第八話 そして温かさは世界を包む。
体を起こした。相変わらずの白一色の景色。目を開けた瞬間はそれがとても眩しい。
じゃあ、歩こう。そう思えた不思議。僕は世界を思わず睨みつけた。死んだ世界を。
温かさは胸の中にまだ残っている。それに導かれるように歩いて行く。あぁ、どこだ。どこにいるんだ、この温かさを僕にくれた人は。教えてくれ。
近くにいる気がして、遠くにいる気がして。目を凝らしても何も無くて、平坦な景色がただ広がっている。もう良いではないか。さんざん探しただろ。そう思いながらも諦めきれない僕は歩みを止めない。僕を馬鹿だと罵ってくれる存在はこの世界にはいない。だから歩く。僕の歩みを止めてくれる存在に出会うまでは。
目が覚めて、僕は頬の痛みに思わず顔を歪めた。昨日、目が覚めた僕を、じいちゃんは無言で殴った。それだけで、僕は何をしたのかを理解した。
日曜日だ。予定では、昨日のうちに帰っているのに、結局迷惑をかけてしまった。隣で眠っていたはずの陽菜の布団はまだ温かい。部屋を一周見回すと、すぐに姿を見つけた。
「おはよう」
「……はっ、おはようございます」
何かを読んでいたみたいだ。いそいそと鞄の中に片づけて、珍しく陽菜は愛想笑いをした。
父さんの日記か。陽菜が持っていたんだ。
「どうかした?」
「なんでもありません。お婆様が私たちの服を洗ってくれました。既に乾いています」
「そう」
右手を握って開いて感触を確かめる。海の中で、僕は助けられた。ありえないし、心霊とかそんなの、あまり信じてはいないけど、でも、あの時確かに存在を感じられた。
やけに落ち着いている。昨日まで感じていた、入り混じった、矛盾した感情がどこにも無い。ただあるのは、ひたすら落ち着いている。不自然なまでに落ち着いた、静かな海のような、そんな感情。
陽菜は僕を責めない。今のありのままの僕をただ見守ってくれる。それがどんなに有難い事か。
まだ、外は暗い。
窓際に座る陽菜の横にしゃがみ込んだ。
丸まるように座る僕に、陽菜は寄りかかった。
目を閉じると、僕の大好きな香りが、強く感じられた。波の音は聞こえないけど、海が感じられる。不思議な感覚。
一瞬、白い世界のイメージがフラッシュバックした。そこに腕を広げて待つ誰かがいた。
目を開いた。朝日が部屋の中に差し込んだ。
「相馬君、大丈夫ですよ」
陽菜が唐突にそんな事を言った。手が伸びて、僕の目じりを拭った。
「なんで、泣いているんだ?」
「わかりません。でも、不安なら、私が傍にいますよ」
「陽菜も、泣いてるじゃん?」
「えっ?」
指先を湿らせて、僕はそれを口の中に入れた。
「しょっぱい」
「なんで舐めちゃうんですか……」
母さんだった。
白い世界、歩き続けた先に、母さんが待っていた。
僕は飛びこむように母さんに抱き着いた。思わず、泣いた。
もしもとかくだらない。今僕がここにいることが事実だった。わかっていた事なのに。
白い世界が染まって行く。終わった世界に命が宿った。
「心臓の音、聞こえますよ。ちょっと早いです」
嬉しそうに呟く陽菜をさらに強く抱きしめた。
海の中は冷たかった。生臭かった。でも、命があった。必死に伸ばしてくれる手があった。幻かもしれない優しい手が導いてくれた。
「ありがとう」
心から溢れた言葉。それだけだ。
「なぁ、日暮。お前も三年だろ。わかっているよな」
「そうですけど」
「いや、わかるよ。学生時代。色々経験は積むべきだ。でもな、今一番重要なことを考えろ」
「はぁ」
職員室で椅子を出される体験をするとはな。担任の先生が言葉を選びながら昼休みを消費していく。
「なぁ、ここはな、勉強に専念してみてはどうだ?」
「してますけど……模試の結果見ましたよね?」
「いやな、確かに優秀な方ではあるが」
「もうはっきり言ってはどうですか? 先生」
「わかった。お前、彼女とか言ってないで、学業に専念しろ」
