マナよりも厄介はお前みたいだな
伊武輝は母猫の傍にしゃがみこんだ。
「この子はきっと、母さんに嫌われたくないんだよ」
母猫は口をつぐんだ。伊武輝は穏やかに語り続けた。
「だって、母さんのことが大好きなんだから。いつも優しくしてくれる母さんが大好きなんだよ。でも、今は子供が悲しんでいる。なんでかわかる?」
母猫の威嚇は止まらない。
「母さんが怒って、それから泣いているのは、自分のせいなんだって、自分を責めているんだよ。もっといい子でいられたはずなのに、こんなことになってしまってごめんなさいって、何度も謝っている。許されなくてもいいから、母さんがまた元の母さんに戻って欲しいって、そう願っている」
母猫は顔を伏せて、嗚咽を漏らした。
「なんでそうだと言えるのよ」
「悲しそうな顔をしているよ、その子」
母猫は自分の子を見下ろした。
伊武輝の言う通り、子猫は悲しみに閉じ込められていた。怖そうに母猫の顔からじっと目を反らしていなかった。その子は、幼い時の伊武輝と似ているところがあった。
「苦しみのあまりに死んでしまったら、君の胸の中にあるこの子は苦しまれる。一人取り残されて、悲しみを背負うことになる」
「だったらこの子も一緒に……」
「これ以上言うな!」
伊武輝は母猫の言葉を遮り、腹の底から吼えた。母猫の尻尾がピンと張って驚いている。
「お前の唯一の子供、唯一の家族だ! 許しあえる仲なのに、それを引き裂くのか? そんなことしたら、この子はお前のことを一生恨み、許してもらえないぞ!」
「だったら、どうすればいいのよ」
冷静に言葉を返された伊武輝は言葉に詰まった。理不尽に強いられる中ではどうしようもできないのは、伊武輝はよくわかっていた。
「……せめて、この子が悲しまないやり方にしないか?」
伊武輝は高ぶった気持ちを落ち着かせた。
「悲しい思い出はあるかもしれない。でも、楽しい思い出もあったはずだ。忘れずにとどめておくしかない。この子は君に謝りながら、君に幸せに生きてって言ってるんだと思う」
母猫は子猫の頭を舌でぺろりと舐めた。
「謝りたいのはこっちの方よ」
不安げに眉をひそめる子猫は、母猫の頰を舌でペロペロと舐めた。
「元の母さんに戻ったら、許してくれる?」
母猫が子猫に訊くと、子猫は嬉しそうに小声でにゃーと鳴いた。
「ごめんね、心配掛けて」
母猫は子猫の背中の毛並みを舐めた。
伊武輝は、前方から何かが近づいてくるのを感じ取った。二匹の猫より前に出て、杖を構える。
ウイルスの大軍は、今やたった一つのボールの形になり、猫と同じくらい小さくなっていた。しかも、目で追いつけないほどの速さだ。右に移動したと思ったら、次の瞬間左へ移動し、左右にジグザグに跳んで移動しながら伊武輝たちの方へ近づいてくる。
ウイルスのずっと後方にマナが見えた。攻撃範囲までたどり着くのにまだまだ時間がかかりそうだ。ウイルスは挟み撃ちされているが、あの速さでは捕らえきれない。
伊武輝は呪文を唱えるために、杖の先をウイルスに向けようとするが、すばしっこい速さに追いつけず、杖が迷うように左右に揺れている。ウイルスは一つだけの目ん玉を猫の親子に向けた。
「やっと見つけたよ。夢はまさに摩訶不思議。常識は通じないね」
ウイルスは伊武輝の前でピタリと立ち止まった。呪文を唱えようと思えばできるが、あの速さでは煙に巻かれる。ウイルスは立ち話できるほど余裕があるのだろう。
どうしたら倒せる? マナでも手こずる相手を、どうやって?
ウイルスは楽しむようにまじまじと伊武輝と猫二匹を眺めた。伊武輝は構えを解かずに攻めあぐねていると、傍らから母猫が伊武輝の前に立った。
「おい、前に出るな」
伊武輝は緊迫した顔で言うと、母猫は通り過ぎざまに、にこりと笑った。夢に入って、初めて見せる顔だった。
「感謝してるわ」
母猫はそっと言うと、目つきを鋭くして、ウイルスと対峙した。前傾姿勢になり、耳がツンと立っている。
「これは参ったね。さっきまで怯えていた人が、こんなに殺気立っちゃって」
「私はもう逃げない。この子の命を奪うというなら、私の命を奪いなさい!」
ウイルスは、あーあ、とやる気を無くしたように声を漏らした。
「マナよりも厄介はお前みたいだな。惜しいよなあ。そんなちからがあれば、おれと手と取り合って、助け合えると思うのに」
「おれにちからなんてないし、もしあったとしたら、お前を倒すために使うと、おれは思うけどな」
ふんと鼻息を鳴らすと、ウイルスは目を細めて睨みつけた。
「じゃあ、お望み通りお前を殺して、もう一度、お前の子を殺すとするかね!」
伊武輝はすぐさま胸の内で呪文を唱え、親子に結界をそれぞれ張らせた。母猫は驚いた様子で結界をばんばんと叩いている。
母猫に悪いけれど、これもお前たちを守るためなんだ。
ウイルスの元にようやくたどり着いたマナは、立ち止まって尻尾から毛を一本ぷすっと飛ばした。ウイルスは背中に刺さったが、何食わぬ顔で母猫の結界を壊そうと腕を伸ばした。
しかし次の瞬間、ウイルスはボンッと弾け飛んだ。母猫の周りに水しぶきができていた。
マナの毛針のせいかもしれない。爆弾のようなものが仕込まれていたのだろう。




