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Tank! - Part 4

 ◆ ◆ ◆

 

 ――こうして、ノーラの本日最大の歯車の狂い、無茶な仕事を引き受けてしまった瞬間が訪れようとしている。

 

 空には立体的な奥行きを感じさせる有様で、大小様々な積雲が重なり、その境界は陽光を受けて金色に輝いている。その有様は、黒色の濃い大理石の表面のようだ。上空では強風が吹き荒れているらしく、芸術的な雲の模様はかなりの早さで流れてゆく。

 上空とは打って変わって、地上を吹く風はかなり穏やかだ。時折、髪を掻き乱すような強い風が吹くこともあるが、それは瞬きするような一瞬のことだ。風はユーテリアとは違い、かなりの湿り気を含んでおり、暖かい…いや、むしろ冬服には暑いくらいだ。

 一方、地上には規格の似通った2階建ての住宅が碁盤の目のように整然と建ち並んでいる。まるで、単一の住宅メーカーが土地を買い占めて、建て売り用住宅を並べたかのような有様だ。1つ1つの住宅は建築されてからさほど時間が経っていないようで、汚れが全く目立たないピカピカの屋根と壁をしている。

 綺麗なのは住宅だけではない。大地を縦横に整然と走るアスファルト製の道路もまた、美しい。経年劣化によるひび割れや崩壊は全く見あたらず、一色の墨で(むら)なく塗り潰したような清々しい黒が視界に映える。

 渚の天使が作り出した扉を抜けた先に広がっていた場所の光景とは、このような有様であった。

 さて、星撒部の部員たちはどうしているのか、と言えば。アスファルトの道路の上を、一直線に疾走している。先頭を走るのは蒼治と、最後に扉に入ったはずの渚である。部の代表格ということで、目的地に着いたらスムーズに対応できるように、その位置を占めているのだろう。その後ろをアリエッタとイェルグ、更にその後ろには1年生勢が並んでいる。最後尾を走るのは、ノーラとヴァネッサである。

 元々、ヴァネッサは早いうちに扉に入ったのだが、ノーラが最後尾にいると知るや、歩調を落として彼女の横に並んだのだ。一見して高飛車な口調と態度が目立つ彼女だが、実際には細やかな気配りが出来る良き先輩である。

 そんな優しきヴァネッサの好意に甘んじて、ノーラは走りながら尋ねてみる。

 「あの、先輩…今更こんな質問するのって、可笑しいと思うんですけど…良いですか?」

 「ええ、答えられることでしたら、何でも答えますわよ?」

 「その…ここって、一体、何処なんですか?」

 その質問に、ヴァネッサは虹色に輝くガラス細工のような瞳を点にする。

 「あれ…渚から、聞いてませんの?

 …まさか、今日の活動内容も分からないと言うことは、ありませんわよね?」

 

 

 今日の活動が、戦災孤児収容施設への慰問ということも、まさか知らなかったりしませんわよね…?」

 「あ、それは、知っています。戦災孤児の方々への、慰問ですよね? 昨日、部室に初めてお邪魔した時に、お聞きしました。

 でも…何処で慰問を行うのか、ということを聞くのを、失念していたものですから…。打ち上げの時も…皆さんとの賑やかに過ごすことに夢中になってしまって…」

 ノーラは自分の所為(せい)だ、というスタンスを取るものの、ヴァネッサは彼女を責めることはせず、代わりに列の先頭を走る渚にジト目を走らす。

 「まったく、あの()ってば、騒ぐだけ騒いで、肝心な部分はスッポリ抜けてるんですから…」

 それからゆっくりと瞬きを一つすると、目を開いた時にはとても和やかな笑みを浮かべてノーラを見やる。

 「分かりましたわ、わたくしから教えます。

 ここは、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)が管理する第37番キャンプ地ですわ。地球上の位置で言えば、わたくしたちのユーテリアから南に下って、アウストラ大陸の東側の草原地帯にありますわ」

 アウストラ大陸とは、旧時代の地球においてはオーストラリア大陸と呼ばれていた場所である。[[混沌の曙>カオティック・ドーン]]の影響によって、形状も気候帯も変わり果ててしまっているため、名称が変更された。ちなみに、地球上の他の大陸もことごとく、旧時代とは名称が異なる。

 「なるほど…南半球に位置しているワケですか…。だからこんなに暖かいワケですね…」

 「今は夏の終わり頃にあたりますからね。わたくしたちの冬服だと、少々暑いくらいですわね。

 …それで、このキャンプ地は今、北半球の一大鉱業都市国家、アルカインテールの住民の方々が避難してきておりますの。なんでも、都市を舞台にして、複数勢力が大規模な戦闘を始めたということですわ。

 戦闘の原因には、様々な説がありますわ。最もシンプルな説は、アルカインテールが持つ魔法性質鉱物資源の独占を狙った、というものですわ。他には、アルカインテールが受け入れ続けてきた難民と元からの住民の間で社会的待遇差が生じ、それが火種になった、という説もそれなりに説得力がありますわ。

