夢の恐ろしさを存分に味わうにはいい機会だった
マナと一緒に夢を抜け出した伊武輝は、目の下にクマができ、少し頰が痩けた。疲労困憊で、杖をついて歩くのがやっとだった。マナは心配そうに顔を見上げて伊武輝の様子を窺っていたが、夢の前で待っていたバクは残念そうに言った。
「結局お預けか。いつになったらこんなでっかくて美味な悪夢を味わえるのかねえ」
「おれのことは、お構いなしかよ」
神経がすり減り衰弱しきっていたが、伊武輝はバクの言葉になんとか反応できた。
「おいらは美味しい悪夢を食べればそれでいいんだあ。マナやお前さんがいなくなったらいなくなったで、おいらの食べれる悪夢が増えるし、全然困らないんだあ」
バクは一息を着いた。
「それより、お前さん、えらい夢に入り込んだもんだあ。おっと、質問はしなくていい。衰弱しきっていて、話を聞くのがやっとなんだろう? 一通り話すから、それでもわからないところがあったら質問してなあ」
バクはごほんと咳払いをした。
「お前さんは人工の夢だと思っているんだろうけどなあ、あれはずっと昔からある夢なんだあ。ちょっかい出したら星になったって、おいら、言っただろう? 星になる前に夢の住人と夢が分離したんだあ。夢は夢の住人がいないことに気がつかず、今もこうして生きている。苦しいこと、悲しいことしか記憶がない夢。そして、喜びを見いだせるのは、復讐を果たせたときしかない。この夢はきっと、お前さんの記憶を買ったんだあ。魅力的に見えたんだろうなあ。お前さんの過去を覗き見しながら再現し、お前さんが弱まる姿をほくそ笑んでたんだあ。もしかすると、夢は本当は知っていて、新しい夢の住人を欲しがっていたのかもしれないなあ」
バクはマナを一瞥した。
「おいらは外から伊武輝のことを見てた。マナもなあ。もう帰って居ないけど、最悪の事態に備えてパトロール部隊まで配備させていたんだあ。お前さんのことを助けに行こうと思えばすぐに助けに行けた。だけどなあ、おいらは思った。夢の恐ろしさを存分に味わうにはいい機会だった。お前さんに話したけど、夢というのは、そんなに生易しい世界じゃない。心の弱いものは生き残れない。お前さんがここにいるからには、自分と向き合う必要がある。時間はかかるけどなあ、焦ることはない、ゆっくりとな」
「……あの夢を壊すには、どうすればいい」
伊武輝がそうつぶやくと、バクは唖然とした。伊武輝は真っ青な顔で続けていった。
「あんな夢、ない方がいい。そうは思わないのか?」
「バカ言うな。アレはアレで、必要な夢なんだ」
「あの夢から悪夢が生まれ、ほかの夢を犯していたら? 人を殺したら? そんなことは、させない」
伊武輝は躓いて崩れるように倒れた。バクは見兼ねた。
「この話はまた今度にしよう。まずはお前さんのケアが必要だ。マナ、あとは頼んだあ」
マナは、こんと一声鳴くと、バクはその場から離れていった。
マナは伊武輝のそばに近づいて、鼻の先で伊武輝の肩を揺すった。
頑張って起きて、と言っているようだ。
「ここで横になれば、ちょっとはマシになるはずだ」
震える声でそう言ってぐてんと横になると、マナは伊武輝の顔の前に立ち、前の片足を上げて一方の方向に差した。
伊武輝は頭を傾けてその先を見た。そこには、一つの夢が浮かんでいた。
「マナが一緒に行こうとした夢か?」
伊武輝が訊くと、マナはこくりとうなずいた。マナはどうしても一緒に行きたいらしい。
伊武輝は杖にすがって立ち上がるが、体が鉛のようにとても重く、歩くのがやっとだ。伊武輝がゆっくりと夢に向かうと、マナは隣で伊武輝の歩調に合わせて歩いた。
そう遠くはない。体中から休ませてくれと悲鳴を上げているが、なんとか黙らせて歩き続ける。
逃げるなよ。
頭の中で声が反芻する。胸がまた締め付けられるが、マナを一瞥して頭をぶんぶんと振った。
もう少しの辛抱だ。なんとか耐えてくれ。
逃げるなよ。
おれは逃げてなんかない。
逃げるなよ。
逃げて、なんて、ない。
傍にはマナがいる。そう思うと、幻聴になんとか抵抗できた。
伊武輝とマナは夢の前にたどり着いた。一遍代わり映えしないただの夢だが、マナが有無を言わずに先に入り込んだ。伊武輝も重い体を動かして後から入った。
するとそこは、こじんまりとしたお店の中だった。部屋の一角にカウンターとキッチンがあり、カウンター席が四人分しかない。カウンター席の後ろと、キッチンにある小さな窓から差し込む陽光に懐かしさを覚えた。ついこの間まで雲の上を飛んでいたというのに、だいぶ時間が経っているように思えた。
マナが、こぉーんと鳴くと、キッチンの奥から物音がした。誰かがいるようだ。
「いらっしゃい。おや、雪狐、お友達を連れてきたのかい?」
キッチンの方からぬっと人が現れた。伊武輝は視線を声の主の方に向けると、そこに朗らかな男性が立っていた。顔にシワがうっすらと走り、髪も眉も髭も、全部銀髪だ。本当はもっと年上かもしれないが、五十代くらいに見える。深い緑のエプロンを身にまとっていることもあって、なんだか若々しく見える。全く衰えを感じさせない。どうやら、このお店の人らしい。
「ちょっと待ってくれ、今出すから」
店員は冷蔵庫を開けてお皿に牛乳を注いだ。キッチンから客席まで回り込むと、すでに尻を着いて待っているマナに、どうぞと皿を差し出した。マナは立ち上がり、屈んでペロペロと牛乳を飲み始めた。嬉しそうに尻尾を振っている。
「マナを知っているんですか?」
伊武輝が訊くと、店員はえっと驚いた顔をした。
「マナって、この雪狐の? へえ、偶然があるもんだな。このお店もマナって言う名前なんだ」
マナと同じ名前だと知って、伊武輝はこの店に親近感がわいた。




