星空
黒くて霞みがかっている何かが、眼前に広がる満天の星空を徐々に飲み込み、星が一つ、また一つと明かりが消えて暗くなっていく。
弘坂伊武輝はただ一人、その光景を見上げて静観していた——あれは雲だと。しかし、伊武輝は目を細めて凝視すると、それは雲ではないことがわかった。
星を隠している何かは、赤い目が一つ見開いていた。時折、視線を伊武輝に投げかけながら空の遠くに漂っている。
あの黒煙に飲み込まれたら、ここには戻れないかもしれない。
伊武輝は自分の身に危険が迫っていることを悟り、顔が少し歪んだ。
見上げた頭を下に向けると、足が着いているはずの地面はなく、奥深くにも無数の星が散りばめられていた。どれも針の穴ほどの大きさで、きらきらと宝石のように煌めいている。
黒煙に気づかれないように、伊武輝は見えない地面をそっと靴で擦った。ジャ、と砂利の小さな音がした。片足に重心を掛けてもビクともせずにしっかりと立っていられる。どうやら見えない砂利が分厚く積み重なっているようだ。
しかし、この地面がどのくらい先まで続いているのかわからない。何しろ、全く見えないのだから。坂もあれば、落とし穴もあるかもしれない。もしかしたら見えない小石があるかもしれない。迂闊に動くと物音で気づかれてしまう。
伊武輝は顔を上げた。前方には光を放つ小玉の星たちが、彼の目線の高さまで宙に浮いている。そして、侵入しないと約束しているかのように、百メートルくらいまでお互いに離れていた。
おれは今、星空の中にいるんだ。
伊武輝はそう確信すると、視界の端から光が差し込んでいるのを感じ取った。後ろに振り向いたその時、あまりにも眩しさに目を細めた。背後にも星たちが瞬いていたが、とりわけ強い光を放つ星が一つあった。近くまで歩けば、伊武輝の身長くらいはある大玉だろうか。その強烈な光は、まるで伊武輝を呼びかけているようだった。脈打つように明かりが小さく揺らいでいる。
伊武輝は黒煙をちらっと盗み見ると、その星に応えるようにそうっと忍び足で大玉の光に向かった。地面が見えない分、その足取りはとても慎重だった。
そこに行けば、あの黒煙にきっと飲み込まれずに済む。安全に違いない。
なるべく足音を抑えてゆっくり歩いていたのだが、黒煙は微かな砂利の音で伊武輝に気づくと、赤い目がカッと見開いた。
次の瞬間、濁流のようにゴウゴウと轟音をかき立てながら上空から急降下し、死に物狂いで伊武輝を追いかけ始めた。伊武輝を追いかける道中にあった星たちは、逃げるそぶりもなくその場からじっと動かなかった。成されるがままに濁流に飲み込まれ、常闇の中で星が赤い眼光に変貌した。そうやって増え続ける多数の目は、他に気を止めることなく常に伊武輝を追い続け、一瞬たりとも伊武輝から視線を外したりはしなかった。
一瀉千里に迫ってくる黒煙に、伊武輝はしまったと歯を覗かせながら全力で素っ飛ばした。地面が見えなくても関係ない。躊躇していてはあいつに追いつかれてしまう。
転ぶな、だけど早く走れ。
星空を疾走する伊武輝だが、黒煙と伊武輝の距離は見ていて明らかだった。両者の間が何十キロも離れているものの、その間は急速に縮まっていく。
逃げる伊武輝の足を捕まえようと、黒煙は遠くから一本の腕を伸ばした。その腕にはわらわらと赤い目が浮かび上がっている。
伊武輝は危うく足首を掴まれそうになるが、跳躍して危うくかわした。着地した瞬間に崩れてしまった体勢をなんとか持ち直し、大玉の星に向かって駆け走り続けた。
黒煙に感づかれる前までは、大玉の星は穏やかに光を波打たせていたが、今は切羽詰まっているようにピカピカと点滅していた。
