第五話 崩れる世界。
あちこちあざやら擦り傷やら。
「染みますよ」
「うん」
消毒液で傷の消毒、酷い部分は絆創膏を貼られた。
悲し気に目を伏せて、それでも、やるべきことだと自分に言い聞かせるように頷いて治療を陽菜は続けた。
「陽菜」
「黙っていてください。今、相馬君の声を聞くと、泣いてしまいます」
「ごめん」
陽菜と感じた、初めての気まずい沈黙。雨の音がただ響いた。
気づかないうちに、こんなにも人は傷つくものなのか。でも、それでも、収まりようのない気持ち、一人なら、抑えラれなカった。陽菜がいルから、今は抑エられた。
母さん。何デ、無理して僕を産んだんだ。
なぁ、母サん。教えテくれよ。オシエテクレヨ。
先輩が壊れた。
先輩を、一人にしておけなくなった。
一人にしておくと、自分で自分を傷つけるから。だから、常に誰かが一緒にいなくてはいけなくなった。
陽菜先輩は、四六時中、いつでも一緒にいることを望んだ。けれど、それでも常になんて無理だから、必然的に、私が一緒にいることもある。
一見、いつも通りだ。私も、いつも通り振舞う。
こうなっては、家庭訪問が来るかもしれないとか言っていられない。私も、相馬先輩の家に常駐態勢だ。
理由のわからない罪悪感、それの理由が見つかってしまった。先輩の過剰な自己否定、精神的自傷、無意識のうちにそうしてしまう理由がわかった。
自分を裁く、正当な理由が、見つかった。
「乃安さん、交代、お願いします」
陽菜先輩も、疲労の色が見える。無理しているのが、わかる。
私は、どうにかなっている。不思議とどんな時も落ち着いていられる、私の変な性質が役に立つ時が来るとは。だから肉体的疲労はあれど、精神的疲労は無い。
「今日は後は私が見ていますから。陽菜先輩は寝てください」
「すいません」
相馬先輩、何やっているのですか。もうすぐだというのに、まだ、何の用意もしていないでしょう。
同じベッドに寝そべって、私の腕の中で安心したように眠る先輩を、静かに見つめて、届くかもわからない念を送る。
「陽菜先輩の彼氏をするなら、もっとしっかりして欲しいです」
完全に寝入っている。寝ぼけて答えてくれないかなとか思ったけど、ダメみたいだった。
学校では、どうにか安定しているけど、いつ崩れるかはわからない。とにかく、一人にはしてはいけない。それだけは、確かだった。彼に、何が足りないのか、はっきりとはわからなかった。
次は、私たちが、彼を助けなければならない。
彼は、いつも助けられているというけど、でも、救われていないのは、目に見えてわかるんだ。進んではいる、癌を抱えたまま。外からは切り離されていた癌が、ようやく、彼を通して、私たちも触れられるものになったんだ。
陽菜先輩も不安定になっていく。だから、私が、しっかりしなくてはならない。
彼を抱きしめる腕に、少し力が入った。
「ねぇ、日暮相馬に何があったわけ?」
二時間目の終わり、前の席に座る莉々が振り向いて唐突にそう聞いてきた。
莉々は、彼の事を嫌いというポーズをとるけど、彼の変化に気づく速度で言えば、陽菜先輩にも負けない。私では勝てない。
「なんでそう思うの?」
「目がおかしい」
そう言って、莉々は立ち上がった。
「もう帰る」
「えーっ」
慌てて莉々の腕を掴む。彼女の気分屋な行動には未だに慣れない。
「だって、つまんない。いじめられない顔している日暮相馬とか、味の無いガムだよ」
「あー、確かにそれはつまらないかも。あっ、じゃあ、昼休み様子見に行かない?」
「やだ。あんな日暮相馬、見たくない」
あー、やっぱり、そうなんだな、莉々は。
彼に対して、彼が一番否定的。精神的な自傷癖。受け取る感情がよくわからなければとりあえずマイナスに捉えて、好意的なものも、自分が受け取って良いものなのかをまず考えてしまうそんな癖。
私は、先輩の周りにいる人の好意を、どうしたら真っ直ぐに届けられるのだろう。
こんなにも愛されている彼を、私は守りたい。
「はぁ」
「乃安ちゃん?」
「私、莉々がいないと駄目かも」
掴んでいた腕を引き寄せて莉々を抱きしめた。
「う、うぅ、乃安ちゃんがそう言うなら、莉々、午後もいようかなぁ~」
どこか上ずった声が、可愛い。
「愛の受け止め方がわからないから、愛が重くなる。丁度良い量もわからないから」
莉々は、ぼそりと呟いた。
「日暮相馬があまり気持ちを表に出さないのは、それをわかっているから」
耳元で囁くように言う。
「ねぇ、乃安ちゃん。あいつ、莉々の事どう思っているのかな。気持ちの受け止め方も向け方もわからない、似た者同士の私たちだと莉々は思ってるけど、あいつは、莉々の事どう思っているのかな?」
「さ、さぁ?」
あれ、可愛い。莉々が可愛い。
顔をほんのり赤らめているのが想像できるから、良い!
