お前は誰だ?
ゆうとの夢から出て以来、マナの様子が激変した。伊武輝に近寄ろうとせず、暇があれば前足で頭をかきむしった。その場でぐるぐる駆け回ったり、退屈そうに欠伸を何度も繰り返す。悪夢退治になると、攻撃よりも防衛が多くなった。攻撃を受けきれずに血を流すことも多い。最初は悪夢が強いのだと思ったが、マナの攻撃が段違いに弱くなっていた。
夢は悪夢に飲み込まれることが多くなり、バクの出番も多くなった。バクはとても嬉しそうにストローを差して、悪夢を吸って食べていた。
「この味、たまらんわあ」
バクが悪夢を吸い取るとき、伊武輝は、夢が星にならないかとヒヤヒヤした。悪夢だけを正確に吸い取ることは難しく、夢の住人や夢そのものが混じってしまうからだ。
結局、バクが吸い上げた夢の半数は星になり、もう半数は夢にとどまった。星になったところを見る度、伊武輝は非力を痛感して、力強く拳を握った。
リアによると、今までマナが任務に失敗したことはないそうだ。でもこれが普通だと、リアは言っていた。
悪夢退治が成功しても失敗しても、マナはすぐさま伊武輝の元から去って、いつもどこかに出かけている。どこに向かっているのかわからないが、マナは自分と戦っているのだろう。
必要とあらば協力したい。だけどどうしても、おれを避けているようにしか思えない。おれがいったい何をしたのだと言うのだろう。何度考えても思い当たらない。
マナの絶不調の理由を、伊武輝はいくつか考察した。一つは、何らかの形で伊武輝がマナのちからを吸い取っていること、二つは夢にちからが吸い取られていること、三つはマナが衰えたこと。
もう一度リアに聞くと、そんなことはないと言われた。
「守護者同士でちからを分配し合うことはできるが、無意識に、なんてことはできない」
「じゃあ、夢がちからを吸い取っているのか?」
「少し違うな。夢は、夢の住人の記憶や欲を元に作られている。それはつまり、夢の住人からちからを分けてもらっているとも言ってもいい。夢が守護者のちからを吸い取ることはまれにあるが、奪われたちからはちゃんと回復する」
リアは、湿っぽい表情で腕を組んだ。
「最後の、マナが衰えているっていうのは本当かもしれない」
小さな腕を動かして、リアはある方向に指差した。伊武輝はその指先を目で追った。すると、静かに横たわっている熊がいた。体は人間よりも大きいが、冬眠しているかのように体を小さく丸めていた。
「この世界では、寿命で死ぬことはないが、強くなったり弱くなったりする。その原理はおらたちにもわからないが、長が言うには、体を休めてちからを溜めているんだそうだ。おそらくマナも、休むべきときが来たのかもしれない」
「リアも弱くなったときがあるのか?」
「いいや、仕事が無い日に休んでるから弱まることはない」
だったらマナも同じじゃないだろうか。悪夢討伐以外はすることがなく、体を休めている。
伊武輝はどうも腑に落ちず、その後、こっそりとゆうとの夢を覗いたが、結局原因は見つからなかった。
やっぱり、摂理の通りのことが起きているだけなのだろうか。
何もわからなかったので、今度は直接マナに訊いた。そのときのマナも、夢の世界を徘徊するようにうろうろしていた。
「なあ、どうしたんだ、マナ。最近ちからが出せなくなったんじゃないか?」
マナは目つきがキッと鋭くなり、伊武輝に向かってわんわんと吠え始めた。本人は自覚して、思い悩んでいるようだ。相当苛ついている。
「気に触ったか? でも事実じゃないか。なあ、おれと一緒に考えないか? 原因とか対策とか」
