Borderland - Part 1
◆ ◆ ◆
ほぼ丸一日の出来事を思い返しながら、岩肌と茶色い地位類ばかりの殺風景な山道を下り続ける、ノーラ。
(…そもそも、栞ちゃんのヌイグルミが今も健在かどうかすら、冷静に考えてみれば…分からないんだよね…)
はぁ、とため息を着きながら自嘲の笑みを浮かべた…その時。
眼前の光景が急に開け、道が急勾配の下り坂から、広々とした平坦な大地へと変わる。大地の大半が人工的な黒色で染まっているが、それはアスファルトによるものだ――つまり、ここは舗装された道路、というワケである。
道路の幅は、非常に広い。大型トラックが優に10台は横に並ぶか、というほどの広さだ。道の中央には対向車線の境界を示す、白い直線が延々と続いている。
直線に沿って一方を向けば、数百メートル前方の方に、左右から迫る山肌の合間一杯を埋める金属製の巨大な壁が見える。間違いなく、都市国家アルカインテールの領域境界を示す隔壁――通称、『市壁』だ。
市壁は、地球上の都市国家において必須の施設である。その目的は、旧時代の中世のように盗賊や庸平といったならず者たちを阻む…というワケではない。壁が阻まんとしている対象は、野生動物である。
『混沌の曙』以降、地球上の生物は大小の差はあれども、須く魔力の影響を受けた。その結果、強力な魔法性質を持つに至った生物も少なくない。彼らの存在は、天災同様、単純に文化圏の脅威になりうる。そのため、物理的にも強靱で、尚且つ魔術的にも様々な細工を施した壁で彼らを阻むのだ。壁が帯びた魔化は上空まで効力が及ぶものも含まれているので、空飛ぶ危険生物対策にも一応の万全を期している。
市壁の反対側を見やると、遙か遠方にある緩やかなカーブまでは、どこまでも見通しよく道路が続いている様がよく見て取れる。この道路は恐らく、プロアニエス山脈中から採取された鉱物資源をアルカインテールへと運搬する大動脈の働きをしていたのだろう。
ノーラは市壁の方へと向き直ると、広い歩幅を意識して早足で歩き出す。ぱっと見、ロイたち3人の姿を見かけないので、ノーラがぼんやり一日の出来事を思い返しながら歩いている間に、サッサとアルカインテールの入都ゲートまでたどり着いたに違いない。今回の仕事を言い出し手として、あまり出遅れては、付き合ってくれる他の者たちに申し訳が立たない。そんな気持ちに駆られて、ノーラの足取りは早足から段々と小走りへと変わってゆく。
市壁に近づくにつれて、路上の有様が次第に酷い方向へと変わってゆく。経年劣化によるひび割れ以外は目立った破損のない路面に、乱暴に抉り取られたような凹みが幾つも現れる。無惨に破砕されたアスファルトの合間から剥き出しになった地面には、高熱に曝された過去を物語る黒々とした焦げや、溶融してガラス化した部分が見られる。
これらは十中八九、空爆の形跡であろう。
更に進むと、抉られたように奥に引っ込んだ山肌に、盛大に横転した巨大な輸送車両の姿が見えた。大型トラックの3倍はある体積を持つその車両は、元は鈍い銀色に染め上げられていた表面に大量の煤がこびり付いている。横倒しになった荷台からは、魔力励起光を薄く放つ魔法性質含有鉱物が土砂崩れのような有様でぶちまけられていた。
この車両を目にした時、ノーラの頭にふとした疑問が思い浮かぶ。
(この都市国家の戦争の原因って…鉱物資源を狙ったって説があるって、ヴァネッサ先輩は話してたけど…。
その割には…かなりの魔力の抽出が期待できそうな鉱物を、そのまま放置してるなんて…?)
