本心がわからぬお前では、痛みを伴うぞ
階段を上るマナの足取りは重く、耳が垂れ下がり、尻尾が階段の汚れで少し黒くなっていた。ハキハキとしている普段のマナとは違い、十年も老けた老狐のようだ。こーん、こーんと小さくないている。
コツ、コツと、階段を下る足音が聞こえる。マナは顔を見上げると、そこには、伊武輝と少年が立っていた。伊武輝はしゃがんでマナの耳元で囁いた。
「さっきのことは水に流すから、一緒に夢を出よう。な?」
元に戻っていない伊武輝だと知ると、マナはこんと、打ちひしがれる鳴き声をした。
伊武輝は、何食わぬ顔をしてすくっと立ち上がり、少年に声をかけた。
「な? もう気配はないだろう?」
「そうだけど、また来るよ」
少年は手を揉みながらそう言った。伊武輝は少年の頭にぽんと手を乗せた。
「あの気配が言っていた。少年に何か伝えたいことがあるって言っていたぞ」
少年はきょとんとした。
「伝えたいことって、なにを?」
「それはわからない。気配が言うには、少年が望んでいるから、気配として存在し続けていて、しゃべることはできないんだってさ。だけど、暗闇の中なら、話すことができた」
少年は自分の両腕を擦った。
「いやだ。暗闇は、怖くて嫌だ」
「おれも怖かったよ。だけど、何もしてこない。おれたちがいるから、また気配を感じたら、今度は踏みとどまろうよ」
「守ってくれる?」
「ああ、マナもな」
マナは仕方なしにうなずいた。少年は心配そうにマナを見た。
「ねえ、大丈夫? えっと、マナだっけ。元気がないみたいだけど」
少年はマナの頭を撫でた。しかし、マナは暗い表情のまま俯きっぱなしだ。
「大丈夫だよ。きっと」
伊武輝はぶっきらぼうに言うと、周りを見渡した。
気配を感じない。きっとどこかで立ち止まって気配を消している。おれたちの様子を伺っているんだ。
伊武輝は手すりに掴まって、大きく息を吸った。
「出てこい! 少年に会わせてやる!」
伊武輝の大声が塔内に響き渡る。
気配は話した後、少年に向かって歩き続けていた。そんなに遠くまで歩いてないはずだ。逃げた少年が立ち止まったところと、おれとマナが気配と出くわしたところの間に、気配が潜んでいるに違いない。気配は少年を追い続けている。待てば自ずと遭遇できる。
ピタ。
少年のすぐ後ろで、かすかに濡れた足音が聞こえた。気配は、伊武輝たちの背後で話をずっと聞いていたのだ。
少年の体がわなわなと震え始めた。歯がガチガチと鳴っている。声を発しようとするが、口や喉が硬直しているのか、「あ、あ、あ」としか声が出なかった。
伊武輝は手すりから降り、少年の隣に立った。
「大丈夫だ。怖くない」
少年はこくりとうなずいた。伊武輝は少しでも恐怖を和らげようと、少年の両肩に手を置いた。伊武輝たちは、後ろにいる気配に振り向いた。
「おれたちはあなたの言いたいことを聞く。だから、話してくれないだろうか」
ピタ、ピタ。
気配は拒絶している。
「なぜだ? 何か不服なのか?」
ピタ。
「不服なら、直接言葉で語れ!」
伊武輝は声を張り上げると、気配のうなり声が聞こえた。突風が下から巻き上げ、ろうそくの火が消えた。視界が暗闇に染まる。しかし、伊武輝の手の中で、少年の肩が、高まる恐怖でより一層震えている。
「不服に決まっている。お前たちはできるとただ思い込んでいるに過ぎない」
暗闇からカタカタと骨が鳴る。気配が骸骨となって現れた。少年のうめき声がより一層大きくなった。
「できないことをできると言い、無理やりその子を鼓舞しようとした。だが、本心は変わらない。ここから出たくないのだ。その証拠に、その子の抱える恐怖が掻き立てられている」
「そ、そ、そんなことない」
少年は声を振り絞った。
「しかし、お前は奇妙だ」と、伊武輝に声が向けられた。「ついさっきの迷いがない。打って変わって、その狐は打ちひしがれている」
「おれたちのことはどうでもいい。この子に言いたいことがあるんだろう? 話してくれないか?」
「お、お、お願いします」
伊武輝の手から少年の肩が離れた。頭を下げてお辞儀しているのだろうか。
「覚悟はいいか?」
骸骨が少年に問うと、少年は「え?」と発した。
「本心がわからぬお前では、痛みを伴うぞ。お前がお前でなくなる。ときに自分を滅ぼすかもしれない。それでも後悔しないかと聞いている。私には自分のゆらぎのない本心がある。たとえ滅びようとも構わない覚悟がある。もう一度言う。お前にはそのような覚悟があるのか?」
暗闇の中で、しばし沈黙が訪れた。しかし、少年は意を決して声を上げた。
「はい」
「わかった。少し長話になる。階段に腰掛けなさい」
伊武輝は階段を手探りしながら座り込んだ。すると、膝の上に何かが乗っかってきた。暖かい体温が膝やお腹に伝わる。なんだろうと弄ると、そこには心地いい毛並みがあった。どうやらマナが座り込んでいるようだ。一方、伊武輝の隣には少年が身を寄せて、伊武輝のそばから離れなかった。
骸骨は伊武輝たちが腰掛けたのを察知すると、語り始めた。
「私はある日、恋に落ちた。相手はとても親切で、優しい人だった。その人の暖かさで、私は幸せというものを知ることができた。だけど同時に、恐ろしくなった。この幸せな時間が壊れてしまわないかと、不安でいっぱいだった。やがて、その人と契を結び、私の中に新しい命が宿った。私は幸せすぎて、より怖くなった。何度も言った。『こんな幸せでいいの』と。何度も言われた。『いいんだ』と。お腹が膨らみ、中から何度も蹴られる度に、誕生が待ち遠しくてしょうがなかった。我が子の顔を早く見たかった。そしてついに、子が生まれた」
骸骨は一瞬間を置いた。
「だけど幸せは、儚くてあっという間に砕け散った。子はすぐに幽閉され、夫と私は殺された。誰の仕業だったかはどうでもよかった。ただ、あの子の将来を案じていた。ただ笑い合って平凡な日々を過ごしてほしい。それだけが願いだった。だけどその子は、再び目が覚めることはなかった。何年も閉じ込められている。自力で脱することもできないまま、ずっと」
少年の息遣いが隣から聞こえる。だんだん呼吸が荒くなっている気がする。
「いえ、きっと、その子は知りたくはなかった。もう両親はいないんだって」
「やめて……」
隣で少年が一人つぶやいた。
「だから、その子は眠り続けることを選んだ。私に会える唯一の場所だから」
「言わないで!」
緊張が張り詰める。少年をさらに追い込むように、骸骨は、ためらうようにゆっくりと続けて言った。
「私は、あなたの母親よ」