だが、マナの怒りはより一層拍車を掛け、伊武輝に体当りした。伊武輝の胸にどんと鈍い音がぶつかり、そのまま倒れて尻もちをついた。マナは馬乗りになって、伊武輝の顔の前でぐるると唸り声を鳴らした。目をキッと釣り上げ、獣じみた息が顔に降りかかる。
「なんでそんなに怒るんだよ。おれが何したっていうんだ。教えてくれ!」
マナは伊武輝の体から降り、スタスタと歩いた。すると、一つの夢の前で立ち止まって振り返った。伊武輝は、解せない顔で体を起こした。
「決闘の申し込みか? 確かに夢の世界よりも、夢の中だったら周りに与える被害は少ない。だけど、長が許さない。夢の住人に危害を加える。それにマナらしくもない」
マナは伊武輝の言葉を無視して、夢の中に飛び込んだ。問答無用ということだろう。いったいどうしちまったんだよ、マナ。
伊武輝は天を仰いて深いため息を吐いた後、仕方なしに夢にそっと入った。
「ここは……」
その夢には大学があり、赤いレンガ造りの校舎が建っていた。正門前には広場があり、一本の樹木の他に、芝生が広がっている。学生らしき若者たちが、ちらほら歩いていた。
伊武輝は、天から差し込む太陽の光りを浴びながら、広場の真ん中にある新緑の桜のところまで近づいた。
ここに来たことはないはずだ。しかし、はっきりとした感覚ではないが、郷愁を感じるのはなんでだろう。
呆然と桜の木の葉を眺める伊武輝の元に、一人の人間が近づく。伊武輝は気配を察知し、杖を取り出して背後を振り返った。
そこにいたのは、かつて伊武輝の友人の篠野だった。目をまん丸にして、伊武輝が手にしている杖と、伊武輝の足のつま先から頭てっぺんまでまんべんなく見ている。
もしかして、と篠野は呟くと、自信なさげに首を傾げた。
「なあ、君は弘坂伊武輝、だよね?」
「そうだが?」
伊武輝は難なく答えると、篠野は笑顔いっぱいで、伊武輝を抱きしめようとした。しかし、伊武輝は篠野の胸をどんと押して突き放した。
篠野は咳き込んで、痛そうに胸を抑えた。
「まったく。顔も体も違うけど、やっぱり弘坂だ。中身は相変わらず暴力を振るってくる」
よかった、と篠野は安堵を漏らした。
「お前は誰だ?」
真剣な顔をした伊武輝を見て篠野は苦笑した。
「その上似合わないジョークを噛ましてきた」
しかし、真顔で何も言わない伊武輝を前に、篠野の顔を青ざめた。ゆっくりと立ち上がり、伊武輝に問いかけた。
「冗談、だよな? ぼくのこともわからない?」
「ああ。ここがどこなのかもわからない」
キョロキョロしている伊武輝を見て、篠野は手で口を抑えてぶつぶつ独り言を言い始めた。
「記憶障害? だけど無意識に仮想世界に来れるようなものなのか? いや、ナノボットが記憶を保存しているのであれば可能か? ナノボットが誘導するのは容易なこと。そして何よりも気にかかるのは、今武器を出したことだ。でも管理者は気づいていない?」
すらすらと一人言を言う篠野に、伊武輝は首を傾げて手を腰に当てた。
「ところで、ここで狐を見なかったか? 体が真っ白で、目が蒼いんだ」
篠野はハッとした。
「え、狐? 見かけてないけど。いや、それより、どうしたんだよ。心配したんだぞ」
伊武輝は眉を吊り上げた。
「なんの話かわからないな」
「これから詳しく話すよ。そうだな、まずは武器をしまって。木陰に腰を下ろそうよ」
篠野は広場にある桜の木陰に座り、桜の幹に体を預けた。
どうやら敵意はなさそうだが、夢の住人とあんまり親密にはなってはいけない。適当に受け流して、マナの行方を聞こう。
伊武輝は、杖を指輪に変化して指にはめると、木陰に入って腰を下ろした。
「なんだか変な感じ。見た目もそうだけど、中身は別人に見える。ぼくは篠野。かつて君と同じ学校に通ってた——数ヶ月前までね」
