気楽に行け。何度もやり直せるんだから
「それってつまり、気を紛らわせるなら、誰でもよかったって言いたいんですか?」
「そうは言っていない。君と似ているから助けたくなったんだろう」
「似ている? マナと?」
向井は朗らかに笑った。
「私の直感だがね。ところで、君は若いが、将来の夢はあるのか?」
伊武輝は眉を寄せた。
「唐突ですね。そんな話はしたくないですよ」
「何か不都合でもあるのかい?」
向井は伊武輝の顔を覗き込んだ。伊武輝は重苦しいため息を吐いた。
「おれの周りには、いつもおれのことを嫌い、敵として見られていた。みんないなくなればいいと、ずっと思っていた。だから、そいつらから分断して、一人でも生きられるちからが欲しかった。そいつらがおれにちからを貸すよう懇願しても、振り払えるくらいに、強くなりたかった。それが夢だとは言えないかもしれない。でもこれしかなかった。それなのに……」
伊武輝はつばを飲み込み、片手で頭を抱えた。
「記憶が、脳裏にこびりついている。逃げても逃げても、追いかけてくる」
落ち込んでいる伊武輝を見た向井は、腕を組んでうーんと唸った。だが、話を掘り下げることなく自身について語り始めた。
「私の夢はな、ひと目でいいから、また店長に会いたい」
「先代の?」
ああ、と向井は言うと懐かしそうな目をしていた。
「私が経営する前にこの店を切り盛りしていた人だ。私はその人とある賭け事をした。しかし、突如いなくなったんだ。手紙だけを残してな。どこに行ったのかもわからない。だから、私は待つ他ない。早く戻ってこないと、あの人も年だ、もう二度と、会えなくなる」
「もうどれくらいなんですか?」
「もう二十五年だ。結構辛かった。言い出しっぺが逃げたのは、何か理由があるはずだと思った。もしかしたら、何か事件に巻き込まれたんじゃないか。いや、もう亡くなっているんじゃないかってな」
向井は目を伏せた。
「会いたいが、それがあの人が決めたことなら、もう何も言うまいて」
寂しそうな向井を見ると、伊武輝は物憂げに鼻息を吐いた。
「夢を持っていても、無駄でしかないんでしょうか」
「どうして?」
「夢は、良いことばかりじゃない。嫌なことを思い出させることもある。夢と夢がぶつかりあって、一方は生き残り、一方は消える。間違った夢を持てば、他の人や自分を破滅に追いやることも。向井さんの夢も、間違いかもしれない」
思ったことを単刀直入に言う伊武輝に、向井は苦笑いした。
「確かにそうかもな。叶えられる夢と、叶えられない夢はある。だけど、それを悲観的に考えてはならない。夢は一つじゃない。始まりと終わりがあるし、協同と競争がある。次の夢を見つけるのに、少し手こずるだけだ」
向井はじっと伊武輝の瞳を見た。
「君が感じている不安は、君の貴重な武器で、君を守っている。だが、使い方を知らないと、君が危ない。不安が見せる幻に押しつぶされてしまう。逃げてもいいが、いつか向かい合わなければならないときが来る。気楽に行け。大体の幻は、大したことがないものを誇張しすぎたに過ぎない」
「また唐突に。おれが不安だなんて」
「見ていればわかる。心に芯がなく、不安に駆られて迷っている。老いぼれのちょっとしたお節介を言ったまでだ」
不安が見せる幻。不安が武器となっておれを守っている。
伊武輝はそっと胸に手を当てた。強すぎる不安はおれに刃を向け、苦しませる。それがさっき見た夢の出来事だ。いや、夢だけでなく、昔からずっと続いていたんだ。
心にくすぶる傷跡と、向き合わなければならない。それはきっと、楽なことではない。誰かのちからが必要だ。
伊武輝は向井に笑って誤魔化した。
「そんなのただの推測じゃないですか」
「そうだ。忘れても構わん。自分を信じたいことを信じなさい」
向井がそう言うと、マナは前足で伊武輝の脚をちょんちょんと突っついた。夢がもうすぐ閉じる合図だ。
「もう行くのかい、マナ。またお友達と来てな」
向井はマナに手を振ると、マナも尻を向井に向けて尻尾を横に振った。
「向井さん、その、いろいろとありがとうございました」
伊武輝は軽くお辞儀すると、向井は微笑んだ。
「君は人の言うことを信じられないと言ったが、私の言葉に耳を傾けてくれた。私はとても嬉しかった。君は人のことを信じられる。ただ、騙されることを恐れているだけだ。真偽の見分けが大事だ。だけど、気楽に行け。何度もやり直せるんだから」
伊武輝は再びお辞儀をすると、マナとともにお店をあとにした。
喫茶店の夢から出ると、伊武輝は地べたにぺたりと座り込んだ。マナは伊武輝の膝元で伊武輝をじっと見ていた。
体はとても気だるいが、胸中の苦しみはもうすっかり消えていた。コーヒーが効いたのか、向井と話したおかげか、それはわからないけど、きっかけを作ってくれたのはマナだ。マナが誘ってくれなかったら、今も落ち込んだままだっただろう。
「おれのこと、心配してくれてたんだな、マナ。ありがとう」
少し照れくさく言うと、マナはにこーっと満面の笑みを浮かび、伊武輝の顔を舐め回した。
「くすぐったいっての」
伊武輝の目元や口元がゆるみ、マナの頭を撫でた。マナの尻尾が嬉しそうにぶんぶん振っていた。
だが、伊武輝の顔が少し暗くなった。
「なあ、マナ。おれはこれから長い間、おれの中にくすぶる何かと向かい合わなければならない。向井さんの話、聞いてただろ? それに、一人では夢に立ち向かうことも難しいこともわかった。マナには迷惑を掛けるが、これからもそばにいてくれないか」
マナが真顔になり、しばし気まずい沈黙が訪れた。
やっぱりダメか。
伊武輝は消え失せるような笑みをして俯いた。しかし、マナはこんと鳴いた後、また満面の笑みで伊武輝の腕をしがみつき、伊武輝の頬や耳を舐め始めた。伊武輝は最初驚いたが、心の底から破顔した。
「わ、わかったから、止めてくれ」
マナは伊武輝から離れると、その場で喜びを爆発させるように駆け走った。




