Dead Eyes See No Future - Part 6
◆ ◆ ◆
所変わって、『バベル』近辺。
巨大にして凶悪な悪意を抱き、攻撃行動に出た『バベル』に対して、ノーラが大剣を手に突撃した一方で。イェルグもまた地を蹴ると、彼女とは正反対方向へと飛び出してゆく。
目指す先には、大津波と見紛うほどに街路を満たして迫り来る癌様獣の大群。そして、その中に揉まれて運ばれる大岩のごときエンゲッターが搭乗する人型機動兵器の姿がある。
エンゲッターも癌様獣も、たった一人で迎撃行動に走るイェルグについて、何の感想も抱いてはいないようだ。特に前者に関しては、癌様獣の数量に押されっぱなしでイェルグに気を回すどころではないようだ。
「スッ込んでろよッ、クソムシどもがッ!」
スピーカーでがなり立てながら、長大な腕を振るって叩き潰したりブッ飛ばしたりと奮闘するものの…。次から次へと雪崩込む癌様獣にホバー移動する足下をすくわれたり、機体を踏み越えられたりして、グラグラとバランスを崩しまくっている。
一方で癌様獣はと言えば、エンゲッターに同朋がやられていることにも全く無関心で、真紅に腫れ上がった眼球の視線をまっすぐに固定し、昆虫を思わせる脚部やら翅を始めとする飛行推進機関を動かして、ひたすらに前進を続けるばかりだ。大群を前にたった独り立ち向かわんとするイェルグのことなど、露ほども気にかけていないような立ち振る舞いである。
いや――イェルグまで数メートルの距離に迫った十数の個体が、至極無機質な動作で体内から機銃器官を露出させると、眼球は動かさぬままに銃口だけをイェルグに向け、魔化された弾丸を連射してくる。
さほどの脅威としてみなしていないが、目うるさいので排除しておこう、というおざなりな態度が見え見えだ。
それに関してイェルグは、思わず苦笑を浮かべる。
(おいおい、この"空の男"を相手に、そういう態度はどうなんだよ。
まぁ、尤も、舐めてくれる方が――)
イェルグは体を左右に振って掃射をかわしながら前進を続けつつ、制服の上着の下、背側のベルトの辺りに右手を伸ばす。そして取り出したのは、包丁ほどの大きさを持つ幅広のナイフだ。
(やりやすくて、気が楽だがね)
胸中で呟きながら、クモともカニとも付かぬ姿をした個体に肉薄すると。小さく跳び上がってその背中に乗り上げると同時に、両手で握ったナイフで滑らかな重金属の装甲に刃を立てる。
ナイフの切っ先は、すんなりと装甲の中へと潜り込んでゆく。魔化されているのか、それとも余程の業物なのか。…しかし、真に驚くべきなのは、この後だ。
ブシュッ、と無色の電解質の体液が飛沫を上げた、その直後。突如、刃を立てられた個体が、網膜を灼くような激しい閃光に包まれる。
――何だ!? そう疑問符を浮かべたように、周囲の癌様獣達の視線が、イェルグの襲った個体に集まる。そして彼らは、何が起こったのかを光速の認知によって悟る。
落雷だ! 結界によって閉ざされた上に、積乱雲の姿も全く見えぬ天上から、龍を想起させるような極太の電流が降り注いだのだ。
強烈な電流によって、個体は身体中から焦げ臭い黒煙を上げながら、激しく酸化した金属と消し炭になった炭水化物の塊となり、その場に転がる。
――あの男、何をした!? 癌様獣達は、単身で突っ込んで来たイェルグの姿を慌てて探す。しかし、落雷の閃光の中で姿を眩ませたらしい彼を認めることが出来ず、真紅の瞳がキョロキョロと虚しく動くばかりだ。
そんな最中、バァンッ! と大気の破裂する音。そして、再びの閃光。そして、震撼する瓦礫の大地。再びの落雷が、癌様獣の個体を捕らえ、消し炭に変えたのだ。
致命傷を与える凶悪な不意打ちに、癌様獣達は共有思考ネットワーク上で対応を協議する。光速の神経伝達速度を持つ彼らではあるが、電子速度を上回るほどの回復能力は持ち合わせていない。相手は単独とは言え、放置していれば着実に数を減らされる。
