ウイルスを根絶やしにしなければ、何度も蘇り、増殖する
伊武輝は安堵していると、どこからかギギギときしむ音が聞こえた。飛び散ったウイルスが一つの場所に集まろうとしている。マナは狐火を灯し、警戒態勢を維持していた。
「ウイルスを根絶やしにしなければ、何度も蘇り、増殖する」喋る口もないのに、どこからか声が聞こえてくる。「人の思想もそうだ。果たしてお前は、己の意思で動いていると思っているのか? 自由に動いていると思っているのか? お前は誰かの思想に操られているのに過ぎない」
母猫は結界の中から叫んだ。
「そうよ、人はたやすく言葉を信じてしまう。その発言者にちからがあるのならなおさら。でもね、間違いだと気づく日がいつか来る。正すことができる」
「ずいぶんと意気がるようになったじゃないか。いいのか、そんな愚かな奴を信用して」
ウイルスが一つの場所に集まって元に戻ると、マナはすかさずに狐火を繰り出した。これをウイルスは避けるそぶりもせずに、不敵の笑みを漏らした。
狐火が当たるのと同時に、サク、と切り刻む音が聞こえた。伊武輝と母猫は背後を振り返った。
子猫の脇腹にナイフが刺さっていた。ナイフの柄を握る真っ黒な手がアスファルトから突き出ている。
子猫は大きく見開いた。顔が真っ青になると、見開かれた目がゆっくりと閉じていく。子猫だけでなく、伊武輝も母猫も真っ青だ。
「やめてえ!」
母猫は結界をガリガリと鉤爪で引っ掻き回した。伊武輝はすぐさま二人の結界を消すと、手にナイフを握りしめ、ウイルスの手にめがけて投げた。ウイルスの手は、子猫に突き刺さったナイフを手放し、アスファルトの中に引っ込んた。
伊武輝と母猫は子猫の元へ駆け寄った。真紅の血が脇腹からどくどくと流れている。子猫は苦しそうにか細く鳴いている。
「馬鹿な味方ほど怖いものはないさ。そこの猫は今まで味方を作らなかった。なぜだかわかるだろう? お前みたいな奴を信用したばかりに悲劇が起こったんだからな」
ウイルスが辺りから反響している。どこにも姿が見当たらない。マナはくんくん匂いを嗅いだり、耳をツンと立てて注意深く聞いたりしてウイルスを探している。
「心配するな。おれが治す」
伊武輝は子猫のそばにしゃがみ込み、呪文を唱え始めた。ぽわっと淡い青色の光が、子猫を包み込む。流れ出る血を抑えながら、突き刺さったナイフを徐々に引き抜いた。
子猫は苦しそうににゃーにゃーと声を枯らすように鳴いている。
本当は麻酔をするべきだろうが、おれにはできない魔法だ。
すまない、我慢してくれ。
「なんで足元に結界を作らなかったの!」
激怒している母猫は一本の前足を大きく後ろへ引いた。鉤爪が夕日に照らされギラリと赤く光る。子猫のそばでしゃがむ伊武輝の背中に目掛けて何度も何度も引っ掻いた。伊武輝の服がビリビリに破かれ、背中があらわになる。鉤爪が、背中の皮膚を貫き通して骨まで食い込むように深く斬りつけた。
伊武輝は歯を食いしばった。
「悪かった。油断していた」
伊武輝は落ち着いた声で言葉を返したが、母猫の怒りは止まらない。
「油断してたってなに? 勝手に結界を作っといて、向こうの思う壺だったじゃない!」
母猫の鉤爪は止まらない。ザクザクと切り刻み、母猫は伊武輝の返り血を浴びている。母猫の目に宿る殺意は、暴走し続けた。
母猫の言うとおりだ。当然だよな、不意を突かれたとはいえ、おれの不注意だ。結界がなければ避けれたし、足元にも気を配ればこうはならなかった。
不本意にも、伊武輝は犯した失敗を悔やむよりも、羨んでいた。
「はは、やっぱ、こいつのことが、大好きなんだな……。お前は、幸せ者だな」
子猫にそう言うと、伊武輝は振り返って母猫に向かってニコリと笑った。母猫の動きが止まり、彼の笑みに目が泳いでいた。
にゃー。
ちょんと子猫が伊武輝の肩に飛び乗った。子猫は全治していた。
「生きてる……?」
子猫はすとんと地面に着地すると、母猫の元まで駆け寄った。しかし、変貌した母猫を見て、少し慄いていた。母猫は目を伏せた。
「こんな母さん、怖いよね。全部、あいつのせいなのに、怒り狂って八つ当たりだなんて……」
子猫は頭を振って、微笑んだ。
もう大丈夫だよ、と言っているようだ。
伊武輝は、母猫の頭の上でくるんと指先で円を描くと、浴び血はすっかり消え、キジ模様の毛並みになった。