疑問を頭に思い浮かべていると、何やら嫌な予感が鎌首をもたげてくるが…頭を横に振って、思考を頭から追い払う。まずは、ロイたちに追いつかねば。
進むにつれ、路面がもはや道路の様相を呈していないほど破壊が進んだ状態になったころ…右手前の方に、市壁を前にして横一列に並ぶ3人の姿がようやく見えてくる。
3人の手前には、市壁面に設けられた入都ゲートがある。平常時は野生動物を阻むべく厳重に封鎖されているはずのそれは、戦禍を受けて扉が内側に吹き飛び、ガランと無防備に口を開いている。
酷い状態なのは、入都ゲートだけでなく、市壁もそうだ。近づいてみると表面に煤やら、何かが激突して出来た傷やらが幾つも幾つも目に付く。アルカインテールの軍警察と、戦禍を引き起こした侵略者との間での交戦の名残であろうか。
「ごめんなさい…待たせてしまって…」
ようやく3人と合流したノーラは、真っ先に出遅れたことへの謝罪を述べる。
「ああ、気にすンなって」
ロイが振り向き、陽気にニカッと笑って手をヒラヒラ振りながらフォローを入れてくれる。
一方で、蒼治と紫はこちらに一瞥もくれることなく、入都ゲートの方向へひたすら視線を注いでいる。
そんな彼らの様子に、あまり待たせて怒らせてしまったのでは、とノーラは危惧したが…。しかしすぐに、2人が全く怒気を放っていないことを覚ると、ホッと安堵する一方で疑問が湧く。
「あの…どうしたんですか?」
ノーラは列の右端、紫の横手に回りながら問いかけると。
「…妙なんだ」
列の中央で蒼治が、眼鏡越しの瞳を更に細めて言うと。
「…妙ですよね」
それを受けて紫が頷きながら、同意を口にする。
「妙らしいぜ。なんだか分からないけどさ」
列の左端では、ロイが頭の後ろで手を組み、暢気な風体で語る。
「妙って…何がですか?」
当然、ノーラはそう聞き返す。すると蒼治は、スッと右腕を突きだして、開きっぱなしの入都ゲートの向こうを指差す。
「あれさ」
指の差す方には、ゲートの向こうに広がる瓦解した街の光景がある。そこには、壊れたブラウン管テレビに走るノイズのような、垂直方向に細かく振動する"空間の縦筋模様"が見て取れる。
"空間格子蠕動"と呼ばれる、空間汚染に典型的な事象だ。空間構成が絶えず不連続的に揺れ動くために、光景にノイズが走って見える。また、「パチッパチッ」という静電気が弾けるような音が聞こえてくるのは、この現象によって激しく変動するポテンシャルによって、大気の分子がイオン化して破裂する音だ。
「…次元干渉兵器が使用されたという話ですから…やはり、空間汚染はありますね…。
ただ、固体が普通の形状のまま残っているところを見ると…ここらへんお汚染はまだ軽度のようですけど…。
…十分予測できる状況ですし、妙なほどではないと思うんですけど…」
「確かに、空間格子蠕動が存在する"だけ"なら、妙じゃない。
妙なのは…空間汚染を引き起こしている、このあたりの術式構成だよ」
「…? どういうことですか…?」
問い返しながらも、ノーラは意識を集中して入都ゲートの向こう側を見つめ、その形而上層における術式構成を認識する。
こうしてノーラの視覚野が捉えたのは――座標の数学的構成が滅茶苦茶になった、空間定義だ。高密度にして乱雑、更には要素が高速でランダムに変化するその様相は、脳の認識処理に多大な負荷をかける。即座に眉間と頭皮全域に、締め付けるような圧迫感を伴う鈍痛が走る。
「う…ん…先輩も、紫ちゃんも…よくこんなもの、直視できますね…」
たまらず音を上げてノーラが語ると、蒼治が慌てて言葉を挟む。
「いやいや、細部の構造を見ちゃいけないよ。…って言うか、よく直視しながら、会話できる余裕があるね…。
認識格子をもっともっと広くして…全体を俯瞰するつもりで…」
「…ちょっと待ってください…今、やってみます…」
ノーラは形而上層の認識範囲を低くし、思い切り視野を広げてみる。
魔法現象を解析する際には普通、個々の術式の構成を読み解くために、真っ先に細部構造を認識を試みる。ゆえに、蒼治から指示されたやり方は、セオリーに真っ向から反するものだ。そもそも、視野を無駄に拡大すると、術式の集合の形状くらいしか読み解けず、その形状というのも普通は意味を持たないので無視されるものだが…。
しかし、蒼治の指示に従ってノーラの視覚野が捉えた空間汚染の大規模構造の形状は――。
「…あっ…」
ノーラは思わず声を上げる。――確かに、これは妙だ。
だがノーラは、認識した妙な点についての議論に入る前に、形而上層の認識を解除すると、はぁー、と小さくため息をつく。
