第二話 広がる世界。二
私は。目を覚まして。そして、まず最初に窓を開け放つ。雨の日も、風の日も。雪の日も。暑くても、寒くても。
まず必ず窓を開ける。家に「今」を招き入れる。
時計が止まってしまわないように。
私たちの時は動き続ける。止めては、ならない。相馬君がそれでも足を止めた時、私が手を引けるように。今は自分の足で立っている彼が、どうしてもダメな時は、その時は、私の出番だ。
まだ夏の匂いが残る風が吹き込む。そういえば、相馬君は私から、爽やかな甘酸っぱい香りがするとよく言う。それを私は、金木犀の香りだと答えた。多分、合っている。と思う。自分の匂いは、自分ではわからない。
私の心は、穏やかだ。隣にいてくれる人のおかげで。
「乃安さん、来ましたか。おはようございます」
「おはようございます。陽菜先輩」
いつも通り、私の可愛い後輩がやってくる。朝食の下ごしらえは昨日のうちに終わらせてあるから、あとは彼女に任せるだけだ。
だから、私は彼の部屋に向かう。不安に襲われる彼の傍にいるために。
最近の彼は、どこか不安定だから。それは、努力故に起こる、壁が見えた時の不安定さ。乃安さんもぶつかった。そして、私が、今だぶつかった事の無い壁。だから、私には、寄り添う事しかできない。
部屋に入ると、あと五分で起きるくらいの時間だ。
少しだけ、苦しそうな寝顔。悪い夢を見ている時の顔だ。
「……相馬君」
きっと、乗り越えられる。そう、根拠も無く信じる。相馬君だから。でも、だからこそ、私は支えられるように傍にいたい。
唐突に目が開き、何回か瞬きをして、ゆっくりと体を起こす。だから私は、カーテンを開いて朝の光を彼に届ける。
「おはようございます。相馬君」
「……あぁ、おはよう」
ぼんやりとした様子でゆらゆらと、そして、私の手を握るとベッドの方に導く。
こうして求められることは、好きだ。彼に必要とされていることが、嬉しいんだ。
朝の空気を吸って、吐く。それだけの行為に、僕は何を見出すのだろう。いや、意味を求めてはいけないのか。
馬鹿みたいに陽菜の匂いを体に染みつけ、僕は走った。走って、そして、いつも通り帰る。暴力はいらないと思いながら、辞めてしまうのも気持ち悪いから、結局練習してしまう。
いや、いらないと言っているのは、僕だけ、銃を構えながら銃は世界にはもう必要ないと言っている矛盾さ、けれど馬鹿正直に捨てるのは、撃ってくださいと言っているようなもので……。
「やっぱ、無力だ」
未来に対してどう働きかけるか、その答えが見えないまま、僕はどこか鬱々とした気分になる。
なぁ、どうしたら良い。僕は。
地道に行けばいい。父さんはそう言う。すぐに答えを求めようとするのは、若者共通の悪い癖だと。
求めることを、陽菜は許してくれる。その優しさに甘えて、僕は今、自分を保っている。
家の前で息を整えて、それから風呂場に行けば、いつも通り必要な物は全部用意されている。そして、陽菜がいた。
「お帰りなさいませ、相馬君」
「ただいま」
陽菜を見て、安心している自分がいた。
諦めることと、目標を変えることは、違う。陽菜の中では。妥協することは許さない。ある高みから別の高みを目指すこと、それが陽菜の中では目標を変えるということだ。
彼女がいるから、僕は諦めない。僕にとっても陽菜にとっても、諦めることの方が難しいのだ。
「陽菜、ありがとう。大好きだ」
「はい。では、汗を流してください」
「……ごめん」
汗だくだという事を、忘れていた。
「いやっほーう」
クラスの男子が、不思議なことをしていた。
廊下を雑巾がけしているように見えるのだが、とても楽しそうなのだ。
「朝っぱらから何しているんだ、京介」
「あぁ、これか? これはだな、雑巾がけした勢いで廊下を滑り、その距離で競う、雑巾カーリングだ。やるか?」
「やらん」