地球から遠く離れた巣窟からは、"相手は単独なのだから、多少犠牲を払おうが勢いで押し切れる"、と指令と受ける。だが戦場に立つ個体達は、落雷と言う攻撃手段に不安を覚え、指令に真っ向から反対する。
落雷から連想されるのは、気象制御である。そして気象とは本来、超広範囲に影響を及ぼす代物だ。落雷は相手にとって威嚇行動かウォーミングアップの意味であり、更なる厄介な攻撃が控えている可能性が考えれる。
そんな現場からの意見に、巣窟の連中が是やら非やらと騒がしく議論を喚き立てている頃。現場の個体達の危惧が、現実のものとなる。
初め、彼らの眼に移ったのは、ナイフを逆手に持って走るイェルグの姿。彼の疾走速度は風の如く速いが、癌様獣の光ファイバー神経にとってはさほど脅威とはならない――が。
一瞬の後、視界が急に濁った青一色に染まる。何事か、と感覚器官を総動員して分析を始めるのも束の間。癌様獣達の身体は砲撃にも勝る激しい衝撃に襲われ、重金属の体が錐揉みながら紙切れのように空中高くに舞い上がる。
現状確認はともかく、姿勢制御に尽力するものの、光速の神経に反して肉体の運動が極端に鈍くなる。自由の効かぬ手足に視線を投じようと真紅の眼球を動かせば…いきなり視界が漆黒に閉ざされる。
眼球がビキビキとひび割れたかと思うと、ボロリと崩れ落ちたのだ。
崩壊は眼球だけに留まらない。手足もビキビキと音を立てながら崩壊し、ついには細かな破片群と化して青い暴風の中に溶け込んでしまう。
こうして死を迎えた癌様獣達が、光速の知覚の中でじっくりと味わったであろう感覚。それは、亀裂が走る直前、濁った青い暴風に巻き込まれた直後から盛大な霜が全身に走り、柔軟な金属筋肉繊維が軽石のように硬く、そして脆く凍結してゆく、拷問にも似た不快感。そこへ暴風がぶつかり、彼らの体は削り取られるようにして崩壊していったのだ。
癌様獣の津波で覆われた街路をあっと言う間に飲み込んでゆく、濁った青い暴風の渦。それは次々に同胞を失ってゆく癌様獣に留まらず、エンゲッターにも大きな衝撃を与える。
「外気温…53ケルビンだぁ!?」
搭乗する腕長の機体の外部センサーがもたらした情報に、コクピット内でエンゲッターは唯一生身の口で絶叫した。
「どういうこったよ、おい!?
しかも、大気組成の大半が水素とヘリウムって、なんだよこりゃ!?」
落雷による攻撃をしっかりと眼にしていたエンゲッターは癌様獣達同様、イェルグが気象制御の魔術を操るであろうことは予測していた。しかし、この異様な大気組成と極端な低温は、地球では絶対にあり得ない天候だ。
この現象の正体は何か。機械化脳髄のネットワーク回線を通じて、開発部へ調査を依頼しようとする間に…。エンゲッターの機体の全身が、濁った青い暴風にスッポリと覆われてしまう。機体は宇宙戦闘用に換装されたD装備なので直ちに凍結して崩壊することはないが、それでも装甲が一瞬にして霜で覆われ、センサー類は暴風の衝撃に翻弄されて正常な機能を失う。
エンゲッターは現象の調査だけでなく、機体装備をD装備から極低温および暴風圏用へと転移換装するよう、開発部へと要請を行うが。通信はノイズにまみれており、正しく相手に伝わったか判断が付かない状態だ。
「なんだってンだよ、クソッ、なんだってンだよ、あの学生ッ!」
エンゲッターがフルフルと唇を振るわせながら罵声を放っている頃。暴風の中では幾度も幾度もパパッと閃光が走り、水素の爆発を伴った轟音が重く響き渡る。この凶暴な気象の中でも、イェルグはナイフを片手に落雷を落とし、運良く暴風や冷気に耐性を持つ癌様獣達にトドメを与えているのだ。
「尋常じゃねぇぞ、あのガキ…!
単独のくせしやがって、オレも癌様獣の両方とも、一個体たりとも『バベル』の所に行かせねぇつもりか…!
