伊武輝は木の棒の前に立つと、それを見るなり薄気味悪く感じた
「どうなっているんだ。呪文が効かないんだなんて。普段どうやって連絡を取り合っているんだよ」
ぶつぶつ文句を言う伊武輝は、バクを探すついでに、夢を見ながら歩いた。夢に保護を施す小さなヒントがあるのかもしれないと思ったからだ。
夢はその人の欲望や記憶に合わせて作られる。つまり、夢に保護を施す呪文も一つ一つ異なる。夢の数が百億あるなら、呪文も百億揃えなければならない。無謀かもしれないが、少しでもヒントが得られれば、夢の守護者に後を任せられる。徒労に終わることはないだろう。
伊武輝は夢の世界を歩き回ると、エレの言う通り、巨大化した夢がドンと佇んでいるのを見つけた。都会でよく見かける高層ビルと同じくらいの大きさだろうか。夢のてっぺんが見えない。あれが仮想世界、もしくは誰かの夢。仮想世界でも夢でも、この巨大な球体に魔法を掛けるとなると、ちからを振り絞ってもわずか一割も満たない効果しか発揮しないかもしれない。
伊武輝はその巨大な夢を通り過ぎようと横切るが、ふと、伊武輝の耳にかすかに声が入ってきた。
「……伊武輝」
歩く足が止まった。伊武輝は心臓を鷲掴みにされたように、息苦しくなった。巨大な夢を仰ぎ見ると、その夢の中で黒い渦を巻いていた。
「……逃げるなよ、伊武輝」
巨大な夢は、ズズズと移動を始めながら、ゆっくりと伊武輝に近づいた。
いや、そんなまさか。
足が地面にビッタリとくっついて離れない。わなわなと手が震える。
近づいてくる。巨大な夢に押しつぶされる。
伊武輝は動けないまま、目をぎゅっと瞑んだ。冷たい感触が頭から、胸、腕、腰、脚へと広がる。
夢の方から、伊武輝を勝手に誘った。
伊武輝は恐る恐る目を開くと、眼前に水面が広がっていた。空は雲に覆われ、どんよりとした空気が漂っている。くすんだ青い水面には、まばらに木の棒が突き刺さっていた。朽ち果てていて、もうずっとそこに何年もいるようだ。
脚から冷え切った冷水がズキズキと伝わっている。水深は足首くらいで、その深さは足元だけでなく、水平線まで続いている。
しんと静まり返っていた。声も音もない。そのおかげで、伊武輝は少し冷静さを取り戻した。
仮想世界にしてはおかしなところだ。建造物もなければ、誰もいないなんて不気味だ。悪意のある仮想世界でもなさそうだ。
伊武輝は脚にちからを入れ、まずは一番近くにある木の棒まで歩いた。
歩くたびにぱしゃんぱしゃんと水面に波紋が広がる。誰かが近づいてきたら、波紋や水音ですぐに気がつく。警戒を怠らないように細心の注意を払わなければならない。
伊武輝は木の棒の前に立つと、それを見るなり薄気味悪く感じた。
墓場でよく見かける卒塔婆だった。すらすらと達筆な字で書かれていて解読できないが、全くいい気にならない。腰くらいの高さのある卒塔婆は、腐食が進んでいるのか、虫に食われたのかわからないが、触るだけで簡単に折れそうだ。
伊武輝は卒塔婆にそっと触れた。
すると突然、背後から後頭部にゴツンと鈍い音を立てて誰かが殴りかかってきた。伊武輝はうつ伏せに倒れ、意識がゆらゆらと揺れた。
確かに気を緩めなかった。なのに背後に気がつかなかった?
「なんでテメェを養わなければならねえんだ。金食い虫じゃねえか」
伊武輝は体を反転して殴った相手を見た。相手は握りこぶしを握りしめたまま、こちらをじっと睨みつけている。
「しょうがないよ、あんた。放棄したら罪になるんだから。しばらくの辛抱よ」
伊武輝の前に立っていたのは男性と女性だった。無精髭を生やしている男性の片手にはビールの缶が、頰が痩けている女性の片手には火のついたタバコがあった。
小さい頃、親が望まずに生まれてしまった伊武輝は、惰性と暴力で育てられた。親は世間体を気にして、流産しようにも、育児放棄しようにもできなかった。二人はただ二人だけでいられる場所が欲しかっただけなのだ。だが、伊武輝は人目につかないようなところ——たとえば二の腕や胴体——を殴られたり、蹴られたり、火のついたタバコを押し付けられたり、熱湯もかけられたこともあった。二人は警察に咎められない程度に、陰険に、隠密に伊武輝を管理していた。
男性はぐいっとビールを飲み干したあと、ポケットから財布を取り出してお金を探していた。しかし、男性の目つきが変わった。
「おい、札がなくなっているぞ。おめえが盗んだのか?」
ろれつがうまく回っていないが、お金になるとすぐに頭の回転が鋭くなった。ギロリと睨みつけられた女は、苛ついた声で言い返した。
「はあ? そんなわけないでしょ。酔っ払って使いすぎたんじゃない?」
「んだと? 俺が使った? とぼけんな。知ってんだぞ。おめえは物欲しさに負けて借金してるってな」
「あたしじゃないって、ほら、こいつだろ!」
そう言う女性の指先には、背の小さい、まだ子供だった頃の伊武輝に向けられていた。
「テメェ、ただじゃおかねえからな!」
男性はそれだけを言うと、金属製のバットを握りしめ、伊武輝に向かって高く振り上げた。
殺される。逃げないと。逃げないと。
しかし伊武輝は戦き、足がすくんで動けなかった。部屋の蛍光灯でぎらつく金属バットから目をそらすことができない。
男性は勢いよく振り下ろすその瞬間、バットが伊武輝の頭に当たるか当たらないかのところで、二人はぱっと消えてしまった。
伊武輝は再び、あの静かな水面の世界に戻ってきた。体も元に戻り、身体中からどっと冷や汗が噴き出して、シャツが胸や背中にくっついている。頭皮からも大量の汗がなだれ落ち、前髪がべったりとおでこにくっついて離れない。
どこにも傷はない。ただ、伊武輝の前に立っていた卒塔婆はなくなっていた。
何度も深呼吸して胸のざわめきを落ち着かせようとするが、かすかに残ってしまった。
「なんだよ、これ」
卒塔婆はあと三本。まさかこれは全部、過去を追体験する装置か何かか?
嫌だ。ここから逃げなくては。
伊武輝は背後を振り返った。するとそこには、水平線しかなかった場所に大きな滝ができていた。穏やかに流れているので、足元がすくわれる心配はない。しかし、淵まで歩いて見下ろすと、底が真っ暗で何も見えない。轟音もなにもない。すべてが滝の底に消えてなくなっていくようだ。
「退路は、ない、か」




