どこから現れたのだろうか、二匹のキジ猫の親子がいた
「マナと言ったな、その狐。お前の正体、もうわかっているからな」
化け物はずんぐりと起き上がると、結界の破片を体内に吸収した。流血はおろか、傷一つもない。
「ぼくの言っている意味、わかるよなあ?」
「耳を貸すな、マナ」
伊武輝はマナをたしなめた。
「全部が全部感染されているわけじゃない。あいつははったりを噛ましているだけだ。というか、お前が挑発に乗ってどうすんだよ」
化け物は満面の笑みを浮かべた。
「でも、これでわかった。ほんと、人間はちょろいもんだ」
結界がすでに消えてなくなり、ウイルスは、女性が通った路地にドドドと入り込んだ。
「逃すな」
伊武輝はウイルスの後を追いかけながら呪文を唱えて何度も結界で捕捉しようとした。うまく捕らえられたら、もっと情報が手に入るかもしれないからだ。
しかし、ウイルスを捕らえきれない。自分のの体をドロドロの液体に変化し、結界の壁を溶かしているのだ。まるで狭い路地に流れる浅い川だ。流れる液体の所々に、腕や脚が突き出て、目玉や口、鼻や耳がまばらに無数に浮かんでいる。うへへへへと甲高く笑うと、路地を走っている伊武輝は気味悪そうに顔をしかめた。
マナは、住宅のブロック塀をぴょんぴょんと跳ねるように掛け走って、ウイルスの隣まで追いついた。すると尻尾から、青白い炎の玉がボッと燃えた。尻尾がウイルスにめがけて振り下ろされるのと同時に、狐火は目にも止まらぬ速さで空を切った。
ギギギと機械の軋む音が聞こえた途端、ウイルスはすでに青白い炎で焼かれていた。炎は急速に拡大し、ものの一瞬でウイルス全体まで拡散された。
苦しみ悶えるウイルスは、すぐさま分離を始めた。半分は狐火を抱えながら消失し、もう半分は女性の後を追い続けた。伊武輝もマナも追いかけるが、ウイルスはさっきよりすばやくなっている。全力で走ってやっと同じスピードだ。
「なぜ、その女に構う? ただの一般人だろ?」
伊武輝は少しでも足止めができるのならと、苦肉の策で質問を遠くから投げかけた。すると、ご機嫌なウイルスは快く答えた。
「ぼくが闇雲に人を襲っているとでも思っているのかい?」ウイルスの口たちが一斉に喋りだし、声が反響した。「おめでたいねえ君は。簡単なことさ。一番弱い人を狙っているのさ。乗っ取りさえすれば、次に強い人を狙いやすくなるのさ」
ウイルスの走る速度が少しばかりゆるくなり、だんだん伊武輝とウイルスの間が縮まる。
「すでに人を操れるのなら、こんな手間のかかることなんて必要ないだろ?」
「わかってないねえ。ぼくらの支配が解けてしまうほど、夢は強力なんだよ。いわば、ウイルスの駆除剤。駆除される前に、ぼくが感情で押しつぶして、心を壊し、そして完全に人を乗っ取る。これは実験なんだよ。邪魔しないでくれるかなあ?」
マナは再びウイルスの横に張り付くと、狐火を灯し、ウイルスにめがけて投げつけた。
しかし、ウイルスは自身の体の一部を盾代わりにして、さらに加速させた。距離が離れていく。
「だけど、一番不可解なのが、急にこの女が恐怖に苛まれたことだ。ぼくは手出ししていない。他にきっかけなんてない。まるで、どこかからハッキングされたようだったぞ?」
伊武輝はハッとした。まさかおれが、マナに無理やり記憶を浮き彫りにさせたせいか?
「心あたり、あるようだな」
耳元でそっと囁かれたときは、鳥肌が立った。伊武輝の右肩には、口だけあるウイルスの断片がスライムのようにねちょねちょとうごめいていたのだ。
伊武輝は驚くあまりに足がもつれてしまい、勢いよく転がり回った。回転が止まると、伊武輝は体を起すなり、急いで肩からはたき落とした。ウイルスはアスファルトに水しぶきをあげて無残に散って消失した。
ウイルス本体とマナは、次の角を左に曲がり、伊武輝の視界から消えていった。
このまま追い続けては埒が明かない。攻撃すればするほど、あいつの速度が加速度的に早くなる。
時期に女性に追いつかれてしまう。だが、結界で足止めした間、彼女たちはどこまで離れていったのだろう。女の子がいたんだ。そんな早く走れないはずだ。あれだけ速く走っていれば、女性の後ろ姿くらい見えるはずだ。
考えてもしょうがない。追い続けるか、と立ち上がろうとすると、後ろからちょんちょんと何かが触ってきた。伊武輝は振り返ると、そこには、どこから現れたのだろうか、二匹のキジ猫の親子がいた。
「助けてくれたんだよね、ありがとう。てっきりあいつらかと思ってしまって」
親猫から若い女性の声が聞こえた。路上の真ん中で、周りに悟られないようにそっと囁いている。
「君たちは逃げていた親子二人だね?」
伊武輝は普通の音量で話すと、親猫はほっとして、声を大きくした。
「うん。人間だった気がしていたんだけど、気がついたら猫になってしまって。でも、そのおかげでなんとか逃げおおせたのかも」
夢の世界だからできることなのかもしれない。夢が主人を守ろうとしている。
「まだ逃げ切れていない。あいつらをなんとかしないといけないんだ」
「……もういいのよ」
母猫はため息を吐いた。
「生きて苦しむより、死んで楽になる方がいい」
「何言っているんだ。すぐに倒せるのに、諦めるなんて馬鹿げている」
「そうね。でも、何度も逃げ延びては、また何度も追いかけてくる。もう、疲れたのよ。きっとこの子もそう思っているはず。死んだらきっと、この苦しみもなくなるはず」
「この子はそう思っていないと思うぞ。死んだら一生会えなくなる」
「いいえ。死んだらきっと向こうで、この子と一緒に自由にいられる!」
母猫は目を釣り上げ、毛を逆立って伊武輝を威嚇した。興奮のあまり、フーフーと息が漏れている。子猫は、母猫に覆いかぶさるように縮こまっている。
言葉を慎重に選ばなければならない。きっと、放つ言葉次第で、この人は死んでしまう。人としてではなく、機械として飼い慣らされることになる。
死んでしまった女の子の二の舞になんかさせたくない。




