第七話 世界の理不尽。世界の優しさ。
命には終わりがある。世界に命があるなら、終わりがある。なら僕が歩いているのは、終わった世界だ。何も無い、命を感じられない世界は、終わったと思うべきだ。
僕は生きているのか? この世界で。
平坦な白い世界を歩くのも、そろそろ疲れてきた。果てがあるけど無い。なぜならここも既に果てだから。果てから果てを目指しても、景色が変わらないなら、無いのと一緒だ。
何を探しているのだろう。こんな世界で。終わった世界で。胸に残る温かさだけが、それを覚えている。
先輩はまだ、私たちと居る間は自分を保てている。学校で陽菜先輩と会った時、何だか陽菜先輩にも調子が戻ってきたように見えて、焚きつけて良かったと安堵した。
「夏樹先輩……」
「おーよしよし」
逆に私が、恐ろしさで夏樹先輩の助けが必要なくらいだ。
落ち着け、私。
でも、こんなの、私たち子どもがどうにかできる事なのだろうか。誰も、母になんてなったこと無い。そんな私たちが、母の気持ちを代弁することをできるのだろうか。
何より、私も陽菜先輩も、親はいない。陽菜先輩は、あの人の事を母と認めたのでしょうか。私には推し量れないけど。
どんなに抱きしめても、語りかけても、その奥に届かないもどかしさを感じる。だからこそ、家族の愛を知っている夏樹先輩の存在は重要だけど。
でもさ、家族だから愛し合える? そんな馬鹿な。
いや、今は私の考えなんて、どうでも良いんだ。落ち着いて、落ち着いて。ダメだね、最近、こんな事ばかり考えてしまう。自分の根幹の一部を理解した途端これなんだから、先輩はもっと辛いの、かな。私にはわからないけど。きっと、理解できない。
思わず乃安さんを睨んだ自分に驚いた。私が不甲斐ないだけなのに。愚かな。私に、乃安さんを怒る資格なんて無い。
馬鹿だ、私は。でも、彼を好きだという思いだけは、本物と言えるから。それだけは譲りたくない。そんな自分勝手。
目の前に座る夏樹さんが、どこか気を使っているように見えるのも、苦しいけど、私は、ここであえて、何もないふりをするんだ。ここで、相馬君を心配する素振りを見せれば、きっと彼はまた自分を責めるのだから。だから、落ち着いて。落ち着いて。
私は、私のやるべき務めがを果たす。それだけだ。だから、大丈夫。
家に帰って、そんな事を考えていたら、逆に相馬君に抱きしめられてしまって、でも、それは別に私の思惑がバレたわけでは無くただ求めてくれた結果だと気づいて、何となく安心もした。
相馬君はまだ諦めていない。ただ、葛藤しているだけ。そう、彼は止まっていない。進もうとしている。ただ、自分を許す事に手こずっているだけなんだ。
「相馬君。今度の日曜日空いていますか?」
「空いてるも何も、いつも一緒じゃないか」
「なら、そうですね。私、天体観測して、神社参りして、それと、そうですね……相馬君のお母様のお墓参りに行きたいです」
だから、届かない部分に、無理矢理手を突っ込むことにしたんだ。
相馬君の、知り得る限りの全ての思い出に、手を伸ばすことにしたんだ。
また歩いている。この終わった世界を。
ここは何だろうか。
いや、ここは何でもない。だって終わっているのだから。終わった世界に何もあったものじゃない。疲れてきた。いや、疲れなんて無いのに、疲れとか、じゃあ、なんで足を止めたんだ、僕は。
一瞬、遠くの方に何かが見えた気がした。何だろう。確かめたいのに、足が動かない。白い世界に何か別の、異物? が見えた。
おかしいのは僕なのか? 世界なのか? 見えた何かなのか? 馬鹿だ。おかしいじゃないか。
膝をついて、そのまま体を横たえて、そして空を見上げた。空だけは青かった。周りに何も無いから、やけに遠くに見えたし、近くにも見えた。広いのは変わりない。
目を閉じて、そのまま休むことにした。もう歩きたくない。
土曜日。私は相馬君の手を引いて歩いていた。
私はやるべきことを果たす。相馬君を支え、添い遂げる決意をしたのに、立ち止まっていられるものか!あぁ、私もまだまだだ。後輩から叱咤激励をされるまでうじうじするなど……愚か者め。