「おーい、君島、朝比奈、仲が良いのは良いが、授業始めるぞ!」
「「は!」」
莉々を慌てて離す。莉々は何だか名残惜しそうに離してくれた。あぁ、可愛い。
「あぁ、乃安。いらっしゃい」
窓の外の景色を眺める横顔は、いつもより少し儚い。
でも、それはほんの少しの変化で、取り立てて違うとは思わない。
「あら、乃安ちゃんだ。陽菜ちゃん、弁当食べよ」
「はい」
そう、いつも通りだ。この風景は。桐野先輩が部活の人たちに連れられて食堂に行ってしまうのも、よく見る光景だし。女子の中に苦笑いで座る先輩も、いつも通りだ。
こんな光景を、先輩はどう思いながら見ているのだろう。
幸せになって良い、そう頭では理解しながらも、結局は、奥底に持っていた感情がそれを許しはしなかった。そういう事だろう。
「相馬君、どうぞ」
「ありがとう、陽菜」
陽菜先輩も、いつも通りを演じる。それでも、ぽっかりと二人の間に、どこか距離がある。いや、陽菜先輩が詰めようとする距離だけ、相馬先輩が遠ざかっている。
原因の無いものと、原因があるもの、手強いのは原因があるものだ。原因がわかってしまえば、それを解決しなければいけなくなるから。原因が無ければ気にしなければ良いと結論付けられる。私の中での普通はそれだ。でも、多分先輩は、どちらにしても、気にする。そんな人だから、ずっと抱え続けて、原因が分かった途端、それをさらに重く受け止める。ずっと気にし続けてきた分、その原因に思い当たらなかった自分を責めて。
「乃安ちゃん、なんで泣きそうな顔するの?」
「夏樹先輩……」
私は思わず抱き着いた。柔らかくて、とってもいい匂い、ラベンダーだ。
「あぁ、柔らかいです」
「おぉ、甘えてくれてる。何て可愛い。思いっきり甘えて頂戴! そして、悩みがあるなら、この委員長、学年問わず受け付けるよ!」
今はこの、夏樹先輩の無邪気な元気がたまらなくありがたい。
「大丈夫です。先輩。元気、貰いましたから!」
だから、精一杯の笑顔を、先輩に見せられるんだ。引換券は女としての自信かな。
「全然大丈夫じゃないでしょ」
けれど、夏樹先輩は、引かなかった。私の目を、じっと見ていた。
私は、廊下に連れ出された。
「周りの人の方が酷いから、自分は何とも無い、そう思い込んでいる人の顔をしている。周りの人の方がヤバいから、落ち着いていられる。違う?」
周りには聞こえないように、声を潜めている。夏樹先輩なりの気遣い。でも、私にはやけに大きく、はっきりと聞こえた。
「もう、逃がさない。私を蚊帳の外にはさせない。ちゃんと、頼ってもらう。頼りになるんだから、私は。私だって、できることは、あるんだから!」
「夏樹さん、声、声が大きいです」
通りがかった人たちが何事だ? とこちらを見ていた。でも、夏樹先輩は止まらない。
「いつもいつもいつも、蚊帳の外、そろそろ怒るよ、私」
「はい。はい」
「さあ、頼りなさい。乃安ちゃん。陽菜ちゃんと相馬君。どっちもどうにかして見せるんだから!」
こうなっては、諦めるしか、無いんだろうな。
「わかりました。先輩。私の負けです」
「素直でよろしい」
にっこりと笑う夏樹先輩に、やっぱり敵わないと思わされた。