身が管轄する港を使う以上、自分に話を通すのが筋である。その一念からストーナーはファリントッシュを糾弾していた。
「舌先三寸なお前には分からんだろうが、何事においても筋を通すのが道理ってもんだ。別にお前が何をしようと俺には関係ない話だ。だがな、人の庭でコソコソと動き回るなら予め断りを入れるのがマナーってもんだろう」
「たかが伝票ミスでここまで言われなきゃならん理由が分からんが、まあ言いたいことは分かったさ」
そう言うとファリントッシュは立ち上がりかけるが、ストーナーは左手の人差し指をスッと彼に突き付けると、静かに第二関節を折り曲げた。
「座れ。話はまだ終わっていない」
有無を言わせないその動きにファリントッシュは黙って従う。再び席に着いた彼を見ることなく、ストーナーは酒の入ったグラスを手に取って一口飲んだ。
そのまま重苦しい沈黙が室内に漂うが、ファリントッシュはずっと口を噤んでいた。今ここで何かを言うのは非常にリスクの高い振る舞いだった。
しばらくして、ストーナーが深いため息をついた。グラスの中の琥珀色の液体を眺めながら彼はつぶやくように言う。
「今後俺達が造船やら補修やらで木が必要だってなったら、勝手に切り出しに言っても良い。そう言うんだな?」
「待ってくれ、一体何を」
「お前の態度はそういうことなんだよ、アンソニー。そっちが筋を通さんのならこっちもそうさせてもらう。売り物がどうこうなんぞ知ったことじゃないからな」
ストーナーの目に宿る強い光を見なくても彼が本気でそうするつもりであるとファリントッシュは分かっていたし、彼にはそれができる程の力があることも分かっている。何せ、荒事専門の連中を多く束ねる存在なのだ。そんな彼らが号令一下、斧を片手に押し寄せれば如何に自分が抱える用心棒達でも連中全員を押しとどめることはできないだろう。
ファリントッシュは気付かれないように小さくため息をついた。
「済まなかった。今度からは断りを入れる」
「最初からそう言えば良かったんだ。さっきも言ったが、別にお前が何をしようと俺には関係ない話なんだからな」
違う、そうじゃないんだと、ファリントッシュは心の中で毒づく。同じ穴のむじなである目の前の男が領主に密告するとは毛ほどにも思っていないが、不正行為や犯罪行為を認めること自体が屈辱的だった。
知らず知らずのうちに歯ぎしりするファリントッシュにストーナーは用意しておいたグラスを差し出し、ボトルから酒を注ぐ。
「いや、酒は結構だ」
「言ったはずだ。話はまだ終わっていない」
「まだ足りんのか?次からは断りを入れると言っただろう!?」
「その件じゃない。エリカ様のことだ」
グラスを傾けながらストーナーが言ったその言葉にファリントッシュは頭を冷やす。ストーナーが勧めるグラスを手に取ると、中身をじっくりと味わった。
「シーダーラインのドックから若い女が来たのは知っているか?」
「ああ。代官補佐の家族だな。それがどうした?」
「どうもこっちでも造船業を始めるつもりらしい。大方、その偵察ってところだな」
面白くなさそうな表情でストーナーがグラスを傾ける。
「勝手に決められたのか?」
「いや。エリカ様から話はあったさ。でも、あの貴族のやり口ってのは気に食わんね。いっそのこと勝手に決めてくれた方がこっちも反発しやすいってのに、シーダーラインの跡取りに造船業のイロハについて色々と教えてやって欲しいって引き合わされたんじゃ嫌とは言えねえよ」
「ほう。回りくどいが確実な手だな。外堀を埋めるとは」
「その辺りのことはお前の方が詳しいんだろうが、どうも俺の性分には合わん。それに女ってのも調子が狂う。男ならこき使って音を上げさせるんだが、そういうわけにもいかん」
「当主殿はお前のことが中々分かっているんだな」