なんてぇ野郎だッ、クソッ、ユーテリアって所は学校じゃなくて、怪物どもの飼い籠かよ!」
エンゲッターは転移換装を待たずに、機体を動かそうと奮闘するが。各種の関節が凍りついた今、機体はガクンガクンと揺れ動くばかりで、一歩たりとも動いてはくれない。
さて、ここでイェルグが作り出した気象の正体を開かそう。
エンゲッターが推測した通り、これは地球の気象ではない。
それは、地球より遠く離れた惑星の気象。太陽系の中において最速の、音速すら越える暴風を持つ極寒の惑星――海王星の気象である。
イェルグはこの凶暴な吹雪の中を、薄ら笑いさえ浮かべながら縦横無尽に疾走し、癌様獣を片っ端から葬ってゆく。
吹雪は彼の制服の内側からドンドンと湧き出している。彼自身の体が凍り付かないどころか、暴風にも翻弄されることがないのは、身の内から生まれたものだからという理由では説明の付かぬものだ。体表面の半分ほどを民族衣装のような布地で覆った肉体に宿る、特別な性質があるらしい。
(まっ、癌様獣相手は順調だな。
光速の神経ネットワークを持つとは言え、困惑もするし、肉体は光のようには動けない。凍らせて粉々に砕いたり、全身の細胞を完全に焼き尽くしてやれば、超再生能力も形無しってところだな)
逆手に持ったナイフを大振りに一閃すると、周囲に立つ3匹の癌様獣達に一辺に深い斬撃を与える。転瞬、ほぼ同時に暴風の中を切って龍の如き落雷が降下。3匹は水素の爆発を起こしながら、消し炭になった体を爆散させて、暴風の中に消えてゆく。
ここでイェルグは足を止めて、周囲にチラリと視線を走らせる。暴風の中、足を止めずに戦い続け、どれほどの時間が経過しただろうか。10分に満たない程度の短時間であろう。しかし、彼の作り出した凶暴なる気象と落雷を伴うナイフ格闘術によって、津波のように湧いていた癌様獣達は、随分の数量が屍も残さず姿を消していた。それでもまだ生き延びている個体がチラホラと確認出来るが、イェルグはそちらへと足を運ばない。
彼らを過小評価しているワケではない。しかし現状において、彼らより脅威となる存在が極寒の嵐の中、ギシギシと音を立てて巨体を持ち上げてきた。
その巨体の正体は、エンゲッターの機体である。
この過酷な状況に適応すべく、転移換装を急かしていたエンゲッター。その結果として、凍り付いた関節を振り切り、活動可能とはなったものの、すの外観は殆ど変化がない。装甲表面を覆っていた霜が取れた程度で、『バベル』による定義崩壊で溶融した部分はそのままだ。
「なんで装甲を取り替えねぇンだよッ!」
コクピットの中で唾棄するエンゲッターに対し、3Dディスプレイに映ったエンゲッター機の整備責任者は、分厚い眼鏡越しに苦笑を浮かべて反論する。
「バカ言わないでくださいよ。大量の物質が高速で荒れ狂ってる空間に部品なんか転移させたら、周囲の物質もろとも融合しちゃって、バカデカいゴミ屑になっちゃいますよ。
装甲下の器具の換装で精一杯です」
整備責任者が言う通り、エンゲッターの機体は外観こそ変わらぬが、その内部は大きな変容を遂げている。超低温下でも各種機関が凍結しないように発熱の魔化を分子構造に織り込んだ装置を全身に採用すると共に、暴風に翻弄されないようバランサーのシステムを大幅にアップデートしている。
これらの改修は事前に用意されたものではなく、エンゲッターの要請を受けてから初めて作り上げられたものだ。
そんな急ごしらえ故か、機体からのフィードバックに疼き似た不快感を覚えるエンゲッターは、苦々しく口元を歪めて文句を付ける。
「しかもこれ、チクチクして気持ち悪ぃぞ! 後衛でヌクヌク過ごしてる身の上なんだ、現場で血反吐吐いてるオレらのことにもっと親身になって対応しろよッ!」
「そんな事言われましてもねぇ…そんな巨大氷惑星みたいな環境下での戦闘なんて、想定してませんからねぇ…。
そんな場所で戦闘するメリットなんて、皆無じゃないですか」
「現に今! オレが体験してンだからよッ!