 …でも、本当のところは、わたくし達にもよく分かりませんの」

 「そうなんですか…。

 それじゃあ、今から会いに行く子供たちは、随分と悲惨な目に遭ったんでしょうね…。心の傷とか…私に癒せるんでしょうか…」

 緊張した面持ちで、自信なさげに節目がちになって語るノーラに対して、ヴァネッサは安堵を寄越すようにニッコリと微笑む。

 「幸い、住民の大半は戦況が激化するより早く、予防的な段階で避難を行ったようですわ。アルカインテールは地球圏治安監視集団(エグリゴリ)庇護下の都市国家ですし、そのあたりの動きは素早かったようですわ。

 ですから、子供たちの大半は、集団でのお引っ越しくらいにしか思っていないかも知れませんわね」

 それを聞いて、ほっと安堵の吐息を吐くノーラであった。が、ヴァネッサは意地悪げな輝きを美しい碧の瞳に灯し、顔だけは真剣な表情を張り付けて釘を刺す。

 「とは言え、環境の変化などで、子供たちはストレスを抱えているはずですわ。

 安心しきって手を抜いて、要らぬ琴線に触れたりしないように、注意してくださいまし」

 「あ…そう、ですよね。

 いろいろと、敏感な年頃でしょうしね…」

 ノーラとヴァネッサがそんな会話を続けているうちに、周囲の風景が少し変わってくる。似たような規格の住宅が視界のいずこかに存在するのは相変わらずだが、住宅とは明らかに違う、無骨に角張った形状の大きなコンクリート製の建物が目立ち始めてきた。こういった施設の中には、立派な塀と正門を持つものもあり、門のすぐ隣には『水道管理局』や『発電管理局』、『総合病院』といった施設名が彫り込まれたプレートがある。ここらの地域はどうやら、キャンプを運営する地球圏治安監視集団(エグリゴリ)が管理する中枢地区らしい。

 この一画に、戦災孤児の収容施設もあるようだ。

 「そう言えば、今回のこの仕事なのですけど」

 ヴァネッサが人差し指を立てながら、豆知識だと言わんばかりの様子で語る。

 「依頼主は、このキャンプを統括している地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の"オレンジコート"軍団の将軍なのですのよ」

 「そうなんですか…?」

 聞き返しながら、ノーラはふと、昨日のことを思い出す。"獄炎の女神"の非道な軍勢を退けた後、渚の元を地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の士官が尋ねてきたことを。星撒部はその活動の性質柄か、よくよく地球圏治安監視集団(エグリゴリ)と縁があるようだ。

 ちなみに、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)は内包している軍団ごとに決まった"色"を設定しており、その色の制服を着込んでいることから"何某コート"と言う名で呼ばれている。昨日に姿を見せたエルロン・アルバーグマン大佐は"ビリジアンコート"の所属である。また、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の軍団は個々が多機能を有する諸兵科連合軍団であり、ある程度の個性は有するものの、手広くバランスの取れた編成をしている。

 このキャンプを統括している"オレンジコート"にせよ、その例外ではない。キャンプを切り盛りするような人道支援の部隊もあれば、地球圏の脅威を排除するための陸海空そして宇宙用の交戦部隊も擁している。

 …さて、話をノーラ達の会話に戻す。

 「ええ、そうなんですのよ。

 "オレンジコート"とは以前、別件で関わったがありましてね。その際に、将軍にいたく気に入られてしまったんですの。

 その繋がりから、今回の依頼が舞い込んできた、というワケですわ」

 「地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に気に入られるなんて…やっぱり、星撒部は凄いところなんですね…」

 素直に感心するノーラであったが、ヴァネッサはそんな態度に対してバツの悪い苦々しい笑みを浮かべる。

 「と言っても…あの時の依頼は、渚とロイがひたすら暴れ回っていただけ、という印象しか残っていないのですけれどもね…。

 あれで、どうして"オレンジコート"の将軍のお気に召したのか、さっぱり分かりませんわ」

 「渚先輩も、ロイ君も…とても逞しくて、強いじゃないですか。それだけでも私は、安心感を抱きますよ。

 将軍さんも、そんなお2人が気に入ったのかも知れません…」

 「そうでしょうかね…?

 わたくしがあの時の傍観者の立場なら…頼もしいと感じるより、本当に大丈夫なのかとハラハラしっ放しでしょうけれどもね…」

 そんな風にヴァネッサが苦笑いを浮かべながら語っていると…。

 「これ、ヴァネッサ! 全部聞こえておるぞっ!

 ノーラに変なことを吹き込むでないわっ!」

 列の先頭から振り向いた渚が、噛みつくような勢いで叫んでくる。どうやら彼女は地獄耳のようだ。

 対してヴァネッサは舌を出すこともせず、ツンとした態度で堂々と言い返す。

 「変なことも何も、わたくしは事実を述べているまでですわよ!」

 ここで2人の間に激しい視線の火花が散るが、蒼治が溜息を吐きながら即座に隣を走る渚の頭を掴んで前を振り向かせる。

 「お前の所為で時間がないんだからな。自覚して、余計なことにうつつを抜かすなよ」

 「むうぅ、おぬしに言われずとも承知しておるわいっ!」

 その後、一行は2、3度角を曲がりつつ走り続けると、やがて前方に開放感溢れる金属製の柵で周囲を囲んだ、大きな施設が見えてくる。柵の向こうには、外周に沿っていくつかの遊具が設置された公園のような広場が広がっており、その奥に4階建てのコンクリート製の建造物がある。建造物自体は他の地球圏治安監視集団(エグリゴリ)管理下の施設と似たような外観をしているが、窓が色紙やジェルジェムで可愛らしく飾られているのがよく目につく。幼稚園や保育園のような印象だ。

 「よしっ、ここじゃっ!