そして、自然と浮かんだ苦笑いを張り付けた表情で、空を見上げる。
――否、青空の一画にぼんやりと存在する、小さくて無機質な外観の『天国』を見やる。
この『天国』と、ついさっき見た空間汚染の構造を照らし合わせると、ノーラの苦笑は更に大きくなる。
(…やっぱり…今日のお仕事も…面倒なことになりそう…)
胸中でにわかにパンパンに膨らんだ悪寒と不安を吐き出さんとするかのように、ノーラは今一度、はぁ~と深い深いため息を吐いたのだった。
◆ ◆ ◆
旧時代…地球が天国を得ておらず、唯物論が科学を席巻していた頃。
科学が定義するところの"空間"とは四次元リーマン空間として記述される、という性質を与えられたものの、物体を事象に対する容器である、という古典的な態度を崩すことはなく、その微細構造などが議論されることはなかった。
しかし現在…魔法科学の出現によって唯物論が否定され、魂魄の存在の確認をはじめとした形而上学的事象が次々に定義されるようになると、空間にも情報定義的側面、すなわち形而上学的な性質や構造が有することが解明され始めた(ここで、"始めた"と述べるに留まっているのは、空間の性質の全てが人類の手で解明されたワケではないからである)。同時に、空間の大前提とされていた"等方等質性"も瓦解。世界には様々な"歪んだ性質"を持つ空間が存在し得ることが判明した。
この空間の多様性を証明する、比較的身近な現象が"空間汚染"である。
この現象は同時に、空間が単なる事象に対する容器ではなく、空間もまた事象そのものであることを説明するものでもあった。
…という、魔法科学における小難しい状況はともかくとして。
ノーラ達、星撒部一行は鉱業都市国家アルカインテールの入都ゲート付近から、都市内部に広がる空間汚染を形而上相からよくよく観察すると…。巧妙に偽装された"不審な性質"が存在することを突き止めた。
"突き止めた"というものの、一行のうちロイだけは事情を理解しておらず、手持ち無沙汰な態度で後頭部で両腕を組んで、ぼんやりと縦縞状のノイズの走る空間を見やっている。彼は戦闘能力は高いものの、解析といった繊細な技術を苦手なようだ。
そんな彼を放置して、ノーラ、紫、蒼治の3人は確認した空間汚染について議論を交わす。
「これって…人為的なもの、ですよね…?」
始めに口を開いたのは、最後に空間を確認したノーラである。
これに対して蒼治は、コックリと深く縦に首を振って肯定する。
「だろうね。
こんなに見事な幾何学的な術式構造、単なる空間汚染には絶対に見られない特徴だ」
ノーラ達3人が形而上相を通して見て、汚染された空間の構造。細部に集中すれば、確かに、発狂した物理性質を表す術式が脳を犯す勢いでグチャグチャに泳ぎ回っているだけだが…。認識の格子を目一杯広げてみる――形而下相面積にして、草野球場ほどの面積を視野に入れる程度――と、そこに現れたのは美しい正多角形のパターンだ。そしてパターンの内部には、非常に整理された形の術式がデンと居座っている。
加えて、この巨大な術式が記述している物理現象とは…。
「空間の断絶はもちろんだけど、大規模で繊細な光学偽装が巧みに施されてるんだもんねー。
これで人為的じゃないとしたら、地球サマだか宇宙サマだか知らないけど、よほど立派な意志を持っていることになるわよねー」
そんな皮肉に満ちた揶揄を宿した言葉を発したのは、紫である。
「光学偽装しているってことは…この向こう側には、他人に見られたくない何かがある…って、いうことですよね?」
ノーラの問いに、再び蒼治が首を縦に振って答える。
「そういうことだろうね。
しかし…非常に妙な話だな」
蒼治は形而上相の視認行動を停止すると、戦火によって焦げた地面に視線を下ろして顎に手を添えて、小首を傾げる。
「確かに、この空間汚染の偽装は非常に巧みなものだけど…。
だからと言って、地球圏治安監視集団が解明できないものだとは思えない。現に、学生である僕らが解明出来たんだ。僕らよりも技術も経験も豊富な人材を抱えているはずの彼らが、これを見逃すなんて、考えられない」
「だとすると、地球圏治安監視集団自体が、この都市国家の現状を隠したがってるってんじゃないですかね?」
こちらも形而上相の視認を停止した紫が、腕を組んで蒼治に視線を向けて語る。
しかし、蒼治は納得せずに、顎に手を押いたまま再び小首を傾げる。
「もしもそうだとするなら…何故ルニティさん達は、僕らがアルカインテールの調査に行くことを快諾したんだろう?