次からはケースとして考慮しとけ! 役所仕事じゃねーんだぞッ、オレらは儲けてナンボの企業なんだからよぉッ!」
「…その儲けに繋がらないから、今まで見向きもされなかったんですよ。
需要があっても、相当な物好きによる滅茶苦茶ニッチな需要でしかないでしょうよ」
「…ったく、ヘラヘラヘラヘラ、言い繕いやがってッ!」
そんなやり取りを経て立ち上がったエンゲッター機は、暴風の中をバランサーが強化されたホバー機関で軽やかに滑りながら、周囲を見回す。
「あの学生、面倒なことしてくれやがったが、お陰で癌様獣どもは大分数が減ったみてぇだな。
そんじゃ、お礼参りしてやらにゃ行かんよな!」
エンゲッターは己の視覚とリンクする機体のセンサーを総動員して、イェルグの姿を探査する。
「オラオラオラオラァッ、何処に潜んでやがるんだ、学生!
かくれんぼが得意――」
エンゲッターはそんな挑発を、機体のスピーカーを使って外部に豪語したワケではない。しかしながら…彼の言葉に呼応するように、濁った青い暴風の中からナイフの刃を閃かせたイェルグが、跳び出して来た!
「んおッ!?」
急な出来事に戸惑いと驚愕の声を上げる、エンゲッター。その間にもイェルグは、エンゲッター機の胸部のど真ん中へと肉薄。逆手に持ったナイフの切っ先がギラリと輝いたかと思うと、溶けた装甲にズブリと潜り込み――。
蛮ッ! 大気の破裂する音とともに雷光が閃く。落雷がエンゲッター機に直撃したのだ。転瞬、周囲の極低温の水素が文字通り爆発し、エンゲッター機の巨体が嵐の中に巻き上げられる紙切れのようにブッ飛んでゆく。
「チックショウッ!
なんだって今の学生どもは、生身で機動兵器相手にするくらい無駄に活きが良いンだよッ!」
吹き飛びながらもエンゲッターは搭乗機全体のバランサーを総動員し、姿勢の制御を試みる。背中や腕間接、脚部に装備された小型推進機関が高圧ガスを噴出し、エンゲッター機は横倒しの独楽のように体勢を立て直すと、両脚と長い両腕で大地を掴みで静止する。
随分な距離を飛んだが、暴風圏から抜け出してはいない。イェルグが非常な広範囲に対して気象操作を行っているのか、あるいは彼がエンゲッターへ向かっているが為なのか。エンゲッターは後者であると判断し、機体の損傷具合をモニターしながら、イェルグの姿を再び探す。
「近寄ってンだろォ!? 何処に居やがるンだよォッ!?
クッソ、なんでサーモセンサーに引っかからねぇんだッ! 癌様獣どもばかり検出されやがるッ!
あのガキ、体温も操作出来るってのかぁ!?」
罵声を上げていると、機体の右腕部に対する加圧をセンサーが検出した。慌ててカメラを向ければ、そこには暴風と一体化したかのような激烈な加速で斬撃を与える、イェルグの姿。デコボコの装甲表面に沿って一直線に引かれた斬跡は、内部機関に達する深い損傷を与える。
「そこに居たのかよッ、クソガキッ!」
エンゲッターはイェルグが離れるより一瞬速く右腕を振り上げると、彼の体を中に巻き上げる。そして胸部に数十内蔵された次元掘削弾丸を雨霰と叩き込む。空間格子に沿って直進する性質を持つ次元掘削弾丸は、暴風の影響を受けることなく一直線にイェルグの体を削り取りにゆく。
対するイェルグは、制服の内側から高圧の気流を吹き出して飛翔。複雑な弧を描きながら次元掘削弾丸を回避しつつ、再びエンゲッター機へと接近する。
「羽虫の癖して、ゾウより偉大なオレ様に立ち向かってくるンじゃねぇよ!」
エンゲッターは長大な両腕を鞭の様にしならせながら、接近するイェルグを叩き落としにかかる。
エンゲッターの目論見は、見事に成功する。左腕がイェルグの頭上を捉え、激突したのだ。エンゲッターは生身の口元をニィッと歪める。
…しかし、歪みは直ぐに強ばりに変わる。
左腕が――巨大な質量と甚大な加速をともった左腕が、振り抜けずに中空で停止したのだ。慌てて腕部のカメラを確認すると、左腕の真下には頭上で両腕を交差させた防御姿勢を取った、イェルグの姿がある。