 皆の衆、ラストスパートじゃっ!」

 渚は前を指差しながら、走る足の回転を更に速める。他の部員たちも彼女に倣い、速度を速める。ここまで結構な距離を走りっぱなしだったというのに、息を上げている者が1人も居ないのは、流石はユーテリア所属の英雄の卵というべきだろう。

 一行は公園のような広場を一直線に駆け抜けると、透明な魔硬化ガラス製の両開き扉の入り口へと至る。

 「とおおおりゃあああっ!」

 叫びながら真っ先にスライディングの格好で滑り込むのは、やはり、副部長たる渚である。入り口は自動扉だったので、渚はガラスに激突することなく、内部へと進入することができた。

 入り口の向こう側には、公民館のロビーのようなエントランスが広がっており、右手には受付係の有翼人種の男性が収まっている窓口がある。男性は渚の叫びにビクリと体を震わせ、何事かと体を乗り出して渚を眺める。

 スライディングの勢いが止まった渚は、そんな受付係の様子など気にせず、制服のポケットからナビットを取り出して時刻を確認する。表示されている時刻は、13時59分38秒。

 「いよっしゃあああっ! ギリギリ間に合ったのじゃっ!」

 両腕を上げて勝ちどきを上げる。力の入りまくった叫びは、エントランスのみならず、そこから3方に延びる廊下の先まで響き渡ったことだろう。

 続いて、部員たちが続々とエントランスに流れ込む。その中で蒼治とヴァネッサが渚の行いを恥じて顔を赤らめており、イェルグ、大和、紫の3人が呆れたような苦笑いを浮かべていた。

 「…あのう…」

 渚が腕を降ろしてスクッと立ち上がったのを確認した受付係が、おずおずと声をかけてくる。

 「あんたら、一体ここに何の用なんだ…?」

 「ここは、"オレンジコート"管理下の第3戦災孤児院で、間違いないな?」

 受付係は、唖然とした態度のままコクリと頷く。それを確認した渚は両腰に腕をおき、小振りながら形の良い胸を突き出して、何故か偉そうな雰囲気を漂わせながら語る。

 「責任者のルニティ殿にお目通り願いたい。

 ユーテリアの星撒部が来た、とお伝えれば分かるはずじゃ」

 「ああ…あんたらか、今日の慰問の相手って…」

 そう確認する受付係は、唖然とした態度は消したものの、今度は"本当にこいつらで大丈夫なのか?"という言葉が聞こえてきそうな怪訝な態度を取る。

 とは言え、彼は職務を放棄することなく、内線連絡用の通信端末をいじりながらロビーに設置されてある長椅子を指差す。

 「今呼ぶからさ、座って待っててくれ」

 

 受付係の言葉に甘んじて、部員一行が長椅子に座り、一息吐いたり雑談に花を咲かせること、数分後。

 「ようこそ、お出で下さいました。

 この施設の責任者の、ルニティ・エンケラドゥスです」

 玄関から見てロビーからまっすぐ延びた廊下の向こうから、自己紹介をしながら一人の女性が現れる。

 彼女は、"責任者"という肩書きとはあまりにミスマッチな若々しく可憐な姿をしている。歳の頃は、多く見積もっても20代中半にしか見えない。ショートカットにしたライトブラウンの髪は非常に艶やかで、施設内の電灯の光を受けて天使の輪が出来ている。髪の色より少し明るい、大きくて丸々としたブラウンの瞳には、朗らかで和やかな輝きが灯っている。細身ながら母性を感じさせる凹凸のはっきりした体型の上にまとっているのは、ゆったりした割烹着型のエプロンである。その胸元には地球圏治安監視集団(エグリゴリ)隊員のトレードマークである、鳩の羽の生えた輪っかを身に着けた地球の形のバッジをつけている。輪の色がほんのりオレンジ色に染まっているのは、彼女が"オレンジコート"軍団の所属であることを物語っている。

 "オレンジコート"繋がりなのか、はたまた偶然かは判断しかねるが、ルニティの身に着けているエプロンは白地にヒマワリやマリーゴールド、タンポポといったオレンジ系の花の模様が散りばめられている。

 そんな彼女の姿は、施設の運営を預かるデスクワークの"責任者"というよりも、現場で子供たちと触れ合う保育士と言った風体だ。

 こういったルニティの外観に、大和や蒼治、紫といった比較的"常識"の枠にはまっている部員は目を丸くする。そんな様子を見て取ったルニティは、エプロンの上で咲き誇る花々に劣らぬ清々しい笑顔をニッコリと浮かべる。

