仮想世界で夢なんて見れるのか?
2019.2.5. に修正しました
伊武輝は立ち上がると、腕がずきんと痛むのを感じた。思わず顔をしかめる。
「なんだ……?」
片腕を前に出して服の袖をゆっくりと捲る。服はなんともないものの、腕には人の手の形をした黒いシミができていた。
しかも、鋭い痛みや痺れを伴いながらゆっくりとシミが広がっていく。
遠くから見ていた白狐は黒いシミに気がつくと、伊武輝との間合いを詰めて牙をむいた。ぴょんと飛び上がると、間髪入れずにシミのある腕にかぶりついた!
伊武輝は白狐の突進に負け、馬乗りになるような形で倒れ込んだ。その直後、噛み付かれている腕の激痛に耐えかね、喉が潰れるくらい絶叫した。口をつぐむことができず、足をバタつかせながら何度も声を張り上げた。
「何すんだこの野郎!」
腕がズキズキと焼ける。どくどくと心臓の鼓動が高鳴り、腕から止めどなく血が流れる。
殺気立っている眼つきが伊武輝を睨みつけている。間近にいる荒い鼻息が、彼の顔にふーふーと掛かり、獣じみた匂いがする。伊武輝は噛み付かれている腕をぶんぶんと振り回そうとするが、白狐が重いのと、血肉がえぐられ、焼けるような痛みで腕に力が入らない。
伊武輝はもう片方の腕が使えることに気づき、空いた腕で何度も白狐の側頭部を殴った。拳に頭蓋骨に当たり、鈍い衝撃が伝わる。白狐の皮膚から真紅の血が流れ、白銀の毛並みはその血で赤く汚れた。構わずに殴り続けると、拳はずきずきと痛み、白狐の血で赤くなった。しかし、白狐は頑として腕から離れない。
「しつけーな、離れろ! この欠陥品め! 人間にこんなことしていいと思ってんのか!」
何度も殴り続けた。
だけど、離れない。
「いい加減にしろ!」
今度は白狐の脇腹に殴りを入れた。獣の息がどっと傷口にかかり、白狐は片目を閉じて顔をしかめた。
だけど、離れない。
「こうなったら」
伊武輝は手のひらで、何もないところからナイフを作り出した。
これで目ん玉を引き抜いてやる!
伊武輝はナイフを握りしめ、腕を高く振りかざした。すると、白狐はようやく腕を解放させた。伊武輝の傍でちょこんと座り、前足で顔をごしごしと鮮血を拭いた後、彼に向かって目を細めて柔和に笑った。
「やっとか、手こずらせやがって」
傷口に針を縫わねばならないほどのひどい噛みっぷりだった。まだ焼けるようにずきずき痛む。心臓の鼓動が落ち着かない。でも、現実世界に戻ったら元どおりになるから、あまり関係ないが。
ぜぇぜぇと息を切らしている伊武輝は、ナイフを消して、上半身を起こした。噛まれた腕をポケットから取り出したハンカチや服の袖で綺麗に拭っていると、伊武輝の動きがピタリと止まった。
あの黒いシミが消え、咬み傷はすでに閉じられていた。傷跡は煌々と青白く光っている。そしていつの間か、さっきの強烈な痛みが嘘のように消えていた。伊武輝は腕を軽くぶんぶん振った。ちからが入るし、全然痛くない。
まさか、治すために?
伊武輝は白狐に振り向いた。しかし、傍にいたはずの白狐はどこにも見当たらなかった。血痕は伊武輝の周りの床や机、椅子にしか残ってない。
あの白狐に悪いことをしてしまった。おれのことを助けたい一心だったというのに、殴って怪我させてしまった。挙げ句の果てに殺意が芽生えてしまった。おれはなんて奴だ。
傷跡の明かりは次第に落ち着き、白いタトゥーができた。この傷は、現実世界に戻ったら消える。だけどきっと、この負い目は消えることはないだろう。
君はどっちの人間かい?