僕らは一介の学生に過ぎないかも知れないけど…誇るワケじゃないが…地球圏最高の教育機関、ユーテリアで学んでいる身だ。下手な大学よりも高度な魔法科学の教育を受けていることぐらい、ユーテリアのOBやOGを多数抱えている地球圏治安監視集団が認識していないワケがない。
偽装を解析されるリスクは、十分に考えつくはずだ」
「でも、あの難民キャンプを運営している軍団と、この都市国家を管轄している軍団が別だとしたら、説明が付くんじゃないですかね?」
紫が更に食らいつき、言葉を続ける。
「地球圏治安監視集団の軍団って、独立性が強いじゃないですか。
この偽装も、この都市国家を管轄している軍団が独断で行ったものだとすれば、難民キャンプの『オレンジコート』に話が行っていない可能性はありますよね?」
「うーん…それは一理あるけどね…」
蒼治は首を傾げることをしなかったものの、手を当てた顎を更に引きながら唸る。
「もしも紫の考えが正解だとしたら…鉱業という特色しかないはずのこの都市国家に、地球圏の守護を大義名分にしている巨大組織が、一体どんな価値を見出したのか…。
全く新しいエネルギー資源鉱物が見つかったとしても、唯物論的理由から資源に困窮した旧時代じゃあるまいし、事実を隠匿してまで独占するような情報には成り得ないと思うんだよね…」
「あの…その、地球圏治安監視集団の見出した価値ですけど…」
ここでノーラが、怖ず怖ずと挙手しながら…いや、気弱な風体で立てた人差し指で天空を指し示しながら、言葉を挟む。
「もしかして…あの小さな『天国』に、何か秘密があるんじゃないでしょうか…?」
蒼治、紫は勿論、話題に入らず(というか、入れず)詰まらなそうにしていたロイも、ノーラの指の先へと視線を注ぐ。
そこには、天から地に向かって延びる、3つの長大な長方形が密に集まった幻影的存在――『天国』がある。その面積ときたら、住宅1棟よりも小さいかも知れない。
「ふむ…『天国』、か…」
キラリと輝く眼鏡をクイッと直しながら、紫の議論の時よりも力強く堅固な口調で蒼治が呟く。
ノーラが自論に裏付けの骨格を与えるべく、続けて言葉を口にする。
「あんなに小さな『天国』って…私、初めて見ましたし…偏見かも知れないですけど、とても異様だと思うんです…。
もしかして、あれは…『握天計画』によって人工的に生み出された『天国』だったり…しませんか…?」
『握天計画』。それは、『現女神』ではない人類が『天国』を手中に収まるための試行の実践の総称である。が、大抵の場合、『天国』の独占を目論む組織が行う、非人道的であったり無茶苦茶であったりするような、ろくでもない実験を指す。
『握天計画』には、成功例がない――とされる。もしもノーラが予想する通り、アルカインテールの上空に存在する『天国』が『握天計画』によって生み出されたものだとすれば…それは人類にとっての快挙と成り得るかも知れない。
「確かに、あんなに小さな『天国』は珍しいけどね…。
でも、怪しいかと言われれば、僕としては五分五分だね」
蒼治が視線を天からノーラに戻し、ちょっとズレた眼鏡をクイッと戻しながら語る。
「『天国』と言えば、僕らの母校や、昨日訪れたアオイデュアのように、都市国家規模の広大なものが真っ先に連想されるけどね。でも、規模の小さい『天国』が存在しないワケじゃない。
有名なところでは、サファリーヤ砂漠の『ミニマム・オアシス』だ。それまで知られていたどの『天国』よりも、格段に面積が小さかったそれは、発見された当初は一風変わった蜃気楼としか思われていなかった。だけど、時間帯や季節に関わらず位置も形状も変化しなかったことが疑問視されて、本腰を入れた調査がなされた結果、『天国』だと解明されたんだ。
僕も一度見たことあるんだけど、面積はこの『天国』より一回り大きいくらいだったね。
