夢の外は不思議な世界だった
お腹が大きく膨れ上がっているバクは、地表すれすれで風船みたいにぷかぷかと宙を移動し始めた。
長か、どんな人なんだろうか。いや、もしかしたら動物だろう。人智未踏の世界に人間はおれ一人だけなんだから。
別の仮想世界に飛ばされたと思いながらバクの話に合わせていたが、冷静に考えると、説明できないところがある。誰かを強制的に別の仮想世界に飛ばすためには、仮想世界に詳しくない限りできない。マナは詳しいと思うが、あのウイルスも詳しいはずだ。マナの諦めたような顔も確かに見た。あの状況下でどうやって逃げだせたんだ。
伊武輝はバクのまん丸い背中を見ながら、密かに胸の内でログアウトの指令を送った。だが何も変わらず、ここは閉じ込められた仮想世界か、バクの言う夢の世界かの二択以外、何もわからない。
わからないことはわからない。今はとりあえず夢の世界にいるということにしておこう。仮想世界かどうかは、自ずと明らかになるはずだ。
それはそうとして、おれはいったいどうなるんだ。バクは現実に戻れって言っているけれど、長とやらは違うことを言うんじゃないか? 夢の世界に居続けるのが不都合なら、ちゃんと現実世界まで案内してくれるんだろうな? もしかしたら処刑されるのか?
悶々と悩んで立ち尽くす伊武輝を見兼ねて、何かがコツンと伊武輝の膝に押し付けてきた。伊武輝は頭を下に向けた。そこには、下から見上げているマナの顔があった。わずかに口元が緩んで微笑んでいる。
大丈夫だよ、とそんな風にマナが言っている気がした。
マナがスタスタ歩き始めると、伊武輝もやっと歩き出した。
そういえば、マナに怪我させたときの謝罪がまだだった。今は難しくても、いつか言わないといけないな。
ザッザッザッと、小雪を踏むような感触を楽しみながらバクの後をついていった。夢の世界は不思議な世界だった。景色こそ代わり映えしない青い白が続くが、人がどんな夢を見ているのか、外から夢の中を覗き見れるのだ。空を飛んだり、動物になったり、深海を泳いだり、英雄になったり、淡い恋をしてみたり、怖い幽霊に追いかけられたり。同じ夢は決してなく、多種多様だった。眺めているだけでも退屈することはないだろう。
夢があるのは地上だけではない。地中にもあった。地面は濁りがなく透き通っているので、地中にある夢も見える。だが、地中にいるどの夢も、みんな中で目を閉じていた。
伊武輝は先頭で浮かんでいるバクに聞いた。
「なあ、バク。なんで地中に夢が埋まっているんだ?」
「こいつらはな、夢の中でよく眠れるように地中に潜っているんだあ。どんな生き物も、寝ているときは無防備だあ。だから身を隠す必要があるけど、夢もそれと一緒で、地中にいれば、誰にも邪魔されずに安心して眠れる。地面が外敵から身を守ってくれると、夢は本能的に理解しているんだあ」
「寝るって、夢の中なのに?」
「夢の中で寝ているときは、意識が深いところにいるか、現実に戻っているかのどっちかだあ。意識だけが現実と夢の間を行き来していて、二つの世界にいないときは、その間の深い溝のところでひっそりと隠れている。よくできているよ。起こされない限り、身を守れるんだから」
伊武輝は息を呑んだ。それって仮想世界の原理と似ているじゃないか。これは偶然なのか? それとも仮想世界が夢に似せたのか?
それに、動転して気づかなかったが、どうやら、夢の世界から仮想世界にも出たり入ったりすることができるらしい。なんで夢と混じっているんだ?
「急に黙り込んで、どうしたんだあ?」
バクがきょとんとしていた。
伊武輝は首を横に振った。
「いや、夢でも寝るんだなって、素直に感心していただけだ」と思ってもないことを言った。「バクもそうなのか?」
そんなことはないと、バクは言った。
「おいらたちは夢が見れない。その代わり、飲み食いしなくても生活できるし、ケツからは何も出ない。生命活動を維持するには、寝ることと、食われないことだあ。お前さんも夢の世界にいる以上、おいらたちと同じ生活を送ることはできるはずだあ」
「ちょっと待って。それって矛盾してない? 飲み食いする必要がないんだったら食われることもないはずだ」
バクはやれやれと両手を上げて首を横に振った。
「じゃあ聞くけど、お前さんたち人間は、なぜ無駄に殺し合っているんだあ? 生きるために必要なものはすでにあるのにどうして? そのほとんどの理由は、怒りや恐怖、不安、嫉妬と言った、負の感情に負けてしまったからじゃないのかあ? つまりはそういうことだあ。たとえ生きることに必要ではなくても、気に食わないと思う相手がいたら、食える」
バクは空を漂いながら後ろにゆっくりと振り向く。その目つきは、野獣のように殺気立っていた。
伊武輝は身震いした。バクはもしかしたら、おれのことを食えるかもしれない。黒ずんだ球体を飲み干したときと同じように。
しかし、バクはころっと元の陽気さに戻して顔を前に向いた。
「だけど心配するなあ。それも掟の範疇で、同士や敵ではない者を食うなってなあ。掟って言うよりも、無意識のうちに身に染み付いたもんかなあ。もし襲ったりなんかしたら、返り討ちされてしまう」
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