蒼色の瞳が、じっと伊武輝のことを見つめている
2019.2.5. に修正しました
重い扉をギギギとうるさく開けると、教室の座席に着いている学生の視線が、すぐに伊武輝の方へと一点集中した。伊武輝はバツが悪そうに背中を丸めてサササと席に着いた。
教壇に立っているつるつるの頭をした教授が、片目だけ開いて伊武輝を一瞥すると、軽く頭を動かした。
「動物が夢を見るのは、意識が身体から夢へ飛ぶからだが——」としっかりとした口調で話し始めた。
「——そもそも夢と言うのは、脳にしまい込んだ記憶の整理、保存を行うときに、余分に漏れ出した記憶を元にして作られる。脳が編集し、加工し、夢という世界を作り出す。だから、意図的に自分好みの夢を作り、そこに意識を飛ばすのは難儀だろう。もう少し研究が進められれば、ナノボットを用いて夢を自由自在に作ることができると言われている」
教授はこめかみを指で差した。
「意識を飛ばすこと自体は今、君たちがやっていることと同じことをしている。仮想世界と夢はなんら変わりない。ただ、異なる点が三つある。仮想世界は他者と共有でき、かつ現実とは違う世界にいると自覚している。一方、夢は自分一人の世界であり、なかなか夢だと気づくことができない。そして、夢の内容は覚醒してしばらく経つと忘れてしまう」
教授は一旦説明を区切ると、黒板の前に大きく映し出された一枚のスライドを学生たちに見せた。『ナノボットと仮想世界が心身に与える影響とその心理的病理』と題した論文から一部を抜粋した図表だ。
「仮想世界の最も恐ろしいのは、夢とは違い、忘れにくく、記憶に残りやすいことだ。仮想世界で起きた出来事は、現実の一部として脳に蓄積される。しかも、脳は楽しいことよりも、悲しいことの方が記憶に残りやすく、故に、精神病が蔓延しやすい。だが、君らは心配などしていないだろう。ナノボットが治療薬を分泌し、それらの症状を抑えるからだ。おかげで一般人と患者の区別がつきにくい。私が問題提起しているのは、ナノボット依存症だ。ナノボットなしでは生きられない体や社会というのは、一つの心理的な病理だと思っている」
伊武輝の背後から「そうなのか?」と小言が聞こえてきた。教授は手に持っていた指さし棒を、小言を言った学生にサッと向けた。
「……そうだよ、きみ。そこでしか欲求を満たすことができず、たった数十秒でさえ我慢できない。食事することも、風呂に入ることも、排泄することも煩わしくなり、億劫になる」
「でも教授、さっきナノボットの治療薬で症状を抑えるって言ったじゃないですか。ナノボット依存症も治療できるのでは?」
別の学生が手を上げて反論した。教授は口を結んで首を振った。
「毒をもって毒を制すか。ナノボットはそのようなことをしないだろう。むしろ依存してくれる者を歓迎する。仮想世界も同様だ」
話を戻そう、と教授は続けた。
「きみたちのことは、仮想世界の、偽りの外見をしたきみたちのことしか知らない。好きな容貌を選んで、ここに来て話を聞いている。もし選べなかったら、きみたちは仮想世界を好きになれないだろう。美男美女のまま対等に接することができないのだから」
教授は話を一旦止めた。教授の鋭い目線は、伊武輝のつむじに向けられていた。教授の話を聞き始めたというのに、彼はすでに船を漕いでいたのだ。
教授は眉毛をピクピクと痙攣していたが、伊武輝を無視して話を進めた。
「このように、理想的な自分と世界を提供する仮想世界と、それを可能にしているナノボットに依存する病気は、現実離れ病とも言われる。事実、ナノボットも仮想世界もなければ、今こうして私がここに立って教えることもできなければ、きみたちも教わることもできない」
伊武輝はまぶたが半分閉じ、かくんかくんと下がる頭をなんども起こしている。
瞼を擦って欠伸を噛み締めていると、突然、なんの予兆もなくどっと汗が噴き出してきた。視界が暗くなり、おぼろげにゆらゆらと机しか見えない。体もなんだか地面に引っ張られているように重く、力が入らない。
重さに身を任せていると、椅子からずれ落ちて、体全体が床にぶつかって倒れてしまった。キーンと耳鳴りがする。そしてくぐもった声が聞こえた。
「大丈夫か? しっかりしろ」
伊武輝はハッとなって顔を上げた。体の重みはすっかり消えて視界も良好になったが、教授も学生も、伊武輝に全く興味を示していなかった。床に倒れた感触はあったはずなのに、座席にちゃんと着いていた。
あれ、おれは確か、誰かに起こされたんじゃなかったのか?
それとも、幻覚?
伊武輝は改めて教室中を見渡した。まずは後方。絶交中の篠野が、彼女と一緒に席に座って講義を受けている。左側に顔を向けると、暇そうにゲーム機で遊んでいる人がいる。そして正面には……。
なぜ、誰も声を上げないのだろう。教壇の隣に白く輝く獣が座っていた。耳が上にとんがり、鼻先はツンと前に突き出ていた。蒼色の瞳が、じっと伊武輝のことを見つめている。
狐だ。蒼色の瞳と白い毛並みの狐だなんて、現実世界では見たことも聞いたこともない。
大学には動物が生息していない。鳥も虫も猫も犬も、そのほか全種類の生き物一匹たりとも見たことがない。だから余計にこの狐はとても怪しかった。
いや、それよりも、なんで誰も気がつかないんだ。講義が中断されるどころか、無反応だなんておかしいだろ。
組んだ腕を机に置いてその上に頭を乗せると、伊武輝は見つめられる蒼い瞳をじっと見つめ返した。座っている白狐の頭のてっぺんが、隣で立っている教授の腰より頭一個分高い。ふさふさの尻尾も長く、狐にしては相当でかいんじゃないか?