その例を鑑みると、この『天国』が特別だとは、現時点では判断できないね」
「そう…ですか…」
ノーラが口にする理解の返答はとてもぎこちなく、全く納得していないことが明らかな口調である。
そう、彼女は全然納得などしていない。蒼治よりも地球に関する見聞は狭いし、理論的な根拠を持っているワケでもないが…ただひたすら、背筋がザワザワと落ち着かないのだ。
(単ある予感と言われたら…それまでだけど…。
絶対に、何かある…確信できる…)
そんな風にノーラ達が3人が議論を交わしている最中のこと。蚊帳の外にいたロイが、ふわぁ~と大きな欠伸すると、涙で濡れた睫毛を擦りながら口を挟む。
「ここでウダウダ言い合ってても、仕方ねーじゃん。
さっさとこの…偽装だか何だか分かんねーけど…ニセ空間汚染をぶっ壊して中に入って見りゃ良いじゃねーか。その方が、何が起きてるのか、すぐに分かるだろ?」
余りにも思慮のない、あっけらかんとした意見に、ノーラ達は3人は顔を見合わせると…一斉に、苦笑を浮かべる。
ロイの意見は全く思慮に欠けるものだが、正論だ。"百聞は一見に如かず"の言葉通り、ここでいくら予測に基づいた議論を交わしたところで、事実を導き出せるワケがない。
…ということで、一行はロイの意見に従い、偽装された空間汚染――偽装空間障壁と言うべきかも知れない――の一部を破壊し、アルカインテール内部への進入を試みることにした。
偽装空間障壁の破壊の役目は、一行の中でもっとも魔術に長ける蒼治が担うこととなった。先頭に立った彼は、縦縞状のノイズが走る地点とは1、2歩程度の距離を取ると、純白のマントを翻して五指をピンと伸ばした手のひらを真っ直ぐにのばし、空間に施された術式の打ち消し作業に入る。
ブツブツと術言を唱えるに連れて、蒼治の手のひらが青白く輝く魔術励起光に覆われ、それに呼応するように、ノイズの入る空間の表面に(という言い方は少々おかしいかも知れないが…ともかく、平面状に)輪郭のぼやけた青白い円が描かれる。円の中をよくよく見やると、細かい術式がアリの大群のようにワサワサと動いている様が確認できる。蟲が嫌いな者がこれを見たら、顔を歪めずにはいられない光景だろう。
一方、蒼治の後ろでは、残る3人が臨戦態勢で横一列に並んでいる。ノーラは愛用の黄金色の大剣を油断なく構えているし、紫は彼女の能力である『魔装』を解放して、紅白を基調とした機械的ながら有機的な鎧を身にまとっている。ロイは黄金の瞳を刃のようにギラリと輝かせつつも、牙が覗く口を不適な笑みの形に成しながら、今にも殴りかかりそうな格好を取っている。
3人が臨戦態勢を取っているのは、蒼治の指示による。
「この偽装を施したのが地球圏治安監視集団だろうが他の組織だろうが、この向こう側に他人知られたくない"何か"があるのは間違いない。
万が一偽装が暴かれた時のために、目撃者消去用の防衛手段を配備していると考えて然るべきだろう。
それが急に襲いかかって来ても良いように、準備はしておくべきだ」
蒼治は偽装解除で手一杯なので、3人が彼の護衛を兼ねて、臨戦態勢を取っているというワケだ。
さて、蒼治が偽装解除作業に入って、数分が経過した頃。ジジジッ、とセーターを擦り合わせて静電気を起こしたような耳障りな音が発生する。と、同時に、蒼治がかざした手のひらの真正面に、輪郭が大きく歪んで波打つ"穴"が現れる。
「おっ! ついにこの都市の真の姿とご対面か!」
隠されたものを暴く時の子供のような興奮でも覚えているらしいロイが、楽しそうに自らの拳と手のひらをパンッと打ち合わせながら語る。
そこへ紫がチラリと切れそうなほど鋭い半眼を向け、抑えめな低い声で諫める。
「蒼治先輩の集中を乱すような無駄口は叩かないこと!