 「私みたいな小娘が責任者なのは、意外だかしら。

 私自身も、責任者に任命されて驚いてる…というか、戸惑ってるのよ。采配を振るうよりも、現場で働く方が好きだからね。

 でも私、一応佐官だから…それが理由で、選ばれちゃったみたい」

 舌をチロリと出しながら語るルニティの姿は、佐官という厳粛な響きの階級に見合わぬ、茶目っ気たっぷりの可愛らしいものだ。

 「それと…これは別に、責任者であるなしに関わらないんだけど…私、皆の先輩に当たるのよ。

 私も、ユーテリアで学んでいたの」

 「おおっ、先輩殿というわけですかのう!」

 「ええ。

 だから、少将から皆さんが来ると聞いた時は、凄く親近感が沸いちゃって。どんな子達が来るんだろうって、楽しみで仕方がなかったの。

 こんなに元気な後輩たちが来てくれるなんて、嬉しいわ」

 「わしらは希望を振り撒く立場ですからのう! わしら自身が明るく元気でなければ、人々に光を与えることなんて出来ませんわい!」

 「うふふふ、その元気、是非ここの子供たちに分け与えてあげてね」

 そしてルニティは「会場はこっちよ」と語りながら、おっとりした動作で踵を返すと、元来た方へと歩を進める。星撒部の部員たちは一斉に座した椅子から立ち上がると、渚を先頭にしてルニティの後を追う。

 施設内の廊下は外観と同じく無機質なコンクリートで囲まれていてるが、味気なさはちっとも感じない。というのは、壁中に色とりどりのクレヨンや色鉛筆、はたまた水彩絵の具で描かれた絵の画用紙が張り出されているからだ。構図などはともかく、勢いだけはひしひしと伝わる絵柄から、これらを描いたのは子供だということが直ぐに見て取れる。

 そんな賑やかな廊下を見ていると、まるでここが小学校の低学年教室のある区画が想起される。廊下に並んでいる両開き引き戸を持つ数々の部屋もまた、教室のように見えてならない。

 この廊下をまっすぐ歩きつつ、渚はルニティに幾つか尋ねる。

 「子供達の様子は、どんな感じですかのう? やはり、落ち込んでいる子の方が多いですかな?」

 「いえ、この施設の子はかなり元気な子が多いですよ。

 戦争勃発の直後に避難してきた子が多いから、酷い光景を目にしたり体験したりっていうのは少ないのよ」

 「むうぅ? それでは、"戦災孤児"とは言えないのではないですかのう? 単なる疎開のように聞こえるのじゃが?」

 「ええ、元々はそうだったんですけど…。

 ここに居る子たちの家族はみんな、アルカインテールに残っていたんです。混乱は早期に収束するとでも、楽観視していたのかも知れません。

 でも…彼らがこのキャンプに避難してくる前に、あの都市国家で次元干渉兵器が行使されてしまって…。今、アルカインテールは甚大な空間汚染が広がる、非居住地帯(アネクメネ)と化してしまいました」

 「つまり…ここに居る子達は、自分たちが孤児になってしもうたことを、理解していないということじゃな…」

 「現地の調査はあまり進んでいないので、断定はできませんが…その可能性は、非常に高いと思います」

 「むうぅ…不憫じゃのう…」

 眉を曇らせ、尖らせた桜色の唇に指を当てながら、渚がかなり気を落として語る。いつもは弾ける火の玉のように元気すぎる彼女であるが、悲哀のような湿った感情も持ち合わせているようだ。

 そうして湿った渚の肩を、後ろからポンと叩いて掴む者がいる。澄んだ蒼穹の瞳を巡らすと、そこには太陽のようにニカッと笑うロイの顔がある。

 「だからこそ、オレ達が希望を振り撒きに来たんだぜ、副部長。

 ガキどもを、思いっきり笑いの輝きに染め上げてやろうぜ!」

 すると渚は、一瞬ふっと哀愁と羨望の混じった薄い笑みを浮かべると、すぐにロイの輝きをもらい受けて自らもニカッと大輪の笑みの花を咲かせる。

 「おぬしに言われずとも、勿論じゃわい!」

 そんな2人のやりとりを見ていたルニティは、優しげにニコニコと見守りながら、誰にともなしに呟いた。

 「なるほど、少将があなた達を推薦するワケね」

 彼女の言葉は響きや態度からしても間違いなく褒め言葉であったはずだが…それを聞きつけた渚がジト目でルニティを見やる。

 「あの腹黒ヒキガエル少将殿めが、わしらの事をなんと評しておぬしに推挙したのやら」

 するとルニティは、たはは、と苦笑して答える。

 「確かにあの人はカエルっぽいですけど、ヒキガエルなんかじゃないですよ。

 それに、腹黒なんかじゃないですよ。あの人は物言いは意地悪く聞こえますけど、純粋に優しい人ですから」

 「どーだかのう。真に腹黒い者ほど、最後の最後まで仮面を取らぬものじゃしのう」

 ジト目を崩さず、あくまで言い分を貫き通す渚に、ルニティは苦笑を浮かべ続ける。

 そんな2人の背後を歩くノーラは、会話に出てきた"少将"なる人物の姿を、ヒキガエルそのものの顔をしたデップリした中年男性として思い浮かべ、クスリと小さく笑ったのだった。

 

 数分歩き続けた後、一行は廊下の突き当たりにたどり着く。突き当たりといっても、正面にあるのは壁ではなく、大きな両開きの扉だ。

 「この向こうで、みんな待ってるわ。事前に必要なものがあったら、ここで準備してね」

 「ここではちと狭いゆえ、入室してから広げた方が良いじゃろう。

 のう、蒼治」

 「見栄えは良くないけど、仕方ないかな」

 「ということじゃ、ルニティ殿。

 こちらはいつでもOKじゃ」

 ウインクして合図すると、ルニティはニコニコ笑いながら頷く。

 「それじゃあ、元気良くお願いね」

 そう言い残した、直後。ルニティは勢い良くに両腕を広げて、一気に扉を両開きに全開する。バタンッ! と心地よい音が施設内に響き渡る。

 「みんなーっ、お兄さんお姉さんたちが来てくれたよー!