他に考えられることはなんだろうか。
にらめっこしているうちに、伊武輝はピンと閃き、胸騒ぎがした。
「お前、ウイルスか?」
そうつぶやいた瞬間、机の陰からパッと真っ赤な目が二つ、伊武輝の目の前に浮いて出てきた。
昨夜、夢で見たあの黒煙の赤い目だ。
伊武輝は体を机から離れてヒッと悲鳴をあげた。体を起こした反動で椅子をひっくり返すと、体がドンと床に着き、痛そうに顔をしかめた。仰向けになると、赤い目が上から見下ろしていた。
まさか、夢で見たものが現実に?
その赤い目はアメーバのように分裂しながら増殖し、伊武輝と同じくらいの体型が出来上がった。だが皮膚はなく、赤い目が全身にくまなくぐるぐると動き回っていた。動かすたびにぐちゅぐちゅと音がして気持ち悪い。
伊武輝は後ろの机にしがみついて立ち上がった。ぼこぼこと動く化け物から血のような臭いが鼻につき、吐き気を催す。むかむかする胸を抑えながら化け物から少し引き下がった。
「みんな逃げろ!」
伊武輝は声を張り上げるが、講師も学生も気づかぬままずっと同じ姿勢を保っている。まるで時間が止まってしまったかのようだ。
伊武輝はなりふりかまわず、教室の後方へ逃げた。篠野の横を通ると、彼女の手を大事そうに握っているのが見えた。二人ともはにかんでいる。
伊武輝は篠野の傍を通り越し、彼を見捨てた。
自分の命の方が大事だ。構っている暇なんてない。
だが、篠野と通り過ぎた直後、腕を掴まれてぐいっと後方に引っ張られた。その勢いに任せて伊武輝が振り返ると、篠野はあの化け物へと変貌していた。体をひねって腕を目一杯に伸ばして伊武輝を捕らえていた。おまけに、篠野の顔が体の表面をあちこち動き回っている。
あまりにも気味が悪い。わずかながら血生臭く、伊武輝は空いた手で口を抑えた。
「なあ、君はどっちの人間かい?」
ボコボコと蠢いている篠野の顔から、調子のいい声が発せられる。
どっちの、人間?
「作るか、壊すか、どっちなんだい?」
化け物になった篠野の後方から、わらわらと赤い目の化け物が集まってくる。いつの間にか、教室にいる人間全員が人の形をした化け物に変わっていた。どの化け物も、ぎょろぎょろしている赤い目の上で顔が蠢いている。
伊武輝は掴む腕を振り払おうと自力で何度も踏ん張って腕を引っ張るが、ビクとも動かない。
「闘うか、逃げるか、どっちなんだい?」
伊武輝を取り込もうと、赤い目の化け物たちは伊武輝を囲んだ。
「殺すか、殺されるか、どっちなんだい?」
状況は異なるが、昨夜見た夢と似ている。
あのときは助けがあった。だけど、きっと最後は夢と同じにはならない。救世主は来ない。ハッピーエンドはない。おれはこのまま、化け物になってしまうんだ。
伊武輝は観念して、両方の膝を床に着き、目を閉じた。掴まれた腕から氷のようにズキズキとした痛みが伝わってくる。それが肩へ、胸へと広がっていった。ヒヒヒと高揚して笑う化け物たちの声が霧がかり、再びキーンと耳鳴りがする。
苦しい、早く楽になりたい……。
こぉーん!
突如、伊武輝の頭に鮮明に聞こえたその声は、狐のものだった。
伊武輝は瞼を開くと、その光景は赤い目の化け物たちが空気に溶けていく瞬間だった。
まるで狐の旋律に浄化されていくかのようだった。化け物だけでなく、伊武輝を蝕む邪気さえ追っ払ってくれたかのように、清々しい気分になった。
化け物がいなくなり、代わりに伊武輝の前に現れたのは、教壇に座っていた白狐だった。伊武輝から少し離れ、机と机の間の通路にちょこんと座っている。白くてふさふさの尻尾を、横にふりふりと振っている。
伊武輝は尻餅を着くと、はーと息を吐いて、胸にくすぶるものを外に出した。
「助けてくれたのか? ありがとう……って、プログラムにお礼するのも変か」
きっとこの白狐はウイルスではなく、ワクチンプログラム、もしくはセキュリティプログラムだろう。さっきの化け物はウイルスで、奴らを退治するために作られた、まさしく闘う兵隊と言ったところか。ここに現れたのも、事前に察知したからに違いない。
いくらウイルスの繁殖を止めるためとはいえ、篠野や他の学生、講師まで消去してよかったのだろうか。この白狐は人を殺めてしまった。意識が消えると、現実世界に戻れずにそのまま死んでしまう。
でも、篠野たちや教授がウイルスに感染されたのだから、これが最善の策なのだろう。仕方のないことだ。
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