温もりのある花信風が頰にあたり、桜の花びらが一枚一枚ささやかに風に運ばれて落ちていった
2019.2.5. に修正しました
陽の光が、窓からカーテンを通り抜け、灰色の部屋に燦々と差し込む。まっさらでなにもない部屋だ。余計な雑貨はもちろん、テレビも掃除機も冷蔵庫もない。一見、空き部屋に見えるが、ベッドだけは置いてある。しかしもう昼だというのに、どこか暗い空気が漂っていた。
うーうー、と唸り声が聞こえてくる。
その唸り声は、ベッドで横たわっている伊武輝のものだった。暑くないというのに、全身汗びっしょりになっている。その体つきはとても貧相だった。ガリガリに痩せ細っていて覇気がない。傍目から見て、ちゃんと食事をとっているのか心配になるくらい、骨と皮一枚で体を支えていた。
伊武輝はぱちっと悪夢から目を醒ました途端、天井を見つめながら安堵の息を吐いた。
「夢、だよな。仮想世界じゃなかった」
ぼそりと言うと、伊武輝は服の袖で顔の汗を拭った。寝返りを一回打ち、今まで起こったことを思索し始めた。
さっき見た夢は、本当に夢だったのか? またナノボットの仕業かもしれない。
ナノボットは細胞よりも一回り小さく、人々の体の中で循環し続けている。主に健康管理やコミュニケーションの媒介として使われているが、実は厄介な欠点がある。
それは、就寝中に時折、ナノボットが誤作動で仮想世界に入り込んでしまうという点だ。仮想世界とは、現実を模倣して作られた架空の世界で、インターネット上に無数に存在している。
伊武輝は大きな欠伸をして寝返りを打った。頭の中で黒煙の赤い目が過ぎると、うーんと唸った。
どこかの仮想世界であの煙ヤローと戦った気がする。夢かもしれないけど、仮想世界に飛ばされるのはしょっちゅうだ。見分けもつかない。
伊武輝が見たのは夢か、仮想世界か。その答えはナノボットに聞けば一発でわかるのだが、あいにく履歴を残さないよう設定してある。全てのプライバシーは監視されて筒抜けだが、一矢を報いて、できることは秘匿しておきたい。そのために対策を施したが、これが裏目になり、事が判明できない。
「怠い……」
伊武輝は少しでも頭の中をスッキリさせるため、重い腕を動かして、こめかみを人差し指でピッと軽く押した。
「ナノボットのバグはまだ直らないんですか?」
脳内でラジオが流れ始めた。ナノボットが作り出す幻聴だ。ベテランの女性司会者が専門家に質問しているところのようだ。
「慎重に扱わなければなりません」と、若々しい男性の声が聞こえる。「誤ると、ナノボットは、ウイルスのように幾何学的に増殖してしまいます。ですが、システム更新中のナノボットを、別のナノボットが阻害するだけで終わるのは、ある意味、想定内のことなのです」
それはなんでですかと、司会者が促した。
「ナノボットにはあらかじめ、増殖しすぎると自分自身も死んでしまうことを学習させています。その知識がリミッターの役割を担っているのです。睡眠中に仮想世界に飛んでしまうこのバグは、現状ではナノボットが分泌する治療薬に頼るしかありません」
「でもさ、その飛ばされた仮想世界が危ないところだったらどうするわけ?」
司会者が強く問いただした。男性は冷静を務めるように、ため息交じりに「そうですね」と言った。
「分析するのは、何も人体ではなく、仮想世界も対象です。ブラックリストが独自に作られ、安全なところだけに接続します。被害報告はありませんし、そのような心配は無用です」
「でも、いつもインターネットに接続しっぱなしじゃないですか、それってわたし、嫌なんですよね」
もう一人の若い女性が割り込んできた。活発で明るすぎる彼女に、男性は力無く笑った。
「私も懸念しています。過去に起きた日本テロ事件が発端ですが、常にプライバシーを晒している状態です」
伊武輝は再びこめかみを軽く押してラジオの音声を切った。天井に体を向くと「はぁ……」とため息を吐いた。
重たい頭を片手で抱えながら、伊武輝はだるそうに体を起こした。後頭部や首のあたりが凝っていて気持ち悪い。すでにナノボットが治療しているはずだが、回数を重ねるごとに、完治するまでの時間が長くなっているような気がする。
「今は何時だ?」
伊武輝は誰もいない相手に話しかけると、誰かの声が返ってきた。
「午前十時三十分です」
頭の中で発せられる声に耳を傾けて頷いた。声に出さなくとも頭の中で念じるだけでもいいが、思考を読み取られている感じがして気味が悪いので、なるべく声に出している。
「そうか、もう時間か」
すると、伊武輝は食事に出かけたり手洗いもせずに再びベッドに横たわった。脳に指令を送ると、ベッドの両端からガラスの膜がゆっくりと出てきた。
これは銃弾でも砲弾でも壊せない強固な防御力を誇る、特別なガラスドームだ。これがないと、誰かに揺すり起こされてしまい、仮想世界から現実世界に勝手に戻ってしまう。現実世界では隙だらけになるので、仮想世界に行くためには必要なものだ。
ガラスドームが完全に閉じると、伊武輝は仮想世界に存在する大学のところまで瞬く間に意識を飛ばした。
移った先の仮想世界で伊武輝が立っていたところは、大学の正面入り口前にある広場だった。校舎は歴史を感じさせるような赤茶色のレンガ造りになっていて、遠くから見ても一目で大学だとわかるほど、堂々と立っていった。広場には一本の桜と一面に広がる芝生があり、学生はまばらに芝生を踏み歩きながら次々と校内へと入っていく。
伊武輝は広場にある桜に近づいた。
「いつになったら現実の桜が見れるんだろうな」
桜に向かって呆然と呟いた。温もりのある花信風が頰にあたり、桜の花びらが一枚一枚ささやかに風に運ばれて落ちていく。
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