第14話 過去を知る瞳
「もう一度言うが、妊娠は病気じゃない。
だから、そもそも病院で診ないといけないことじゃない」
森繁トメと名乗った老婦人は湯のみが三つ乗ったお盆を運びながら言った。
ゆっくりとした動作でそれを持ってくると、愛花と壮亮、そして自分の前にそれぞれ置いた。
「さ、お飲み。気が動転した時は温かい飲み物が一番だよ」
愛花は小さく頭を下げて湯のみを持ち上げ、ゆっくりと傾けた。
「おいしい…」
思わず漏れたといった様子で愛花が呟いた。
「ささ、お連れさんも」
トメさんに促され、壮亮も湯のみに口をつける。
緑茶か何かだと勝手に思い込んでいた湯のみの中身は、予想に反して柑橘系の爽やかな匂いがした。
「ゆず…」
「特製のゆず茶だよ」
トメさんはなかった笑って言った。
「さて、少しは落ち着いたみたいだから本題に入ろうかね」
トメさんに促され壮亮は愛花を見た。愛花も湯のみを置いた後、少し困ったような表情で壮亮の顔を見た。
お互いの視線が数秒交錯したが、意を決したようにトメさんに向き直った。
「あの、妊娠が病気ではないというのはどういうこと出すか?」
「それは、そのままの意味じゃよ」
トメさんの返答を聞いて、愛花は収まっていた動悸がまた早くなるのを感じた。
「もう八十年も前になるか。男女平等という合言葉でこの世界で妊娠は悪になった」
トメさんは遠い目をして言った。
皺の刻まれた顔と曲がった腰が彼女が生きてきた年月の長さを教えてくれるが、それがどれほどの長さなのかは十六歳の壮亮には想像もつかない。
もしかしたら、今の世界になるその前にはすでに生まれていたのかもしれない。
壮亮にとっては当たり前な今の世界が出来上がる前の世界。それは、壮亮にとっては想像もできない世界だけど、トメさんにとっては実感できるもう一つの世界ということになる。
壮亮は軽いめまいとともに、トメさんの言葉の重さを感じ、より真剣にトメさんの言葉に耳を傾けた。それは、隣で聞いている愛花も同じだった。
「男と女の格差をなくす。それは、とても素晴らしいことじゃ。
私のおばあさんの時代には女性と男性の間にはとても大きな格差があったからね。今の若い人には想像がつかないだろうけれど、当時は女性の立場はとても弱かった」
トメさんの話は、二人にとっては教科書に載っている話だ。
今の世界秩序が出来上がる前。第三次世界大戦が巻き起こる前の世界では、男尊女卑という性別による格差が存在していた。
知識としては知っていても、その時代を知る人から聞く言葉は重さが違った。
「だからね、格差をなくすというのはとても素晴らしいことなんだよ。そのおかげで、望まない人生を歩まずに済んだひとがとてもたくさんいるからね。
ただ、問題なのは話がそこで終わらなかったことだ。世界は、男女の格差を取り除くだけでは飽き足らず、男女の区別さえも取り除いたんじゃ」
トメさんの顔が一瞬険しくなった。
「でもそれは仕方がなかったんじゃないですか?男女の区別、性別による身体的特徴や生物的役割が残っている間は完全なる平等はあり得ないって学校で習いました」
思わず口をついた壮亮な質問に、トメは首を振った。
「たしかにそう言うものもおる。だけど、それは神様の領域じゃよ。
神様が女の体をこのように作り、男の体を作った。それは、生命が子孫を残すのに最適なメカニズムなんじゃよ。そこには格差の是正ではなくて、お互いの性を尊重し合うことが必要なのじゃ」
トメさんはゆっくりと湯のみに口をつけ、ほんの少しだけ口に含み喉を潤した。
「現に今では、新しい生命の誕生として祝福されるべき妊娠が悪として語られている。そこには、自然な営みというものが欠落しているんじゃ」




