一方は見えても、もう一方は隠れて見えない
母猫は安堵して伊武輝の方へ顔を向いた。
しかし、伊武輝はうつ伏せになって倒れ込んだ。背中から血が取り土留めもなく流れ続けている。
母猫は目を大きく見開き、伊武輝の顔の近くまで駆け寄る。母猫は大粒の涙を流していた。
「そんな、ごめんなさい、あんたのせいじゃないのに。起きて、起きてよ」
母猫は柔らかい肉球を伊武輝の背中に押し付けて、伊武輝の体を揺らした。伊武輝はかすかに意識があった。
「な? 子ども、元気、だろ?」
息を切らしている伊武輝とはよそに、マナは周囲に気を配っている。ウイルスをまだ見つけていないらしい。
「なんで仕返ししなかったの?」
子猫は伊武輝の顔の傍まで近づき、体を伊武輝の頰にこすりつけた。穢れがなくて柔らかい毛と温もりが、かすかにくすぐったい。
「子供が、怒るから、悲しむから」
「あんただって、あんたが傷つくと悲しむ人がいるでしょ? 少しは抵抗しなさいよ!」
ポロポロと泣く母猫に怒られた伊武輝は苦笑した。
「誰も、いないさ」
マナは耳がかすかに動いた。マナはすぐさま伊武輝たちまで近寄り、尻尾で伊武輝を、口で母猫を咥えた。母猫は反射的に子猫を咥えた。
そして、マナはすぐさま天高く飛び上がった。間一髪だった。伊武輝たちがいた場所に、地面からクジラのように大きく開かれた口が現れたのだ。真っ黒いその口は電柱も家屋もアスファルトも丸ごと飲み込んだ。ずずずと地面に潜ると、後に残ったのは、土がむき出しになったクレーターだった。半径数百メートルはあるだろうか。とてつもなくでかい。
マナは近くの家屋の屋根に降り立つと、尻尾から新緑の光を放った。伊武輝はその光に包まると、背中の傷がみるみるうちに塞がった。だが、伊武輝は目を閉じたまま目覚めなかった。
二匹の猫はマナにきょとんとした顔で見ていた。
「あともうちょっとだったのにな」
またウイルスの声だ。クレーターに、ウイルスが泉のごとく湧いて出てきた。一面がウイルスの黒い湖になった。水面を埋め尽くすほどの赤い目がぎょろっと浮き出た。
「女が憎めば憎むほど、ぼくのちからが増大する。もう少しで支配できたというのに」
マナはひょいと二匹の猫を背中に放り投げた。母猫も子猫を開放し、二匹ともマナの背中に掴まった。
「もうあんたの思惑通りには行かないわ……ねえ、小春?」
子猫はにゃーと鳴いて返事をした。
「ハッタリもいい加減だな」
ウイルスの声の勢いがなくなった。おどおどしているウイルスを見て、母猫は尻尾をピンと立たせた。
「ねえ、小春。今度遊園地に行こう」
マナは首をかしげたが、子猫は嬉しそうににゃーにゃー鳴いた。
すると、湖の水位が、わずかばかり下がってきた。
「子猫ちゃん? さっき人を切り刻んで死の淵まで追いやったんだよ。次は子猫ちゃんが死んでしまうかもしれないよ?」
ウイルスはさっきの威勢の良さが消え、狼狽えている。
しかし、子猫はふしゃーと毛を逆立ててウイルスに威嚇した。ウイルスはたじろぐようにみるみるうちに水位が下がっている。湯気がモクモクと立ち込めている。
「遊園地に行ったら、観覧車に乗ったり、トロッコ列車に乗ったり、アイスを食べたり、それからショーを見たり。たくさん遊ぼう」
湖がどんどん枯れていく。ウイルスは息苦しそうにもがいている。
「そんなのただの餌だ。一時的に喜ばせるだけだ。おい、聞いてるのかクソガキ!」
「もし雨が降っちゃったら、お家で絵本を読もうか。ババ抜きもしようか」
マナは眠っている伊武輝と、楽しそうに話している猫の親子を屋根に置いて、クレーターの中心地付近まで降り立った。ウイルスは弱まり、もう消えようとしている。
「どうだ、バカ狐。これが人間の本性だ。気分次第でころっと変わる」
マナは憐れむように、ウイルスの話をただただ聞いていた。
「気分も変われば、物事の見方も変わる。一方は見えても、もう一方は隠れて見えない。知らないことは罪だ。なぜぼくたちがこんなことをしているのか、お前たちには理解できない。ぼくには見えても、お前らには見えてないからだ。だから解り合えないし、戦いに終わりなどない」
ウイルスはふふふと不敵な笑みを漏らした。
「伊武輝とお前は、果たしてこのままでいられるかな?」
猫の親子は一緒ににゃーにゃーと鳴いて歌いだした。ウイルスは最後の一滴まで蒸発して消えた。
マナはふさぎ込むように物思いに耽った。しばらくして、そんなことはないと、頭を振った。
「小春、疲れちゃったから、少し寝よう?」
マナは振り返った。猫の親子はこくりこくりと船を漕いでいた。マナはすぐさま屋根に飛び移り、尻尾の先で伊武輝の鼻をくすぐった。くしゃみを誘っているのだろう。しかし、依然として伊武輝はピクリとも動かない。
仕方なく、尻尾で伊武輝を捕まえて地面に降りた。家や電柱や木々が陽炎のように揺らいでいる。母猫が人間の女性に戻り、眠りについた。
その寝顔は、とても穏やかな顔だった。