 拍手で迎えてねーっ!」

 ヒーローショーの司会のお姉さんよろしく威勢の良い声を張り上げる、ルニティ。それを口火に、星撒部の部員一同は2列になって入室しながら、左右に広がって行く。

 入室の先頭を切るのは、副部長の渚は勿論のこと、彼女と並ぶのは…ロイである。立場から言えば会計の蒼治が並ぶのが順当と言えるが…彼は入室に際して、コソコソと壁際に移動し、他の部員達が先を行くに任せていた。

 そんな様子を見ていたノーラは小首を傾げつつ、蒼治を横切って入室しようとすると…スッと蒼治が前に入り込んでくる。このため、ノーラと紫が最後尾をつとめることになった。

 (蒼治先輩…? なんか…変な動きをしてる…)

 ノーラが疑問を抱く一方で…真っ先に入室を終えた渚とロイが、大きく腕を振りながら、太陽を2つ並べたようにニカニカッと輝く笑顔を浮かべて、声を上げる。

 「お初にお目にかかるのう、皆の衆! お楽しみのプロフェッショナル、星撒部のおねーさんおにーさんとは、わしらのことじゃ!」

 「今日は目一杯遊びまくろうぜっ! 男の子も女の子も、みんなまとめてかかってこいやあっ!」

 すると、渚たちの声に応えるように、「わぁっ!」という歓声がドッと上がり、空気が破裂せんばかりの無闇やたらな拍手がバチバチバチバチッ! と響き渡る。

 扉の向こうに広がっていたのは、ホールという言葉が正にピッタリな広い空間だ。そこに折り畳み式の長机を2つずつ合わせて作ったテーブルがあり、その各々に6~8人ずつの子供達が座っている。テーブルの中央にはペットボトルのジュースが2、3本と紙コップが置かれている。

 ホールに満ちている子供達は、本当に様々な人種から構成されている。旧時代の地球人型の人種は勿論、獣人属、岩石質や木質の皮膚を持つ者、旧時代に"悪魔"という不名誉な通称で呼ばれていた存在に近い姿の者など…バリエーションは非常に多彩だ。ユーテリアの大講義室を埋め尽くす顔ぶれが思い出されるほどである。

 子供達の年齢層は、幼稚園児から小学生くらいの幅だ。彼らの顔は、初めて目にする星撒部の面々に対して純真な好奇心と興奮にキラキラ輝いている。なるほど、戦災孤児にしては心傷的な陰は見えず、活気に満ち過ぎている。自らが既に悲運の渦に巻き込まれているなど、露ほども自覚していないがゆえの陽気さだ。その無邪気な明るさが、(かえ)って哀愁を誘う。

 ホールの中には、子供以外にも、ルニティと似たようなエプロンを身に着けた成人女性の姿もある。彼女らも胸元に地球圏治安監視集団(エグリゴリ)のバッヂを身に着けているので、施設の職員だということが一目瞭然だ。責任者のルニティからか、または件の少将からよく言いつけられているためか、彼らは星撒部への不安は一切抱いていない。むしろ、子供達と一緒になって、一体何を見せてくれるのかと期待に瞳を輝かせている。

 さて、扉を背にして部員たちが1列にずらりと並ぶと。鳴り止まぬ拍手を身に受けながら渚が一歩前に進み出ると、列の端の方で心なしか身を縮こめている蒼治に目配せする。すると蒼治は、身を包む純白のマントの下をモゾモゾと動かすと、その中から折り紙が一杯に詰まったビニール袋を2個、3個と取り出す。マントの下の容積とはとても釣り合わない体積を引っ張り出しているところを見ると、マントには体積圧縮か収納系の魔化(エンチャント)が施されているようだ。

 総じて5つの袋を取り出した蒼治は、閉じた口を1つずつ解いてゆくと…袋の口が大きく開いたと同時に、その中からツルを初めとした動物の形の折り紙がワッと飛び出し、宙を飛び回ったり床を走り回ったりする。その有様ときたら、春風に舞い飛ぶ大量のサクラの花弁のようだ。

 「わぁ、キレイーっ!」

 「スゲーッ、生き物みたいに動いてるーっ!」

 「一枚の紙なんだよね? どうやって、作るんだろ?」

 「私知ってる、折り紙って言うんだよ! ノリとかハサミとか使わないで、紙を折るだけで何でも作っちゃうんだよ!」

 「うわぁー、私にも出来るかなー!」

 口々に歓声を上げる子供達。彼らのみならず、ルニティを含めた職員たちもまた、色とりどり多種多様の紙細工が滑らかに活き活きと動く様子に、瞳を輝かせて感嘆の吐息を口にするのを禁じ得ない。

 「皆の衆、面白いじゃろう!?

 これが、わしら星撒部の特製折り紙じゃ!