ファリントッシュは笑うが、そこには隠し切れない侮蔑の色がにじみ出ている。非道になり切れないストーナーの甘さには虫唾が走るとまで思っているが、さすがにそこまでは顔に出さない。
だがストーナー自身、自分の気性にうんざりしているようで、グラスの中身を一気に呷ると乱暴にボトルから再び注ぐ。
「全く大した若造だよ。あのエリカ様は。商業組合を解散させるって話が持ち上がった時は世間を知らん金持ち貴族のじゃじゃ馬娘が考えそうなことだと思っていたが、蓋を開けてみればこのザマさ。
今までに比べりゃ安い税だが、しっかりと自分の懐が潤うようになってやがる。それに自分のところの御用商人まで特別扱いしないって徹底ぶりだ。あれじゃあ、金貨の入った袋で頬っぺたをぺちぺちと叩いたところで靡きやしねえよ」
「全くだ。当主殿も代官もその補佐も真面目が服を着て歩いているようなものだ。綺麗事で全てが片付くと思っているんじゃないだろうかね」
ファリントッシュもグラスの中身を飲み干すとボトルからお替わりを注ぐ。
「その点、マンローの坊ちゃんは融通が利いた方だ。あれも綺麗事は言っていたが、まだ話が分かるくらいの分別はあったからな」
「それはお前らが似た者同士だからだろ。俺はユージーン様とは馬が合わなかった」
「ドックの規模を縮小したのは坊ちゃんの指示だったよな?」
「ああ。採算が合わないからってな。でも、今を見てみろ。そんなに歳の変わらんよその貴族様があっという間にベルニッシュに人を呼び込んだ。これじゃあ、採算が合わないって言うよりはユージーン様の領地経営が下手なだけだったって言われても仕方ねえ」
そう言いつつも敬称をキチンと付けて話すのはストーナーの人柄なのだろう。だが、エリカの政策に辛酸をなめさせられているファリントッシュとしては、彼に足並みを揃えていて欲しいという思いがある。
ファリントッシュは釘をさすようにストーナーを睨みつける。
「随分と当主殿を気に入っているようだが、彼女は俺達の敵だ。どれだけ政治感覚に優れていても俺達の駒にならないんじゃ必要ないんだ」
「おい、アンソニー。滅多なことを言うんじゃねえぞ。お前は頭がよく回るが、そっちのことには慣れちゃいねえ。それに貴族様に手を出してみろ。ユージーン様の時みたいに、あっという間にRCISの連中が押し寄せてくるぞ」
その忠告にファリントッシュは思わず顔をしかめる。ユージーン・マンロー男爵が凶刃に倒れた際、事件は王都で起こったにもかかわらずRCISの捜査官達はこのベルニッシュまでやって来た。
捜査の一環という言葉だけであらゆる場所へ立ち入り、目ぼしいものを証拠として持ち去っていく。もしファリントッシュが普段から抜け目のない男ではなく、領主の死亡による政治的空白がなかったら、今頃彼はこうして酒を飲むこともできず、同じ地下でも鎖でつながれた牢獄の中にいたことだろう。
だが、不愉快なのは危機一髪だったその状態を目の前の脳筋に改めて指摘されたことだった。
「分かっているさ。ただの言葉のあやだ」
「それなら良いんだがな。まあ、あんまり無茶をするな」
商業組合を長年支えてきた二枚看板だが、両者の間には決定的な違いがある。ストーナーは腕っぷし頼みな面があるものの義理人情に厚い。一方でファリントッシュは謀略でのし上がってきた為か人を人と思わず、全て損得勘定でしか判断しない悪癖があった。
そして今、その悪癖が首をもたげている。
この自分に説教じみたことを言い始めたストーナーには一度痛い目を見てもらわねばならない。だが、いくら知性の面で劣る彼とはいえ、自分をそのような目に遭わせられるような人物が誰かは容易に想像がつくだろう。
それならばいっそのこと二人纏めて。
程良く回る酒の勢いに押されつつ、ファリントッシュは謀略に思い巡らせていた。