あ~。本当に直接言ってくるとは……。
僕は世界を変えたいと思った。
なら、ここでこの先生の言葉をひっくり返せなくてどうする。
僕は欲しい。理不尽をひっくり返せる力を。弱い自分が大嫌いで、仕方ない。でも、弱さを受け入れるのも、強さだと、僕は知っている。
先生は僕の言葉を待っている。後数秒もすれば、畳みかけるように色々言ってくるだろう。だから。
「陽菜!」
職員室の外に向かって呼びかけた。
「はい」
すぐに来てくれる。その確信を、彼女は裏切らない。わけもなく、陽菜を抱き寄せる。先生の目を真っ直ぐ見る。きっと、口元は笑っている。
「無理です。僕は大好きで仕方ないのですよ。彼女の期待を、信頼を、裏切るような事はできません。だから先生。気に食わないなら退学でも停学でもなんでもしてください。僕は夢を叶えます。僕の夢に彼女を連れて行きます」
気がついたらそこそこ大きな声が出ていたみたいで。職員室中の注目を集めていた。その視線を感じながら僕と陽菜は職員室を出た。後は野となれ山となれ。夢ができると色々なものに執着しなくなるみたいで、明日から高校生じゃなくなると言われても、きっと動揺しないんだろうな。
「あんたもようやるわ」
「あっ、噂になってた?」
「噂も何も、あんた、この高校の裏掲示板とか見たことある?」
「無い」
「あんたら、ベストカップルランキングぶっちぎりの一位になってるよ」
「へぇ」
君島さんが向けてくるスマホの画面には、おぉ、本当だ。
「先生方も、あんたらをどうしたものかと悩んでて、結局黙認にするという方向で固まりそうよ」
「そうかい」
楽しそうに莉々は笑う。
「精々がんばりなさいな」
「そうさせてもらうよ。ちなみに、他にどんなランキングあるのさ?」
「んー。昨日まで女たらしランキングとかあったけど、あんた消えたね」
この学校における僕のイメージが気になるな。いや、知らない方が良い事もあるか。うん、気にしない、気にしない。
思いっきりクラッカーを引っ張った。
「「「「「「誕生日、おめでとー」」」」」」
陽菜が入って来た瞬間に、僕らはそう叫んだ。
「あれ? 私、買い出しに行くよう頼まれて……」
両手に下げた買い物袋が、ドサッと音をたてて床に落ちた。
「はい、私は頼みましたよ。先輩に。ありがとうございます。これでパーティー料理の仕上げができます」
ケーキに乃安は蝋燭を立てて行く。十八本。陽菜は自分の事には鈍い。だから、何の疑問も無く買ってきたのだろう。
陽菜が行っている間に、みんなで急いで準備して、よく間に合ったなぁと思った。
「さぁ、吹き消してください。陽菜先輩」
見守るみんなと、戸惑う陽菜。小さくうなずくと、控えめに息を吹きかけた。
パーティーの終わりはどこか物悲しさがある。騒がしさが消えて、静けさが残る。
窓際に座って、足をぶらつかせて、体を横たえて、星が見えない空を眺める。そういえば、陽菜、星を見たいとか言っていた気がする。連れて行かなきゃな。あの丘も良いけど、もっと良い所無かったかな。あそこは人があまり来ないという面では良いけど、結構歩くからなぁ。
「先輩先輩!」
「んー」
「夏樹先輩が、こちらをどうぞと。帰ってから渡してねとのことだったので」
「はぁ」
なんだろう。
「……これは?」
「ヤンデレチョコ? ですか」
「どういう意味だ?」
「多分、この絵の女の子が包丁を持っているので、怒りを表現したかったのでは?」
「はぁ」
「頼られて欲しかったと」
毎度毎度……でも、それでも、頼って欲しいと思ってくれる人が近くにいる。それだけで心強いのに。
「は~あ」
「どうかしましたか?」
「いや、難しいなぁって」
「何がですか?」
「みんな色々思うところありながら、こうして一緒にいるんだなぁって」
「あ~。そうですね。私も先輩に思うところありますよ」
「えっ? 何……?」
乃安は、悪戯っぽく笑って、唇に人差し指を立てる。
「秘密です」