幻を見ることにいったい、なんの意味があるのでしょう?
バクは、二人の様子を夢の外から伺っていた。
事態は悪い方へ動いてしまった。でも、最後じゃない。不本意だけど、マナに任せるしかない。
バクの他に、蛇がしゅるしゅると舌を鳴らしながら注意深く夢を監視していた。いつどんなことが起きても、伊武輝たちを救い出すための救急隊だ。
「伊武輝はどうだ?」
エレの声が聞こえると、霧が周囲に立ち込めた。
「ええ、あっという間でした」
と、バクは丁寧な口調で言葉を返した。
バクの返答に応えるように、深い霧が晴れていく。どこからともなく現れたエレは、バクの隣に立ち、一緒に夢を伺った。
バクは続けて言った。
「入る前までは覚えていることのほうが多かった。ですが、今はもう全部忘れてしまっています。夢から生まれ、長から魔法と任務を授かったのだと言い張っています」
エレは朗らかに笑った。
「それはそれは。忘れるだけでなく、記憶を捏造してしまうか」
ふうと一息つくと、声を低くした。
「じゃが、これで覚悟を決められるのなら、それにこしたことはない。これも夢に飲み込まれぬための術だ。確かに、わしは伊武輝に武器を授けた。だがそれは、己の身を護るためであって、夢を守るためではない。バクが唆したとはいえ、今後も続けるのなら、中途半端に夢を守ってほしくない。自然に任せてそのまま現実の記憶を忘却させればよかったのだが、今回は事情が異なる。今後も夢を守りたいのであれば、もう二度と現実に戻らないという覚悟を示さねばならない」
「ではなぜ、あの時、現実に戻してやらなかったのですか。伊武輝の意向を無視することもできたでしょうに」
エレは決まり悪そうに咳払いをした。
「意地悪をしても、そのような答えが返ってくると思っていた。だが、伊武輝はここに留まることを選んだ。わしはそれに従っただけだ」
夢の中で、伊武輝は少年を見つけ出した。エレはその様子を傍観している。
「伊武輝は、いつまで待っても現実に戻る気にはならぬようだ。もう長すぎた。これからは、夢の守護者として、心を入れ替えてもらわないとな」
バクは伊武輝をかばうように、エレに顔を向いて反抗した。
「だからといって、少し強引な気がします。直接本人に言わないのですか?」
「それはならん。上澄みだけの言葉では、余計に迷いを生じる。だからこそ、心弱き者を変えてしまうほどの夢に送ったのだ。本心が浮き彫りになり、本当の願望に合わせた行動を取るようになる。それでなおかつ、夢の異常も治れば言うことなしだが」
「それはマナも同様で?」
エレは、伊武輝の後をくよくよと追いかけるマナを注視した。
「お主が言ったことが真なら、ここで明らかになるだろう。マナの本心も明らかになる。しかし、案ずるな。違ったとしても、お主を責めはしない。お主はこの世界を心配して、あらゆる可能性を予想したに過ぎないのだからな」
「恐れ入ります。ところで、長はどう思いますか? マナは人間でしょうか?」
エレは夢から視線を外して、悩むように鼻先を丸めた。そして、彼の方に顔を向くバクと向き合った。
「人間が作り出したものは、人間だけでなく、世界をも支配する。マナが人間で、そして支配を目論んでいるとしたら、機会はいくらでもあった。わしの首を取り、無数の夢を掌握するのは、あのちからを持ったマナであれば、容易なこと。だが、マナはそうはしなかった。悪夢を利用せず、撃退させた」
ふぉふぉふぉ、とエレは朗らかに笑うと、穏やかな顔つきになった。
「今はマナを信じようではないか。彼女を生かすも殺すも、彼女に生かされるも殺されるも、全てわしら次第だ。疑うのは容易く、信ずるのは難い。だが、自分を信ずる相手を信ずるのはまだ優しい。マナもまた、信じておろう。伊武輝が再び元に戻るのを」
「たとえ元に戻ったとしても、夢の世界に居続けたら……」
「忘却する。そのとおりだ。だが、お主で有ろう事か、見落としているようだ」
バクは首を傾げた。
「見落とし、ですか?」
エレはゆったりと頷き、再び夢を眺めた。
「忘れてしまうのは、現実の記憶のみだ。夢の外に出て以来のことは忘れない。だが、心配なのは、マナのちからだ」
心配そうに目を伏せるエレを見て、バクは小難しい顔になった。
「伊武輝が現れる前は、存分にちからを発揮した——」
エレは、バクが少し不機嫌になっていることに気がつかずに話を続けた。
「——悪夢にやられたこともない。だが、ちからの弱い伊武輝を守ることに気を取られている。お主も見ただろう、あの無慈悲なちからを。幸い人間に当たらぬよう気を配っているようだが、伊武輝が身近にいることでより発揮できていない。この前の夢で退治したのは、夢の住人であって、マナではない。そして今回、マナは伊武輝に記憶がなくなってしまったことを知り、悲痛さを隠しきれなかった」
「それはつまり、あの男に情を持ってしまったと言うのですか?」
「そういうことだろう。伊武輝に深い情があるがゆえに、弱くなったのかもしれん。今、マナにとって、あの男がすべてだということか? マナに弱点はないと思ったが、そんなことはない。マナの弱点は、情そのものだ。いや、するともしかしたら……」
エレは何かに気づき、象牙をしきりにいじった。
「どうかされましたか?」
とバクが促すと、エレは目を瞑った。
「事が済むまで話せない。もしかしたら思い違いかもしれん」
バクは気になったが、これ以上深く追及すると失礼に値すると思い、これ以上聞かなかった。
「もし伊武輝が星になってしまうと、マナはどうなるのでしょう」
話を切り替えると、エレの目が開いた。
「おそらく、マナのちからも弱まる。だからこそ、マナには伊武輝に対する深い情をなくさねばならない。今後のことを思えば、伊武輝は自ら覚悟を決めること、マナは情を捨て、ちからを取り戻すことができなければ、強敵に敵わない。夢は、彼らに試練を課しているのだ」
重々しい言葉を聞いて、バクは少し思いつめるように俯いた。
「長はいったい、なにが望みですか?」
バクは夢を見た。あともう少しで、マナが伊武輝のところにたどり着く。
「あなたが夢の世界を作ったと、みんなが言っています。現実とは違い、幻を見せる世界。幻を見ることにいったい、なんの意味があるのでしょう? 現実だけでは事足りないのでしょうか?」
エレは目を細め、微笑を浮かべた。
「現実は、覚えることより忘れることのほうが多い。だが、実際は思い出せないだけに過ぎない。記憶はちゃんとある。大事なことを忘れぬよう、記憶の底からすくい取り、夢として形作っている。夢がなければ、その人や動物は路頭に迷う。たとえその夢が良くとも、悪くともな。夢が一つの指針となるのだ」
エレはバクに視線を向けた。バクは、少し不安げに伊武輝とマナを目で追いかけている。バクのその顔を見て安心すると、再び夢と向かい合った。
「かつて、わしらも夢を見ていた。それがいつしか夢を守る立場になった。夢の世界が崩壊することが回避しようがなければ、その先になにが起こるか、自ら考えなければならない。私は賭けているのだ。伊武輝やマナ、そしてバクといった、お前たち守護者に」
バクはピクピクと耳を動かしている。そして、何かを噛み締めるように、突き出ている鼻をギュッと丸めた。