 今日はこの折り紙を、このおねーさんおにーさん達が皆の衆に伝授するぞいっ!」

 その言葉を口にした後、渚は部員一同に目配せして、イベントの開催を私事したのだった。

 部員達は皆、蒼治が例のごとくマントの下から取り出した魔化(エンチャント)済の折り紙を3セットずつ受け取ると、出来るだけバラけて子供達の座るテーブルを訪れて、折り紙の折り方を教え始める。

 とは言え、部員に対してテーブルの数は倍以上あるため、部員たちは移動を繰り返さねばならないという、慌ただしい動きが要求される。しかし、子供達も指をくわえて珍客が自分のテーブルに来るのを待っているほど無気力ではない。部員が位置取ったテーブルに四方八方から群がると、立ったままテーブルの端で折ったり、しゃがみ込んで床で折ったりする。テーブルに残っているのは乗り遅れた子供たちばかりで、そういう子たちには職員が暇つぶしの相手をしている。

 子供たちに大人気なのは、部室でも誰もが見惚れるような折り方を披露したアリエッタと、意外なことに大和である。前者は当然として、後者には一体どんな魅力があるというのか?

 まず第一に、大和もアリエッタ並に達者な器用さで、美しい折り紙を折ることが出来ること、だ。"機会工学の求道者"を自称している彼は、自らの『定義拡張(エキスパンション)』の能力のみに頼らず、手作業で繊細な装置を組み上げることも多い。その為に、彼の器用さは日々鍛え抜かれているのだ。その能力は折り紙に遺憾なく発揮されている。

 そしてもう一点…彼の軽快なトークもまた、子供たちを惹き付けて止まない。普段は女の子の気を惹くことにばかりに回る――しかも悲しいことに、空回りばかりだ――舌だが、この場では非常に有効な方向に働く。

 「おっ、キミ、上手ッスねーっ! そうそう、そうやって折り合わせるンスよーっ!」

 「ここは確かに難しいところッスけど、ホラ、よく見ていて! この部分を、こんな風に折るンスよー!

 そうっ、出来るじゃないッスか! 偉いッスよーっ!」

 「じゃあ、みんなで一緒に、最後はここを折ってぇー…!

 ホォラ、完成ッスよっ! みんな、拍手拍手ぅっ!」

 幼心をうまく持ち上げる軽妙なトークに、子供たちはすっかり気を良くして、目を輝かせワイワイ騒ぎながら、夢中になって折り紙を折るのである。

 こういう場面だけを見ていれば、大和は面倒見の良い、子供好きな好青年にしか見えない。これで普段の態度がもっと真面目ならば、変なアピールなどせずとも女の子たちの方から声がかかるだろうが…。なんとも残念な男である。

 時が経つにつれて、折り紙ではとても満足できず、体を動かしたくてたまらなくなる子供たち――特に男の子はそうだ――が現れる。そんな子達に対応するのは、渚、ロイ、ナミトの3人だ。普段から活発な彼らは、子供たちの活発さに負けない体力で、ごっこ遊びや体を使ったゲームをしている。

 中でもロイの対応は感心の極みである。肉体派の部員の中で唯一の男子である彼は、子供たちから乱暴な扱いを受けやすい。ごっこ遊びで悪人に扮すれば、本気の拳や蹴りを浴びる羽目になる。しかし、いくら叩かれようが蹴られようが一切苦しげな顔を見せず、あくまでおどけた態度で子供たちに接し続ける。

 「ぐわーっ、やられたーっ!

 流石は強いな、エナジーレンジャーにコスモマン!

 だが、このドラゴン大帝さまはそんな程度では倒れんぞぉっ!

 がおーっ!」

 そんな風に叫びながら、子供を持ち上げて優しく振り回してみたり、肩車をしてみたりと、動き続けるロイ。子供たちは大興奮でキャッキャと騒ぎながら、「ボクも、ボクも!」とひっきりなしにせがむ。それに逐一応えて、手抜かりなしに世話をする彼の姿からは、理想的な父親の姿が連想される。

 「すごいなぁ…ロイ君。

 すごく自然に…あんなに楽しそうに…子供たちと触れ合えるなんて…」

 (はた)で見ていたノーラが心底感服して呟くと、たまたま側を通った紫がいつもの陰を含んだ笑みをニヤリと浮かべて語る。

 「精神年齢が幼いだけなのよ」

 さて…そんな呟きを口にしたノーラは、一体何をしているかと言えば…折り紙班の一員として、周りを囲む子供たちに一生懸命に折り方を教え続けている。

 故郷に居た頃から英才教育ばかりで、幼児時代においても同年代の子供と遊んだ経験に乏しいノーラは、どう子供たちと接して良いのか、戸惑うばかりである。だが、星撒部に入部した今、部活動から逃避することは出来ない――そんないつもの生真面目な義務感に突き動かされ、出来ることを精一杯やろうと集中する。例え、アリエッタや大和、ロイのように愛想良く振る舞えなくても、だ。

 思い悩みを抱くノーラの胸中とは裏腹に、子供たちの間での彼女に対する人気は上々だ。昨日、部室で部員たちに褒められた折り紙の腕は子供たちの目を確実に惹き付けている。加えて、騒ぎ立てるのがあまり好きでない子供たちが、静かな物言いと雰囲気のノーラを良しとして集まってくる傾向もある。

 だがノーラ個人は、多くの子供たちが集まっているというのに、一見して分かるような盛り上がりがないことにかなりの焦りを募らせていた。

 (私…浮いてるんじゃないかな…)

 そう思い、チラチラとホール内に視線を巡らせ、他の場の雰囲気と自分とを比べていると…。

 (…あれ…?)

