第四話 蝕む世界。
暇すぎた。その日は。人は暇すぎる日は、なんでこう、いつもやらないことをやってしまうのだろう。
結局のところ人は、いつも通りすらうまくできない。ちょっとした綱渡りで生きている。そう証明された気がした。
そもそもいつも通りは、世界に僕らが僕らに対して勝手に課したルールに過ぎない。ならば、いつも通りなんて無いに等しいから、習慣は当てにならない。僕らがやり続けることが、習慣の存在条件だとすれば、世界のちょっとした変動で消え失せるのは、当たり前のことだ。
だから僕が、朝走るのも、天気が悪すぎればできないように。川の増水で電車が動けなくなるように。そのせいで学校に行く手段を失うように。陽菜と乃安が唐突にできた時間を持て余すように。
僕がこうして、父さんの書斎で蔵書を漁るように。
日常とは綱渡りだ。当たり前すら僕らには奇跡なんだ。一瞬一瞬が、僕が今生きている一分一秒が、針の上の大道芸人だ。
父さんの書斎、しばらく訪れることは無かったけど、清潔で埃っぽさなんてほとんど無かった。
その中で見つけた一冊。Diaryと書かれたそれは、見ても良いものだろうか。
日記、か。読んでも良いものでは無い気がするけど。誰のだろう。多分、父さんのだとは思うけど。ペラペラとだけめくる。父さん、日記なら日付くらい書いておけよと心の中で突っ込んだ。
『今日は、子どもができた事がわかった。日本を出てから今までで一番うれしい出来後事だ。恐らく生まれれば人生で一番うれしい出来事になるだろう。今の仕事、足を洗う事も考えなければならないだろうな。』
父さん、字、汚い。
でも、嬉しそうなのは伝わって来た。
僕はさらにページをめくった。
『依頼が来た。日本に逃がすことになった。実の妹が依頼者になるとは。しかも子どもまでお腹に抱えている。この仕事を最後にしたい。だから、何としても成功させる。』
汚い字で、しかし、気持ちの入った字でそう書いてある。相変わらず、日付書けよ、父さん。
しかし、読んで良いのかとか考えていたけど、普通に読んでしまっているな。どうしたものか。
ぺらりと、まためくる。
『病院で、日花里の病気がわかった。子どもを産むのは、勧めない。出産は成功しても、それから長くは生きられない。そう言われた』
ページをめくる。
めくる。
もう一枚。もう一枚。
白紙が続いた。
書きたくなくなったのか、それとも飽きたのか。父さんはこの先のページには何も書いていなかった。
「あぁ、そうかよ」
ようやく、何もかもが、はまった気がした。パズルのピースが、すべてはまった。
「僕は、そうなのか」
外は、まだ雨が降っていた。今、何時だろう。どうでも良い事が頭を駆け巡る。
僕は、外に出た。
「陽菜先輩、そろそろできるので、先輩呼んできてもらっても良いですか?」
「はい」
「冷めちゃうので、あんまりイチャイチャしては駄目ですよ」
「乃安さん。後でオボエテイテクダサイね」
乃安さんを軽く脅かして、私は相馬君を探しに行く。ある程度、予想はついているけれど。多分、書斎だと……。
「あれ?」
外した。この私が……。
では、部屋でしょう……。
「本が出しっぱなし。という事は、先ほどまでここにいたという事でしょう」
つまり、お手洗いとか。でしたら、ここで待っていれば。いえ、トイレには人の気配は無かった。
「私が、相馬君の気配を見逃すはずがない……」
嫌な予感がした。相馬君が出しっぱなしにしいていた本を開く。
日記。内容をすばやく読んでいく。
「これは……」
これを読んだのだとすれば、相馬君は。
私は一階に下りる。そしてすぐに、傘を一本ひっつかんで外に出た。
雨は、降り続いている。傘は減っていない。でも、相馬君の靴がない。
「先輩!」
「乃安さん。家をお願いします。私たちが帰る場所、お願いします」
「……お任せを!」
有難い後輩だ。深くは聞かず、笑顔で送り出してくれる。本当に、有難い後輩だ。
