それは偽りの願望であって、本心ではない
すると、少年の体がピタリと静止した。そして下に降りる階段の方へ恐る恐る振り向いた。伊武輝もマナも少年の視線の先を見た。
ピタ、ピタ、ピタ。うう、うう。
濡れた素足の足音と、悲痛なうめき声が、たしかに階段を上っていた。しかし、ろうそくの灯りはその姿を捉えることができず、見えない何かが少年たちの元へ近づいてくる。
ウイルスか? でも、マナはじっと目をこらえているだけで、戦闘態勢にも入らない。
「来ないで!」
少年は伊武輝とマナを払い除け、階段を駆け上がって、気配から逃げていった。少年が言っているのは、どうやらあの足音とうめき声のことらしい。
伊武輝とマナは動かなかった。恐怖心からではない。あの子を少しでも遠ざけるためだ。
ピタ、ピタ、ピタ。
足音が大きくなっている。
ううう、ううう。
うめき声もすぐそこにいる。
伊武輝とマナは身構えた。気配はすぐそこに、目の前にいる。
いつ襲いかかってくるか、どうやって反撃するか。熟考を重ねるが、音が止んでしまい、気配は何もしてこない。
伊武輝は意を決して声を上げた。
「あなたも迷い込んでしまったのか?」
伊武輝は杖を指輪に変化して武器をしまいこんだ。相手に少しでも味方だと示すためだ。
「それともあの少年に、なにか伝えたいことがあるのか?」
伊武輝とマナは、気配の反応をじっと待った。涼しいはずなのに、伊武輝は体中から汗がびっしょりかいている。
とても静かだ。気配はまだそこにいるのだろうか。伊武輝はある考えを気配に伝えた。
「もししゃべれないなら、あなたの足音で、はい、いいえで教えてほしい」
すると、ピタ、と足音が一回だけ聞こえた。どうやら「はい」と言ったのだろう。それと同時に、しゃべれないことも、そして敵意がないこともわかった。
伊武輝は胸をなでおろした。
「ありがとう。改めて訊きたい。あなたはここに迷い込んでしまったのか?」
ピタ、ピタ。
二回足音がしたということは、「いいえ」と言ったのだろう。
「あの少年に伝えたいことがあるのか?」
ピタ。
「あなたは迷い込んでないって言った。出口を知っているのか?」
ピタ。
よし、あとは交渉を受け入れてもらえるかどうかだ。
「実は、少年もぼくたちも、迷い込んでしまって出られないんだ。あの少年と会わせるから、ぼくたちに出口まで案内してくれないか?」
しんと静まる。音が返ってこない。悩んでいるのだろうか。出口を知られたら、なにか不都合なことでもあるのだろうか。
ピタ、ピタ、ピタ。
しかし気配は、伊武輝の問いかけから振り切るように再び歩き出した。伊武輝とマナを通り越して、階段をゆっくりと上り続けた。
伊武輝は、駆け上がる足音に慌ただしく振り返った。
「待って、話を聞いてくれ!」
すると、頭上からゴオオと風音が唸り、蝋燭の明かりが突風でふっと消えてしまった。塔内に暗闇が訪れた。伊武輝はまた光る砂粒を出現させた。
伊武輝は一瞬呼吸が止まった。黄緑色に照らされた骸骨が、伊武輝の目と鼻の先にあった。空洞になっている目に吸い込まれてしまいそうだ。マナもびっくりして、毛を逆立てて尻尾を丸めていた。
骸骨はカタカタと骨を鳴らしながら、とても低い声で答えた。
「あの子は目を覚ましてはならない」
「ど、どういうことだよ」
不気味に浮かび上がる白骨化した顔を見て、思わず悲鳴を上げそうになるのを必死にこらえた。
「それが、あの子の定め。あの子がそう選んだ」
「そんなわけがない。ここから出たいって言っていたぞ」
「それは偽りの願望であって、本心ではない。出たいと願うが、本心は出たくないのだ」
骸骨は、伊武輝の胸に服の上からトンと指の骨を指した。
「君はどうだね? 目的があって外から入ってきたのだろうが、悪意は感じない。君は、本当はどうしたいのだ?」
「おれはあの子と一緒に出る。それと、もう二度とあの子が苦しむことのないように施す」
骸骨は乾いた手の骨で顎を摩った。
「そういうことを言っているのではない。君には迷いがあると言っている。おそらく、その白狐と何か関係ありそうだが」
迷い? おれに迷いなんてない。最初っからマナと行動すると決めたんだ。
「まあいい。本人にも気づかぬというのなら、あの子と同様、迷い続けるがいい。そして、後悔することになる」
骸骨は振り返り、暗闇に隠れている階段の先を眺めた。
「私はあの子の本心に従うまま、気配のみで追い続ける。それもあの子が望むこと。だが、好きでこうしているわけではない。いつかは受け入れなければならない。それが、この塔から出る鍵なのだ」
骸骨はそう言い残すと、またピタピタと階段を上り始めた。
砂粒の光と共に、骸骨は暗闇に消えると、ろうそくが再び灯り始めた。塔の内部に再びほの明るさが戻る。しかし、あの骸骨の姿はなく、ピタピタという濡れた足音もなかった。
マナ、と伊武輝が声を掛けると、マナは伊武輝の前に回り込んで伺った。
「おれに迷いなんてなかったよな?」
マナは首をかしげる。
「だってそうだろ? おれは夢から生まれて、長から魔法を授かった」
すらすらと話す伊武輝の言葉に、マナの目が見開き、口の隙間から牙が覗く。
「おれは異変が起きている悪夢が他の夢に侵入されないために、夢の保護を任された。始まってだいぶ経つけど、うまくいっている」
マナは頭をゆっくりと横に振った。
「でも保護だけでなく、マナのサポートとして、一緒に悪夢退治をすることだってある。競争してただろ? おれが五千体倒して、マナが五千一体倒している。なかなかの接戦だよな」
マナは何度も何度も横に振った。悲しげな瞳が潤ってる。
「それから、まあ、今回も同じようなことだ。悪夢退治。きっと少年が目が醒めないのも悪夢の仕業だろう。退治したら、今度は夢の内側からの保護。単純作業だ」
マナはもう首を横に振るのを止めた。そのかわり、耳は元気なく垂れ下がり、涙が顔を伝って流れている。
こぉーん、こぉーん。
「どうしたんだよ、マナ?」
マナの声は悲しみで震えていた。マナが伊武輝と初めて会ったこと、助けたこと、噛み付いたこと、怒られたこと、励ましたこと、じゃれ合ったこと。全部忘れ去られたことに、マナは胸を痛めた。
マナは階段を下った。いつもだったら元気よく尻尾を振り回しているのに、今は階段を引きずるようにして引っ張られている。
「おい、どこにいくんだよ。行くべきところは上だろうが」
伊武輝はマナに手を伸ばした。すると、マナは振り返ってバウバウと怒号を発した。涙で目が光り、牙をむき出して威嚇している。今にも噛み付く勢いだ。
伊武輝は手を引っ込んだ。伊武輝も負けじと怒りをあらわにした。
「どうしたんだよ。お前らしくもない。そんなにおれと一緒にいるのが嫌なら、とっとと消え失せろ! おれは悪夢を倒して、この夢から出るからな」
伊武輝はずかずかと階段を駆け上がって、少年の後を追った。
取り残されたマナは、悲痛さを噛み締めながら、仕方なくトボトボと伊武輝の後を追った。