 自分よりもよほど浮いて見える場を発見し、思わずポカンとしてしまう。

 可笑(おか)しな程にちぐはぐな場を作り出している部員は、2人――蒼治と、紫である。

 まずは、蒼治について。普段は部のブレーキ役として冷静に物事に対応している彼であるが…その面影は今、どこにもない。水にふやけたような歪んだ笑顔を張り付け、錆びたブリキの人形のようにぎこちない動きで子供たちに対応している。

 場を和ませるトークも出来ず、かと言ってノーラのように子供たちにも伝わるような真剣さを(かも)し出せるわけでもない。そんな面白味のない場の中では、子供たちの態度もギスギスしてゆく。蒼治の指導そっちのけでふざけあっていた子供たちがケンカを始めてしまい、それをオロオロして対応しあぐねているところへ、見るに見かねた施設の職員が手を差し伸べる場面が度々見受けられる。

 どうやら、蒼治は子供の相手がひどく苦手のようだ。

 そしてもう1人のヘンテコな雰囲気を作る部員、紫もまた、子供の相手を苦手としている。

 蒼治とは雰囲気は違うものの、紫は始終嫌味の陰を帯びた暗ーい笑みを浮かべながら、投げやりな感じで折り紙を教えている。

 「ねぇ、お姉ちゃん…顔、なんか怖いよぉ…?」

 「うるさいわね。生まれつきこういう顔なんだから、仕方ないでしょ」

 「さっきのところ…よく分からなかったんだけど…」

 「だーかーらーさー、ここを、ホラ、こうだってば。この本にも書いてるじゃん?」

 「おねーちゃんさぁ、教えるの、すごく下手」

 「はいはい、私だって先生に向いてるなんて思ってませんよー」

 あんまりな対応に、彼女の側についている職員が頬をヒクつかせながら、こめかみに青筋を浮かべつつ苦笑しているほどだ。

 活動の性質上、子供たちと触れ合う機会の多いはずの星撒部だが、全ての部員が子供の相手が得意というワケではないらしい。

 そんな彼らの姿に――悪気は全くないものの――安堵と自信を得たノーラは、1つ深呼吸。そしてニッコリと静かに、穏やかに笑みを浮かべて、再び子供たちと向き合う。

 「それじゃあ…今度は、こっちの動物を作ってみようか…?

 今のより、ちょっと難しそうだけど…落ち着いてやれば、きっと、出来るよ」

 そんなノーラの言葉に、子供たちは真剣な表情で鼻息荒くコクコクと頷くと、新しい魔化(エンチャント)済み折り紙を取り出すのであった。

 

 こうして、ノーラが新しい折り方を教えようとした、その矢先…。

 彼女は、テーブルに座る子の中に、他の子供たちと明らかに雰囲気の違う女の子を見つける。

 ノーラから見て最も遠い位置に座っている彼女は、折りかけの折り紙を放置したまま、拳の形に握った手を膝に置いて、じっと机の上に視線を投げている。一見、折り紙が気に食わなくて睨んでいるのかと思ったが…そうではないようだ。渚にも劣らぬ蒼穹の瞳は今にも雨が降りそうな曇天のごとき影がかかっているし、焦点は折り紙やテーブルを突き抜けた遙か遠方へとぼんやりと投げかけられている。

 この少女を目に入れた途端、ノーラの胸中には居ても立っても居られない、なんとも悲痛な気持ちが膨らんでゆく。

 ノーラを特にそんな気持ちへと突き動かしたのは、少女の曇り切った眼だ。輝きのない、どこか達観したようなその瞳を、ノーラは見覚えがある――いや、経験がある。

 星撒部と関わる以前、希望を持てずに、常に居心地の悪さを感じていた時の、自分の(まなこ)にそっくりなのだ。

 この少女には、無知で無垢な他の子供たちが持つ、無根拠ながらひたすらに明るい希望が、全く欠けている。

 (あの()…どうしたんだろう?

 いじめられてる…って感じでもないよね。でも…他の子供たちからは、明らかに浮いてるし…避けられてる…)

 そう、この少女の周囲には、変な空隙がある。他の子供たちは、身を寄せてギュウギュウとひしめき合っているというのに、彼女の周りだけは空間が断絶しているかのように、閑寂が広がっている。

 それに…よくよく見ると、この少女へと視線を向けた子供が即座に、眼を逸らしている様子が見て取れる。

 (あの()に、一体、何があるって言うんだろう…?)

 直ぐに声を掛けたくなるが、下手な言葉をかけて悪い方向の刺激を与えてしまってはいけない。経験の無さゆえに慎重になるノーラは、少女の様子から出来うる限りその背景を探ろうと試みる。

 その時、ふと脳裏に浮かんだのは、ルニティの言葉だ。

 彼女はこう言っていた――"戦争勃発の直後に避難してきた子が多い"と。つまり、戦争勃発後、悲惨な光景を目にした子供が全く居ないワケではないということだ。

 (もしかして…この()は、そういう子なんじゃ…!)

