向井さんは、人を信じられますか?
「そうなんですか。どんな意味が込められているんですか」
他愛のない会話を続けようと何気なく聞いたのだが、店員は快く答えた。
「私が付けたわけじゃないが、辞書を引くと、神から与えられた食物という意味らしい。でも先代店主はそれをさらに掘り下げて、愛情と表現したんだ。たかがコーヒー一杯で愛情を与えられるかはわからないが、私は引き継いで経営している。雪狐も、愛情を持っているんだろうな」
マナは愛情。そんな意味があったなんて知らなかった。
「一つ、訊いていいですか」
伊武輝がそう言うと、店主はちょっと待ってと言った。
「適当に座って、今コーヒーを淹れるから。ミルクと砂糖は?」
ミルク二杯で、と伊武輝が言うと、店主は伊武輝に椅子に座るよう促した。キッチンに戻ると、カップにコーヒーを注ぎ、スプーンで輪を描くようにコーヒーを回転させている。それからミルクポットをカップに注いだ。白い渦がぐるぐると渦巻く。
店主は伊武輝にコーヒーを差し出した。
「私は向井。君は?」
「伊武輝と言います。それで、向井さんに訊きたいことがあります」
向井も椅子に座り、伊武輝の次の言葉を待っていた。
「向井さんは、人を信じられますか?」
突然のことで向井はキョトンとした。
「信じる? 人の何を?」
「言動から身振り手振り、実績、全部です」
「君はどうなんだ?」
伊武輝は一口コーヒーを口に含んだ。
「おれは、全部信じない。言葉の裏には、必ず欲が渦巻いている。醜い私欲が見える。地位がほしい、ラクになりたい、権力を振るいたい。他人が苦しもうが、自分さえ快適に過ごせるならどうでもいい。だけど、自分が標的にされるのは嫌だ。常に優位に立ちたい。そんな人の言葉を信じては、いずれ食われる。だから、おれは信じない」
「そんなに答えがはっきりしているのに、なぜ私にそんなことを訊く?」
伊武輝は返答に詰まっていると、向井は畳み掛けた。
「君はどこかで、人を信じたいと思っているんじゃないかね。だけど、信じてはいけないと思う根拠が、君の中にたくさんあるんだろう」
そのとおりだ。
「でも、そんなのは解決しているじゃないか」
「え?」
「君には雪狐のマナがいる。少なくとも、君のことを信用しているようだ」
伊武輝は鼻で笑った。
「だって動物ですよ。人とは違う。嘘をつかない」
「そうだな。動物はしゃべらないし、嘘をつかないかもしれない。だけど、動物も人も同じ生き物だ。動物に感情がないと思うか? 雷を怖がって地面に穴を掘る。ライバルが来たら威嚇して怒りを表に出す。そして、大好きな動物が来たら、喜びを隠さずにはいられない。人間だって同じだ」
「同じじゃない。動物とは違って、人は弱いものいじめする。それは疑いのないことですよ」
だからちからを、もっともっとちからを。
伊武輝はカップを強く握った。
「いや、そうとも限らない。伊武輝、知ってるかい、動物の世界でも弱い者いじめをするし、共食いもする。飢えはなくても、縄張りの境界線を超えた瞬間、戦い合うんだ」
向井は自分の拳と拳ぶつけ合う仕草をした。伊武輝は信じてなかった。
「嘘だろ?」
「残念だけど本当だ。チンパンジーもイルカも、同族に暴力を振るうし、殺したりする」
伊武輝はため息を吐いた。向井はキッチンの方からカウンターに肘を着いた。
「信じることは、確かにとても難しい。裏切られると相手が大きな得をして、自分が損する。でも、雪狐のマナだけは、信じてやったらどうだ? もし君がマナを疑っているのなら、きっとマナだって、君のことを疑って嘘をつくかもしれない。わざわざマナがここに君を連れてきたのだって、何か理由があるはずだ。それに、ここはマナの行きつけの店で、ここに連れてきたのは君だけだ。そのことをよく考えてみるといい」
そう言って話をまとめた向井の言葉に、伊武輝は納得ができなかった。
「マナは、なんでおれなんかを助けたんでしょう」
「うん?」
「マナと会ったのは……そう、おれが襲われていて、死にそうになったときでした」と、伊武輝はここは夢の中であることを注意を払って、事実を曖昧に伝えた。「追っ払ってくれたんですよ、敵を。でも、マナとはそれまで面識がない。動物は確かに愛情があるかもしれないけど、天敵である人間を、わざわざ助けるんでしょうか。恩を売ったつもりでしょうか」
向井は銀色の短い髭を撫でた。
「さあな。狐の悪知恵かもしれないが、私はそうは思わない。寂しかったのだろう、きっと」
伊武輝は振り返ってマナを見ると、マナは皿から顔を上げてきょとんとした顔で見つめ返していた。
寂しかったのだろうか。夢の世界にバクもエレもいるのに。いや、孤独だったんだ。誰かがいても、仲間はずれされて孤独になる辛さは、よく知っているじゃないか。




