第8話 秘密の飼育場所
「いいところがある」
そう言って春日先生は二人を連れて生物部を出るとすぐ左へ進んだ。
各階に三部屋づつしかない小さな理科棟の一階の一番端に位置する生物部の部室の左には階段がある。
ただ、他の棟と繋がる渡り廊下から反対側に位置しているために普段は誰も使わない。人気のない理科棟の中で最も静かな場所だ。
「ここだ」
春日先生は階段下で立ち止まった。
そこには、扉がひとつ付いていた。
半年間生物部に通っていた壮亮だったが、この階段を使用したことはなく、当然その扉の存在も知らなかった。
二年生の久留里も、その反応から扉の存在は知らなかったことがうかがえる。
校舎は教室が入る普通科棟と職員室などが入る管理棟、文科系の部室や視聴覚室などが入る文化棟と生物部がある理科棟の四つに分けられる。
それぞれが二から三階建てなので、当然それぞれの棟にも階段はある。
だが、壮亮はこれまでこんな扉がついた階段を見たことはなかった。
「なんですか、ここは」
尋ねたのは久留里だった。
だが、春日先生はその問いには答えずに、
「入ればわかるよ」
そう言って笑うと、ポケットから鍵の束を取り出した。
数十本はありそうな鍵にはそれぞれ教室の名前が貼ってある。
春日先生はその中から名前が白紙の鍵を選ぶと、階段下の扉の鍵穴に差し込んだ。
ガチャ
少し重たい金属音で鍵が開く音がした。
春日先生が鍵を抜く。
「どうぞ」
振り返った春日先生が扉の前を開ける。
鍵が開いた扉を目の前に壮亮と久留里はお互いに目配せをし合う。
「じゃあ……」
言葉のない話し合いの末、一歩前に出たのは壮亮だったが。
普通の教室の引き戸とは違い、ドアノブがついた扉を壮亮が回す。
ドアノブはあっけないほど簡単に回り、そのままゆっくりと扉が開いた。
「なんだ、これ」
扉の奥には、薄暗い空間が広がっていた。
そこまで広くはないが、それでも八畳程の広さはありそうだ。
だが、窓には遮光カーテンひかれていて室内は薄暗く、それ以上の事は分からない。
「こら、そこに突っ立てたら久留里さんが見えないだろ?
早く中に入りなさい」
春日先生がそう言って壮亮の背中を押す。
急に押された壮亮はバランスを崩し慌てて壁に手をついた。
ちょうどそこに電気のスイッチがあり、あたりが一気に明るくなった。
「ここは、和室?」
壮亮の後に部屋に入った久留里が、明るくなった部屋を見渡して言った。
確かに部屋には高校の校舎には似つかわしくない畳が敷いてあった。
壮亮と久留里が立っている一角だけが廊下と同じ素材のタイルで、他は畳が敷き詰められている。
おそらくタイルの上から畳を敷いているので、畳の部分はタイルのところより少し高い。
部屋の奥には小さな流し台とガスコンロがひとつある。
一見すると一昔前の苦学生が住んであるアパートのワンルームのように見える。
けど、どうしてそんな部屋が高校の校舎の階段下にあるんだ?
壮亮の頭に浮かんだ疑問に、一番後に部屋に入った春日先生が答える。
「ここは、昔当直の先生が仮眠を取るために使われていた部屋なんだ」
「当直?」
「ああ、今は全てセキュリティ会社に委託しているが、以前は夜に学校に忍び込む不届きな生徒がいないかを監視するために、一人から二人当直の先生がここに泊まって一時間おきに校舎の見回りなんかを行なっていたんだ」
学校の校舎は、一度立てればその後数十年という単位で長く使われる。
今では時代遅れになった制度のための部屋があってもおかしくはない。
「久留里さんのミルクちゃんを一時的に匿うなら十分な場所だろう?」
旧当直用仮眠室は、確かに手頃な広さもありものも溢れていないので危険も少ないだろう。
少なくとも、ゲージや生物部よりは何倍もマシだ。
強いて言えば少し埃っぽいが、それも換気すればすぐに気にならなくなるだろう。
「はい、十分です。ありがとうございます。春日先生」
一通り部屋を見渡した久留里は、さっきまでの涙目が嘘のような笑顔になって春日先生に頭を下げた。
「ミルクを連れてきてもいいですか?」
「もちろんだよ」
春日先生の答えを聞くや否や、久留里は小走りで生物部に残してきたミルクの元へかけて行った。
旧当直用仮眠室に、壮亮と春日先生の二人が残された。
「一つ聞いていいですか」
二人になったタイミングを見計らい、壮亮が春日先生の に尋ねた。
「どうして先生はここの鍵を待っているんですか?」
「それは、生物部を含めてこの理科棟の管理は私の仕事だからだよ」
「なら、始めから久留里先輩をここに連れて来ればよかったじゃないですか」
久留里先輩が探していたのは、堕胎を勧める両親と主治医から逃れてミルクを世話できる場所だ。
ここを初めに紹介していれば壮亮が巻き込まれることはなかった。
最終的に協力を申し出はしたが、内心では関わりたくないと思っていた壮亮は非難の目を春日先生に向けた。
だが、当の春日先生は久留里が出て行ったほうを見つめながら素知らぬ顔で、
「だって君は優しいでしょ?」
そう一言呟いた。