心のない言葉は、相手を傷つける刃となる
「やめて!」
少年から伝わる温もりが消えた。
「だったら見せてよ! ぼくの母さんなんでしょ!」
骸骨はしばし間を置いた。躊躇しているのだろうか。
「いいよ」
骸骨はそっと言うと、伊武輝は砂粒を出現させた。ほのかに照らされ、周囲の様子を伺うことができた。
隣にいたはずの少年は立ち上がっていた。マナはまだ膝の上にいる。そして少年の前には、見下ろしている骸骨が立っていた。
少年は悲鳴を上げ、骸骨をたやすく押し倒した。骸骨はばらばらになり、カランカランと乾いた音を鳴らしながら、階段を転がり落ちて暗闇に消えた。
「いくらなんでもやりすぎじゃないか?」
伊武輝は立ち上がろうとした。だが、マナが膝の上にべったりくっついているので、すぐに立ち上がれなかった。
「降りてくれ、マナ」
マナは伊武輝が急に立ち上がろうとするので、驚いて膝から転がり落ちるように降りた。
「痛いじゃない」
骸骨の声だけが木霊す。伊武輝とマナはやっと立ち上がり、暗闇に消えた骸骨を少年と一緒に見下ろした。
少年は腹の底からありったけの怒りをぶつけた。
「お前が母さんなわけがない! 母さんは生きてる!」
「お願い。受け入れて。もういないの。母さんは、あなたの胸の内にしか会えない」
骸骨は悲痛な声を上げたが、少年は容赦なく責めた。
「返して! 母さんを、返して!」
塔が震えている。小石の小さな欠片が、壁や天井からぱらぱらと落ちる。マナは後ろに下がって二人から離れると、自ら狐火を灯した。砂粒の明かりよりずっと明るく、塔内全体が目視できる。
伊武輝は隣にいる少年に振り向いた。
すると、少年の周りには黒いモヤが渦巻いていた。悪心のある悪夢の前兆だ。このままでは、少年は悪夢に囚われてしまう。
伊武輝はなりふり構わず、しゃがみこんで少年を抱きしめた。
「怒っているんだろ? 悲しいんだろ? 悔しいんだろ? だけどな、お前のせいじゃない」
「何すんだよ。やめて、ほしくない!」
黒いモヤが伊武輝を取り囲む。伊武輝の体に少しずつ入っていく。マナは離れた場所で攻め喘いでいた。
伊武輝の額には、脂汗がどっと吹き出ていた。
「きっと母親も、こうやって抱きしめたかったんだ。お前の誕生を喜んでいたんだ。母親も、少年と同じ気持ちなんだよ」
「そんなわけない! ぼくがいなくてせいせいしてるんだ!」
「そうだとしたら、こうして少年に会いに来ない。愛されてるんだ」
少年は、伊武輝の肩を食い込むように強く握りしめ、体を引き離した。高まる怒りのあまり、ふーふーと息を漏らしている。少年の中に潜む悪魔が目覚めたかのように、眉間の皺が深く切り込まれ、伊武輝の目に向かって睨みつけている。少年の手から黒いモヤが伊武輝を包み込んでいく。
幼い子供なのに、どこからそんなちからがわいてくるんだ。これも悪夢のせいなのか?
「愛、なんて、いらない!」
少年のその言葉に、マナの目が血走った。狐火を宙に漂わせたまま、少年の横から、彼の後頭部を尻尾で強く叩いた。少年のおでこが、伊武輝のおでこにゴツンとぶつかり、二人とも痛そうに抑えた。
少年は手を離し、今度はマナを睨みつけた。
「痛い! 何するんだよ、狐!」
「いい加減にしろ!」
伊武輝は少年に怒鳴り散らした。少年は怒号にビクっと体を震わした。
「この塔がお前を閉じ込めている理由がよくわかった。お前は事実を受け入れられないばかりか、痛みを理解していないんだ。母親を突き飛ばし、おれの肩を握りつぶした。それだけじゃない。マナも傷ついて怒っているぞ」
「ぼくは狐に何もやっていない!」
伊武輝は首を横に振った。
「いいや、言葉の暴力だ」
「言葉の暴力?」
きょとんとした少年に、伊武輝は、そうだと言った。
「少年が喋ったことをよく思い出してみろ」
そう言われた少年は、眉間を指でつまんで俯いた。そして、そっとつぶやいた。
「愛はいらない?」
伊武輝は少年の肩に手を置いた。
「いいか。心のない言葉は、相手を傷つける刃となる。そしてその傷を治すのに時間がかかる。母さんに同じことを言われてみろ。悲しくなるだろ? その悲しみが落ち着くまで、長い時間が必要になる。全部聞いている。お前の母さんが、悲しんでいる」
少年は顔を上げ、骸骨がいないことに気づくと、黒いモヤを漂わせながら階段を急いで駆け下りていった。伊武輝もマナも後に続く。狐火が消えずについてくるので、塔内は明るいままだ。しかし、降りても降りても、骸骨は見当たらなかった。
少年は、誰もいない虚空に向けて涙声で言った。
「ごめんなさい。ごめんなさい。謝るから、戻ってきて。一人は寂しいよ。ぼくのそばにいてくれなきゃ、嫌だよ……! 母さんがいてくれなきゃ、とても怖いよ」
うっうっと嗚咽を漏らしながら、少年は涙を流していた。不思議なことに、少年が泣いていると、周りの黒いモヤが薄くなって消えていく。
これはどういうことだろうか。母の想う気持ちが、モヤを消しているのだろうか。
「ごめんね。でも、また会おう。苦しいときが来たら、また会えるようにしよう」
少年の前から、骸骨——いや、母親の優しい声が聞こえる。
「きっと?」
「うん、きっとよ」
すると少年は、何かに吸い寄られるように体が浮いた。体を丸めると、まるで、誰かに抱擁されているかのようだった。
少年は袖で涙を拭って、母親に聞いた。
「ねえ、母さん。ぼくの名前は?」
「ゆうと。やさしい人って言う意味よ」
ゆうとは、目をつむって、そのまま眠りに入ってしまった。とても安らかな顔をしている。ようやく心を許せる相手が見つけて、ほっとしたのだろう。
幸い、悪夢は生まれなかった。もうじき、ゆうとは長い眠りから醒め、現実に戻ることだろう。そしてこの夢も閉じられる。伊武輝もマナも長居はできない。
「ありがとう」
姿の見えないゆうとの母親が、声を潜めて言った。
「出口はここよ」
塔内が一気に明るくなり、塔の最上部と最下部が見えるようになった。とは言っても、人一人分のこじんまりとした高さの塔だった。夢が何か細工をして、無限に続く階段のように錯覚させたのだろう。
伊武輝とマナのそばの石壁からガラガラと石が崩れ落ち、扉が浮き出た。
伊武輝は足元にいるちらりとマナを見た。狐火を消して、その場で佇んでいる。依然として、元気がないように耳と尻尾が垂れ下がり、打ちひしがれている。
いったいどうしたんだ。おれがゆうとのように、何か傷つけるようなことを言ったか? だけど、検討もつかない。
伊武輝は重厚な木製扉を開き、気が塞がっているマナと一緒に、夢を後にした。