くそ暑いのに体動かすとか、習慣でなければやりたくない。
「ほう、逃げるか? まぁ、確かに、日ごろ部活で鍛えていた俺たちに勝てる保証なんてないもんな、こいつは失敬」
「あ?」
思わず、思わずどすの効いた声を出してしまった。流石の京介も、どこか焦った表情をしている。いや、怒ってはいない。怒ってはいないけど、まぁ。
「良いよ、やるよ。雑巾出せ」
「あ、あぁ」
差し出された雑巾を受け取って。僕は位置に付く。
「行くぞ」
僕は思いっきり加速する。足をこれでもかと動かし、ばねを意識して、いざ、滑ろう、そう思った所で、目の前の人影に気づき、足を止めた。
「陽菜さん、危ないですよ」
「それは、こちらの台詞です。埃で汚れますし、ズボンに穴が開きます。相馬君は下着を晒して、今日一日を過ごすおつもりですか?」
何が何でも辞めさせる。その強い意志のを示すかのように、堂々とした体勢をとる。
しかし陽菜、この角度でその体勢は、色々マズい。端から見れば僕は踏まれているように見えるし、陽菜のスカートの中身が、僕の角度からは見えるのだ。
「そうか、水色か」
ピクリと、陽菜の頬が動く。
あ、これ、怒られるやつ。
マズいなぁと思いつつも、僕は落ち着いてその状況を分析して、そして、逃げ場はないと判断した。
「ごめん、陽菜。一応、謝っとく」
ペコリと頭を下げる。
「はい。相馬君。お疲れ様です」
なぜか、そう労って、陽菜は容赦なく僕の頭を踏みつけた。
どこかから、「羨ましい」という声が聞こえた。残念ながら、僕は踏まれることに喜びを覚える人間では無いのだが。何が残念なんだ?
陽菜的には、見られるのはOKだが、言われるのはNGらしい。
昼休みには、陽菜の怒りも収まっていた。あぁ、本当、失言って怖い。定期的に陽菜がこちらをじっと見て来る。その視線は中々に鋭いというか、探るようなというか、油断するなと本能に訴えかけてくるような、そんな視線だった。
乃安と君島さんも来て、いつも通り弁当を囲む。
向かい側に座る陽菜の目が、一瞬キラリと光る。おもむろに、自分の弁当から卵焼きを取り出す。
「はい、あーんです」
「……それ、やるの?」
「はい」
差し出される卵焼きは、ピタリと、僕の目の前に差し出されている。
「ダメでしょうか……?」
少しだけ、顔を伏せてアピールするという技まで覚えたのか、陽菜。
……くっ。
「わかった」
覚悟を決めた。日暮相馬は。
「よし」
口をあけて、受け入れた。いつも……通り?
「あれ、少し違う。漠然としたことしか言えないけど」
「あら、ふふっ」
乃安が横で小さく笑った。
陽菜も、どこか嬉しそうだった。
放課後、僕は、何となしに図書室まで来ていた。陽菜が職員室に呼ばれ、暇だったのだ。
「……莉々」
敢えて、そう呼んだ。
「何? あんたが名前で呼ぶなんて、珍しいね」
「暇つぶしの話し相手が欲しくてね」
「そう」
君島さんは、本を閉じると、僕の顔をじっと眺めて、そして一つ頷く。
「そう」
そして、それだけ呟いた。
「何に納得したの?」
「莉々は、今のあんたをそこまで悪くはないと思っているけど、ただ、殴りたくなるくらいヘタレかけていることを理解した」
「なんで僕は君たちに対してそこまで筒抜けなのですかね」
「さぁ?」
君島さんは両手をあげて首を横に振る。
「図書室では静かにというルールを派手にスルーして、女の子に内面を見透かされた気分は如何? 莉々が司書の先生の代理していなかったら今頃お説教ね。莉々は別に図書室でどんちゃん騒ぎしてもらっても、ゆっくりできる場所が減るだけでだし」
本を閉じて立ち上がると、莉々は僕の手を掴む。
「どうせ暇でしょ、付き合いなさい」
「……えっ? あぁ、まぁ、良いけど」
陽菜の用事がどれくらいで済むかわからないけど、まぁ、少しくらい良いか。今はそんな事を思っていた。