早く来いと言っているのだろうか。
黒煙は、伊武輝とすれ違った星たちを次々と飲み込んで赤い目に変えながら、さらに加速して追尾し続けた。
伊武輝の場所から大玉の星まで、距離にしてあと五十メートルくらい。あと八秒もあればたどり着ける。
だが、黒煙から二つの腕が飛び出し、伊武輝の行く先を塞いだ。伊武輝が立ち止まった瞬間、とぐろを巻くように伊武輝の周りをぐるぐると腕と腕が絡み合って伊武輝の逃げ場を無くした。
道は閉ざされ、一筋の光明も差してこない。伊武輝の周囲にあるのは、暗闇に浮遊している気味の悪い八百万の赤い目だけだった。
伊武輝は頭のてっぺんから何かが突き刺さってくるのを感じた。恐る恐る見上げると、伊武輝の目が大きく揺らいだ。
そこには巨人がいた。黒煙を纏った巨大な一つ目がこちらを見ている。天をすっぽりと埋めるくらいの巨大な頭だ。笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか、表情が伺えない。ただ一つわかることは、伊武輝を殺したくてしょうがないのだ。殺気立つ視線から、空気がピリピリと振動し、鳥肌を立たせる。
そうか、おれは死ぬのか。
伊武輝はこらえきれず含み笑いをしながら、何も抵抗もせずに、その場で両の膝を地に着いた。
これから少しずつ蝕まれるんだ。黒煙の赤い目となって、次々と他の星を食い荒らすんだ。おれは弱い。こんな巨大な相手ならなおさら結果は見えている。何をしても無駄だ……。
健康的なピンク色をした唇が青紫色に染まり、ガチガチと奥歯を鳴らしながら、伊武輝は両腕で自分の体を抱きしめた。ふー、ふーと呼吸が乱れ始める。
巨人は伊武輝の頭上で口を大きくガパッと開けた。その口から、どろどろとした赤い液体を滝のように吐き出し、伊武輝を浴びせた。冷たくて、血の味がして、血なまぐさいその液体は、伊武輝を絶望のどん底まで突き落とした。
誰も、来ない。
足全体がどんどん溶けているような感じがする。赤い液体と一体になっていく。
誰も、来ない。
腰まで浸かる。感じていた恐怖がなくなっていく。むしろ、心地いい。
誰も、来ない。
胸元まで赤い液体が満たされる。虚ろな伊武輝に少し笑みが浮かんでいる。
誰も来ないから、死んでも、誰も悲しまないよな?
首元まで水位が上がる。虚空を見つめる伊武輝の目は、静かに閉じられた。瞼の裏には何もなく、ただひたすら待つのみだった。
すると、何もないはずだったまぶたの裏側が、やんわりと赤く染まっていく。そのことに気がつくと、一瞬にして心の重みがふっと軽くなった。そして何より、体に力が満ち溢れている。
伊武輝はパッと目を開けた。すると突然目が痛くなり、腕で目をかばいながら目を細めた。目の前にいたのは、赤い目ではなく、伊武輝を呼びかけていた星の、強すぎる光そのものだった。伊武輝を浴びせた赤い液体はすでに干からびていた。
大玉の星が、黒煙から伊武輝を守っていた。
光の隙間からまだ黒煙がちらついて見えている。大玉の星はさらに一段と光を強くすると、黒煙は静かに雲散霧消した。
伊武輝は立ち上がって大玉の星に向かって一歩一歩近づいた。星に近づくたびに、伊武輝の意識がぼやけていく。今度は光に溶かされているようだ。
危険を冒してまで、なぜ、おれを助けた? どこにでもいる一人の人間じゃないか。
大玉の星に向かって、精一杯手を伸ばした。
応えてくれ。なぜだ、なぜなんだ。
だけど、大玉の星は応えてくれなかった。そればかりか、伊武輝を突き放すように、伊武輝との距離がぐんと離れていく。
伊武輝の意識はそこで、深い眠りについた。