「通っていた?」
「そうだよ。君はその頃、ウイルスの感染疑惑があった。君は念の為、検査に行ったと思うんだよね。でも君は、学校閉鎖が解除されても、学校に来なかった。なんで来なかったのかはニュースで知った。君の意識が失ってしまったんだ。最初はウイルスの仕業だと思った。それか、意識がインターネットの中で迷い込んだのか。君の体は大学病院に移されていて、そこで注意深く監視されているって言ってたよ」
一気にすらすらと話す篠野の話を聞いて、伊武輝は鼻で笑った。
「ウイルスだの、仮想世界だの。よくわからない単語だな。でもそのことを除いたら、よくできている話だと思うぞ」
信じてもらえない篠野は顔をしかめた。
「それで、君の方は?」
「おれは……」と、夢の世界のことを話しそうになり、慌てて軌道修正した。「おれは、そう、放浪の旅をしている」
そこで話が止まる伊武輝に、篠野は重ねて訊いた。
「放浪の旅って、ゲームの話?」
「ゲーム? えっと……いろんな世界に行って、敵を倒している」
苦し紛れに思いついたことだが、篠野は納得したようだ。
「そうか、現実も仮想世界もそう変わらないから、ゲームなのかも気づかないのか」
記憶障害の影響か、と篠野はつぶやいた。
「とにかく、君が無事でよかった。ここに来たということは、きっと気持ちのどこかでは、戻りたいと思っているのかもね」
「戻りたい? おれはただ狐を追ってきただけだって」
「もしかしてその狐って、君の言う敵だったりする?」
篠野の目が不安げになった。ここで争われるのが嫌なのだろう。伊武輝はたしなめた。
「いや、そうじゃない。おれの連れだ。連れ戻しに来ただけだ」
篠野は胸をなでおろした。
「そうか。よかった、安心した。たとえ君が偶然ここに来たとしても、やっぱり意味はあるんだよ。君が登校すると、必ずこの木の前にぼうっと立っていた。今日もそうだった。記憶になくとも、無意識に覚えているんだよ」
「そんなわけないだろう」
おれは確かに夢から生まれた。夢の住人ではない。
「そこまで言うなら、学校巡りでもして、思い出させてあげるよ」
伊武輝は口調を強くして言い返した。
「おれはだな、狐を探すために来ただけだ。思い出すも何も、そんな記憶なんてないんだ」
「寂しいこと言うなよ。全部本当のことなんだ」
篠野は物憂げな目で伊武輝を見た。
「思い出したくないと言うなら、無理強いはしない。君の自由だからね。でも、これだけは言っておく。自分のことに関心がなければ、君は絶対に後悔する。なぜ記憶がないのか、なぜ見知らぬ人がこんなにもなって諭しているのか、少しは疑問を持つべきだ。手遅れになる前に気づくべきだ。君とは喧嘩をしたことはあったけど、本当はいい奴だって知ってる。一緒に過ごした時間を忘れられるのは、案外辛いものだよ」
篠野は頭を横に振った。伊武輝の目が少し泳いだ。
ここは夢だ。人の夢に、夢から生まれたおれのことなんか、覚えているはずがない。もしかしたら、ここの夢がおれに幻を見せて、試しているのかもしれない。
他方、もし過去におれが人工の夢で、この男と会ったことがあるとしたら? 本当に記憶が欠落していて、大事なことを忘れてしまっていたとしたら? もしかしたらそれは、マナ以上に大事なことだろうか?
思い出せない以上、その真意はわからない。おれは、夢の守護者として夢を守らねばならない。だけど、篠野が嘘をついているようにも思えない。マナを探さねばならないが、ここは寄り道するとしよう。長や守護者には悪いが、ちょっとばかり掟を破る。だけど、大事なことを思い出したとしても、守護者として全うする。