電車に乗って、もう何度目かの海沿いのあの町へ向かった。今回は、お墓参りだけしてすぐに帰る予定だ。旅館に挨拶はしない。多分、相馬君が壊れる。
秋の海はどこか優しい。きっと、受け入れてくれる。私たちの事も。流れる景色に心を落ち着けて目を閉じれば、思い出すのは、出発前の会話。
「本気ですか? 先輩」
「本気です。乃安さん、ありがとうございます。おかげで目が覚めました」
「でも……」
「わかりますよ。私たちで相馬君を守って生きて行く、そんな道もある事は」
「はい、私は、先輩がそれを選べるなら、一緒に選べます」
乃安さんは、優しい。どこか達観した雰囲気を纏うようになってからも、それは変わらない。
「私は選べません。相馬君が差し出してくれた手を、握った者として」
唇を噛んで涙をこらえる後輩に、心を痛めながら。私は階段を降りてきた相馬君に手を差し出す。握ってくれた。なら、あとは手を引くだけだ。
心は躍らない。でも、落ち着いている。
道に迷ったのなら、叩いてでも。落ち込んでしまったのなら腕を広げて。それが、私の彼に示せる愛。
ゆりかごに揺られるような感覚。私は目を開けた。
「久しぶりだね、こういうのも」
「! 私!」
「電車の中でぐっすり」
からかうように笑いだす相馬君。私は無理矢理に下りた。
「むぅ」
「怒らない怒らない。良いじゃん、たまにはこういうのも」
「恥ずかしです」
「背的には全然不自然な絵じゃないし。いや、誘拐? うーん、でも、よく見れば面影あるしな。ばれないか」
「そう言う問題ではなく!」
「ほら、行こうよ」
坂道を登って行く。彼が、自分から誰かをお墓参りに連れて行った事は無い。私も、旦那様? 叔父さん? に連れられて行った以来だ。いつも誰も連れて行きたがらず、一人で行ってそして帰ってくる、だから、今こうして私を先導するように歩く。そんな姿にどこか感慨にも似た感情が湧いた。道はうろ覚え。別に覚えていないわけでは無い。ただ私はついて行く。彼の意思を見たい。感じている、私の思い込みではないと思いたい、彼のまだ諦めていないそんな意思を、見たいんだ。
「ついたよ」
彼は足を止めた。金網の扉。それに手をかけて、そして、手を下ろした。
「ごめん」
彼は呟いた。
「僕は、どうして」
靴と地面がこすれる音。虫の鳴き声。さざ波の音。
3歩歩けば、彼を抱きしめられる。一歩歩けば、彼に手が届く。そんな距離が遠い。私の戸惑う隙は、致命的な隙で。
体が反応した時は、彼は海に体を躍らせていた。
「ま、待ってください!」
私も追いかけるように海へ飛び込んだ。
ドボン。
あっという間に、服は水を吸い込んで、重石となる。
手を伸ばした。つかめた。どうしてかわからない。私の背じゃ、とてもじゃないけど、届かないのに。彼の手は吸い寄せられるように、私の手を掴んだ。後は泳ぐだけ。そんな事、派出所で死ぬほどやらされた。文字通り。メイド長に着の身着のままで海に放り込まれて、着衣水泳を1日中やらされたのは今でも覚えている。
あの脳筋メイドや後輩と比べれば、相馬君を運ぶことなんて、簡単だ。思い入れが違う。
後で私の鞄を回収しなきゃとか、相馬君の荷物の心配とか、どうでも良いことをなるべく考える。砂浜に戻って、私は相馬君を下ろした。息はあるし、水もあまり飲んでないみたいで、力が抜けて、砂浜に身を投げ出した。
あぁ、何て幸運なのでしょう。お爺様とお婆様が遠くから駆けてくるのが見える。私たちは担がれて軽トラの荷台に放り込まれて旅館に運び込まれた。
結局迷惑をかけてしまった。
目が覚めた時、申し訳なさそうに私の横に座り込む相馬君が見えた。
「不思議な事、言っても良い?」
「はい」
「母さんが助けてくれたんだ」
「はい?」
「母さんの姿、見えた気がしてさ。母さんが、僕の手を陽菜の方に、持って行ったんだ」
「はぁ」
「じいちゃんも、何か嫌な予感がしたから墓参りに行こうと思ったらしくて。ほら、陽菜の荷物。持ってきてくれた」
「相馬君のは……」
「陽菜の鞄に入れといたんだ、おんぶする時、ポケットに入れてあると、邪魔でさ……」
あははと笑い辛そうに笑う相馬君の頬には、なんでか治療の跡があった。