空間操作系の魔術は、術失態禍を起こしやすいんだから」
そんなやり取りをしている内にも、紫の心配をよそに、偽装空間に出来た穴はブヨブヨと輪郭を激しく波打たせながら、立ち歩いたばかりの赤子が歩く速度で面積を広げてゆく。
やがて…穴は直径5メートルほどまで拡大すると、それ以上の成長を停止する。同時に、蒼治がフゥ、と安堵のため息を吐いて作業の終了を告げながら、かざしていた右腕を下ろす。
「防衛設備のようなものは、設置されていないみたいだね。
極力、偽装の術式構造を変質させないように穴を開いたから、施術主にも検知されていないはずだ」
蒼治は眼鏡をクイッと直しつつ、安心感と自慢とを3人に語りながら、穴の向こうを光景を晒すべく横方向に大きく一歩退く。
こうして、一行の前に現れた、アルカインテールの真の姿とは…。
「なんだ、偽装してるっていうから、どんなモンかと思ってたけどよ。
あんまり変わんねーじゃんか」
都市の真なる姿を目にすることに意気込んでいたロイであったが、ガッチリと合わせていた腕をダラリと垂らして、ガックリと肩を下げる。
彼ほど極端な反応は見せないものの、ノーラも紫も目にした光景に拍子抜けとばかりに目をパチクリとさせている。
それもそのはず。偽装された空間の向こうにあるのは、相も変わらぬ"瓦解した街並み"でしかないからだ。相違点と言えば、縦縞状のノイズが消えたことと、建物の崩壊の度合いや瓦礫の位置が多少違うことである。偽装を解いた後の方が崩壊の状況が酷いことを鑑みると、偽装状態の空間が映し出していたのは同じ地点の過去の街並みのようだ。
多少の落胆を隠せない3人に対して、蒼治もまた苦笑いを浮かべて肩を竦めてみせながら、拍子抜けの光景を庇うように言葉を紡ぐ。
「まぁ、隠したいものが、都市の外縁区画にあるとは限らないからね。
この偽装はさしずめ、人払いのための結界というところだろう」
「つまり、この空間汚染ってのは、ただの虚仮威しってことか。手の込んだ無駄しやがって」
ロイはやるせなさげに後頭部で腕を組み、大股でスタスタと偽装空間に近寄ると、縦縞状のノイズが忙しなく走る空間を人差し指で突こうとする。
と、その瞬間、蒼治が眼鏡をきらめかせながらロイの方へ振り向くと、釘のように鋭い言葉で文字通り釘を刺す。
「触るのは止めた方がいいぞ。
人工のものとは言え、それは本物の空間歪曲だ。発狂したポテンシャルに牙を剥かれて、突っ込んだ指が分子分解するかも知れないぞ」
「うわっと!」
ロイは指を突っ込む寸前で慌てて飛び退き、事なきを得る。
そんなロイの無為な行動を皮肉げな笑みで見つめていた紫が、やれやれ、といった感じで首を左右に振りながら突っ込む。
「全くさぁ…その手の込んだ無駄に、無駄な好奇心を抱いた挙げ句に、無駄に怪我したら笑い者どころじゃないっての。
そんなことより、さっさと中に入って、都市の状況を確認して、クマのヌイグルミ探索の作業に入りましょ。
ただでさえ途方もない作業だってのに、下手に時間を浪費されたらやりきれないわよ」
そう言うが早いか、紫はサッサと大股で、蒼治の作り出した進入口の中へと入ってゆく。
「紫の言う通りだね。
僕は確かに、不可能な作業ではないと言ったけど、困難であることには間違いない。
素早く作業に取りかからないと、日が暮れるどころじゃ済まなくなる」
そう言い残して蒼治が後に続くと、そのすぐ後ろをノーラが小走りで続く。
進入口に入る直前、ノーラはチラリとロイに視線を向けると、申し訳なさそうに苦笑いを浮かべた。
「ごめんね、ロイ君…私も、先に行くね。
相川さんや蒼治先輩には、手伝ってもらってる身だから…足を引っ張らないようにしないと、いけないから…」
そしてノーラの姿も見えなくなり、ロイだけがポツンと残されると。
「なんだよっ、オレも行くってのっ! ちょっと息抜きにふざけて見ただけじゃんかよっ!」
牙の輝く大口を開きながら叫ぶと、焦げついた大地に砂煙を上げる勢いで足を回して、先の3人の後を追う。