 ノーラは、ゴクリ、と固唾を飲む。もしも自分の予測が当たっていたとすれば、この少女が抱える心の闇――希望を塗り潰す絶望の深さは、どれほどのものなのか、見当が着かない。成人ですら、惨禍に対する覚悟などそうそう持ち合わせていない。ましてや、精神発達が未熟極まりない幼子となると、尚更だ。

 下手に触れれば、滅茶苦茶に爆裂して、周囲にまで甚大な影響を与えかねない爆弾を前にしたかのような、重苦しい緊張感がノーラにのし掛かる。

 (でも…)

 それでも、ノーラは、重くなった腰を敢えて立ち上げる。そうまでして彼女を突き動かすのは、やはり、少女の希望を含まぬ曇天の瞳だ。

 その瞳を持つ者の苦悩は、ノーラ自身が良く知っている。

 その苦獄の奈落から脱することができたノーラは、未だに苦獄の中に捕らわれたままの幼子をそのままに放置しておくなど、とてもでないが耐えられない。

 ノーラが少女の方へと向かうのをみた職員が、慌ててノーラの方へと早足に歩み寄る。

 「あの…その()は、ちょっと…」

 そう言いながら職員は、ノーラの腕を軽く引っ張る。やはり、この()には難しい背景があるようだ。

 しかし、それを見過ごして、絶望に蝕まれるがままにしておくのは――希望を振り撒く星撒部の一員としては、失格だ。

 その強い決意を胸に抱いたノーラは、職員にニコリと微笑んで語る。

 「大丈夫です。お話してみたいだけですから。職員の皆さんにも、他の子供たちにも、迷惑は掛けませんから」

 その澄み渡った微笑みの前に、職員は恥入るように伏し目がちになると、静かに腕を引っ込める。

 「ありがとうございます」

 ノーラはもう一度微笑みを浮かべて感謝の言葉を述べると、もはや二度と職員の方を振り向かずに、ぼんやりと座す少女へと一直線に向かう。

 ノーラの意図を理解した周りの子供たちは、眉根に皺を寄せて不快感を示すと、ノーラと陰を帯びた少女から逃げるようにそそくさと距離を取る。

 そんな子供たちの様子など全く意に介さず、ノーラはついに少女の眼前にたどり着くと。スッとしゃがみ込んで少女の目線に合わせると、有らん限りの明るさを込めてニッコリと笑う。すると少女は、ジロリと、突き刺すような冷え切った視線を寄越してくる。

 「…おねーちゃん、あたいに何か用?」

 月光に輝く刃物のような視線を前にすると、ノーラの鼓動がビクリと跳ね上がる。やはりこの()は、単にこの催しが気に入らないだけなのではないかと、思い改めそうになるが…。

 ノーラは少女の深青の瞳を覗き込むと、鎌首をもたげた不安を押し戻す。――違う、この()は不機嫌なワケじゃない。

 瞳は確かに曇ってはいるものの、その向こう側にうっすらと灯る輝きは、とても真っ直ぐだ。不機嫌そうに見える目つきも落ち着いて鑑みれば、彼女の生来のツリ目がそんな雰囲気を醸し出しているだけだ。加えて、彼女の燃えるような赤紫色の髪もまた、どことなく攻撃的な雰囲気を添えているように見える。

 しかし、小悪魔的なデザインのラフな衣装や、お洒落のこだわりが伺えるボリューミーなツインテールの髪型からは、年相応のあどけない活発さが見て取れる。

 以上のこと覚ったノーラは、鼓動に落ち着きを取り戻すと、思わずひきつりそうになった笑みから安堵と共に堅さを抜くと、羽毛のようにほんわりとした声で少女に答える。

 「ちょっと…ぼーっとしてるみたいだったから、どうしたのかなって…思ってね」

 対して少女は、「ふーん」と無愛想に呟くと、再び机の方へと視線を投げかける。ここでもはや会話の糸が途切れそうになるが…ノーラは諦めない。

 少女と共に机の上に視線を向けると、折りかけの折り紙を見つめながら声をかける。

 「とっても丁寧で、綺麗な折り方だね…」

 ノーラのその台詞は、世辞ではない。確かに少女が折り掛けていた折り紙は、端々がピッタリと合わさっているし、折り目も定規で線を引いたようなクッキリした直線を作っている。

 ノーラの感心の言葉を受けた少女は、初めてうっすらと、嬉しそうな笑みを浮かべる。

 「うん…あたい、パパ似だから。

 パパ、物凄く器用なんだ。なんでも綺麗に作れるんだ。あたいはそんなパパの娘だもん、紙細工くらいどうってことないよ」

 "パパ"。とても誇らしげに、その言葉を口ずさむ少女の様子から、ノーラは2つのことを感じ取る。

 1つ。この少女が純粋に父親をとても大切に思っているということ。

 もう1つ。この場に居ない父について言及を避けるでなく、敢えて口にしたということは、父について誰かと話したがっているということ。

 しかし、職員や他の子供たちの様子から鑑みるに、少女の父への想いは他人にとってあまりにも気の重いものなのだろう。

 (でも…それこそが、この()の瞳の曇りを払う鍵になるはず…!)

 ノーラは、自分より遙かに長い時間を過ごしてきた職員たちすら忌避する少女の想いと真っ向から対面する決意を固めると、まずは互いの距離を縮めるために名を交わすことにした。

 「私、ノーラ・ストラヴァリって言うの。

 あなたの、お名前は…?」

 「あたいは、栞。

 倉縞(くらしま)(しおり)だよ」

 少女――栞は、ようやくツリ目をニッコリと弧状に閉じて、無邪気な笑みを見せたのだった。

 

 この倉縞栞こそ、後にノーラが背負うこととなった途方もない仕事の依頼主である。


- To Be Continued -

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