おれは、弱者だ。
ぐらりと体が崩れ落ち、頰が床に着いた。
おれは、臆病だ。
おい、しっかりしろと、遠くから声が聞こえる。
おれはもう……。
「弘坂、大丈夫か!」
伊武輝が再び気がついたときは、いつもの教室にいて、床に突っ伏していた。学生たちと教授が心配そうにして伊武輝を囲んでいる。
「あれ、みんな、なんで……」
なんで生きているんだ? あの化け物に飲み込まれて死んだんじゃなかったのか?
そう言おうとしたが、篠野が急に抱きしめてきたので、言葉が途中で途切れてしまった。
「このやろう、心配したぞ。死んだのかと思った」
いきなりハグされてびっくりしたが、背中越しに話す篠野に、伊武輝は鼻先で笑った。
「死んだって、そんなバカな」
「だって、仮想世界で気絶した人は、これまで聞いたことないんだからな」
篠野は体を離すと、伊武輝は気づいた。篠野の目が少しばかり潤んでいた。
その様子に極まり悪かったものの、教授が横やりを入れるように、伊武輝のそばでしゃがんで沈着冷静に話しかけてきた。
「今すぐログアウトしなさい。現実世界に戻ったら早急に治療機関に行くように。できるだけ専門病院へ。私も初めてです。もしかしたら新種のウイルスかもしれません」
教授は立ち上がって、周りで呆然としている学生たちに向かって言った。
「みなさんも同じです。ログアウトしたら早急に行きなさい。このことは責任持って、管理者に伝えておきます。私の講義は連絡があるまで休講とします」
そう言うと、教授は光に包まれ、パッとはじけるようにして消えた。
教室中がざわめいた。
まさか一人の気絶でこんなおおごとになるなんて思いもしなかった。ちょっと大げさじゃないのか?
学生たちは呆然としていたが、その中の一人が嬉しそうにして早くもログアウトしてこの場から消えた。休講、いや確定ではないが、学校閉鎖で講義に出なくて済むので喜んでいるんだろう。
一人ログアウトすると、一人、また一人とログアウトしてその場から次々と消えた。伊武輝はしゃがんだままそっと篠野に耳打ちした。
「おれ、気絶してたのか?」
「そうだよ」
「じゃあ、あれは……」
夢? 仮想世界で夢なんて見れるのか?
「あれってなんなのさ?」
篠野は伊武輝の次の言葉を待っていたが、耐えきれずに聞いた。
伊武輝は首を振った。
「いや、信じ難いんだけどな、あれは夢だったのかって。ここにいたみんなが化け物に変わって、おれに襲いかかってきたんだ。仮想世界じゃなければいいんだけどな」
篠野は一瞬たじろいだが、装うように口元を綻びた。
「とにかく、今日は早く帰って、ウイルスチェックしてもらいなよ。ぼくも今から診てもらうつもりだ。それじゃ」
篠野はそう言い残して立ち上がると、彼女のもとへ駆け寄り、二人一緒にログアウトした。
伊武輝は空っぽになった教室に残って回想していると、ふと、あることを思い出した。
傷跡は腕に残っているのだろうか。
残っているとしたら、それは紛れもなく、この仮想世界で起こった出来事だと認識できる。もし残っていなかったら、夢や別の仮想世界で起こったことになる。
伊武輝は右腕の袖を捲ると、深いため息を吐いた。期待とは裏腹に、なにもない、傷ひとつない皮膚だった。
「面倒だな、全く」
帰ったらゲームをやろうと思っていたのに、とんだ事件に巻き込まれたものだ。教授の言う通り、新種のウイルスだとしたら、これはちょっとやそっとじゃない、一大ニュースものだ。強制的に別の仮想世界に飛ばされ、ウイルスに感染されるなんて聞いたこともない。
新種のウイルスもそうだが、それを退治した白狐のことも気にかかる。世に知られないウイルスを退治できるなんて、一体何者なんだ。
伊武輝は頭の中で、目が潤んだ篠野の顔がちらりと過ぎった。
あいつはもうゲームしないんだったな。むかつくけど、ひどいことを言ってしまった。また今度会った時でいいから、篠野に謝らないと。
伊武輝は誰もいなくなった教室で一人虚しく、パッと消えて現実世界へと帰っていった。
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