日常は、奇跡の連続だ。今、ここでこうしてるのだって、きっと宝くじなんかより低い確率なのかもしれない。
僕がもしここにいなければ、今頃あの家には母さんがいたのかもしれない。もしかしたら、病気を治して、別の子どもが母さんと仲良く暮らしていたのかもしれない。
僕は、あの事実を知っていた。
理由の無い、罪悪感を、いつも感じていた。その理由がようやくわかった。あの事実に、そこまで衝撃を受けることなく、ただ、忘れては駄目な現実を目の前に突きつけられた、その漠然とした感覚が、今の僕を責め立てるようにそこにある。
いつかは向き合わなくてはいけなかった。のかもしれない。今思い出した人間に、それがわかるはずは無いけど。でも、もし覚えていたとしても、僕は向き合わなくてはいけない時が来ていた。
母さんの犠牲の上に、僕は立っている。母さんの命を踏み台にして、こうして今を生きている。
一人になりたかった。
思い切り、拳を近くにあったブロック塀に叩きつけた。びくともしないブロック塀、ただ、手が痛くなっただけだった。
一人になりたかった。
僕は誰かの命の上に立って生きていける人間なのか。それがわからなかった。
あてもなく、さ迷うにように歩いた。破壊衝動を、自分に向けようにも向けられないもどかしさを、そこら辺の物にぶつけた。
増水した川を眺める。
誰に、この事実を聞いたのだろう。
思い出してみる。
「子どもさえ産まなければ……」
「良いのです。これで」
そうだ、母さんとお医者さんとの会話だ。
ぼんやりとした記憶。その時は意味がわからなかった。目の前で母さんが……その時にようやく理解したんだ、僕は。
何度も向き合って、それでも思い出せなくて、ようやく、教えられるように僕は思い出した。他人事だった思い出が、ようやく、僕の物になった気がした。
後ろから、駆けてくる足音が聞こえた。
「何を、しているのですか……!」
「何をって……」
何をしているのだろう。
ただ、歩いているだけだ。僕は。
「僕は、大丈夫だよ。陽菜」
「何も、大丈夫じゃありません。傷だらけじゃないですか、相馬君……」
「なんで、陽菜が泣くのさ」
「あなたが、辛そうだから悲しいのです」
「これは、僕の辛さだよ」
「違います。私も、それを背負います」
「なんで、そこまで。恋人だからって」
陽菜は首をぶんぶんと振る。
「私は……」
「メイドです?」
「いいえ。私は、あなたを愛しています。あなたが今生きていることに感謝しています。酷い言い草ですね。今の相馬君にとっては。でも、でも、相馬君。あなたが悲しむことは、あなたのお母様の選択を否定するようなものです」
陽菜が事情を知っていても、驚かない。僕はあの日記を出しっぱなしにしていたはずだ。
「わかっているさ、それくらい。でも、わからない」
僕は、母さんに命を削ってもらわなければ、生まれる事すら、できなかった。
今の僕に、それだけの事をしてもらった価値はあるのか。
これからの僕に、その犠牲を全うできるだけの事ができるのか。
「だから僕は」
キスで、言葉を防がれる、なんて体験を、初めてした。
「その先は、言わせません。今は、帰りましょう、相馬君。家に。乃安さんが待っていますから。風邪、ひいてしまいます。傘は持っていただけますか? 背、低いので、私」
縋るように抱き着かれ、だから僕は。
「わかった」
そう、呟くように言った。すぐに、傘を押し付けられる。これだけ濡れてしまえば、もう意味はないと思うけど。でも、一応持つ。
「あなたがどんなに自分を否定しても、あなたの事が好きな人がいる。あなたの事を待っている人がいる。今は、その人たちのために、生きてください。誰かと出会った瞬間から、あなたはあなただけの命じゃないのですから」
流れる涙を隠すために、顔を背ける陽菜の言葉は、聞こえ辛かったけど、それでもどうしてかよく通った。
今は、考えない。僕は、産まれて良かったのか。