「おいおい…機動兵器の一撃だぞ、生身の腕で受け止めるなんざ…」
バカバカしい程にあり得ない、とでも言いたかったかもしれない。しかし言葉の終わりまで紡ぐ前に、イェルグがその場でクルリと縦に回転して見せると、両脚を同時に突き出して左腕にドロップキックを浴びせる。その衝撃に、エンゲッター機の左腕の方がバカァンッ! と音を立てて上に吹き飛ぶ。
そしてエンゲッターの前に、何の障害もなく姿を表したイェルグは、普段の和やかさとは全く違う、凄絶な笑みを満面に浮かべていた。
「こンの、バケモノが…ッ!」
エンゲッターは歯肉から血液が噴出するほど強く歯噛みして、機械化された眼球でイェルグを睨め付ける。
――イェルグによる足止め行動は、"足止め"以上の効果をもたらしながら、佳境に差し掛かる。
◆ ◆ ◆
激闘するイェルグの背後では、ノーラ単身による『バベル』打倒が展開されていた。
両者のサイズ差は、イェルグとエンゲッター機の差よりも更に大きい。エンゲッターは自身をゾウ、イェルグを羽虫と例えていたが…同様に、『バベル』をゾウと例えるのならば、ノーラはダニになってしまうかも知れない。
極端なサイズ差は基本的に、小さい方に圧倒的な不利を押しつける。人が米粒程度の砂礫に単純にぶつかっても痛痒を感じないように、サイズの小さい方は大きい方に打撃を与えるには相当の工夫が必要だ。それこそ、一噛みで高熱を発する病毒を送り込む毒アリのように。
ノーラにとってサイズ差とは、苦い経験を想起させる代物だ。アオイデュアで巨大な士師に打ちのめされた記憶が、彼女の精神にストレスを与える。――あの時は満身創痍で且つ、奇襲を受けるという不遇が重なっていたのだが、それでもノーラの心に心傷を刻むには十分な経験であった。
今、『バベル』と相対するノーラも、正直、精神状態は穏やかではない。額や頬には吹き出した冷たい汗が幾筋も伝い、鼓動は運動性だけに起因しない不快な動悸に苛まれている。
それでもヒトとは、意志の力によって己の弱さを克服出来る生物だ。その例に漏れず、"やらねばならぬ"という強い信念と覚悟を持ったノーラは、大剣を握る手にも地を蹴る足にも震えを起こすことなく、気丈に、機敏に、そして果敢に巨大な仇敵に立ち向かう。
幸いにして、ノーラは工夫のない砂礫ではなく、毒アリの類に形容される技量の持ち主である。定義変換を巧みに繰り返しながら、『バベル』の巨大な暴行を悉くかいくぐり、不気味な白い肌を何度も何度も斬りつける。
この交戦において、ノーラ側に有利な点がある。それは、『バベル』の鈍重さだ。
赤子のように四つん這いの格好で這い回る、『バベル』。その姿に見合った通り、その行動は赤子のように粗雑で荒々しいばかりである。攻撃と使う体部も大半が腕に限られ、脚は時折立ち上がることがあろうとも、終始『バベル』の体重を支えるだけで蹴りの1つも放つこともない。
ゆえに、質量の観点では脅威である『バベル』だが、その攻撃は単調すぎる。サイズ差に脅えず、落ち着いて攻撃を見極めれば、ノーラの反射神経と体術を以てすれば当りはしない。
今も、『バベル』が放った横殴りの拳撃を、ノーラはヒョイと跳んでかわすと。そのまま宙でクルリと回転し、手にした大剣で『バベル』の腕を横一文字に斬りつける。ギイイィィィッ! と岩石にでもぶつかったような耳障りな音が、拳風の中で痛々しく響き渡る。
文句もつけようのない直撃。…そのはずが、ノーラの表情には晴れやかな感情は一片も見て取れない。それどころか、彼女は眉をひそめて唇をギュッと閉ざし、表情を曇らせる。
(やっぱり…これも、ダメ…!)
胸中で舌打ちでもしたくなるような一言を漏らしながら、すかさず『宙地』を使用。空中に小型の方術陣を作りだして足場を作ると、それを蹴って横っ飛びにその場を離れる。直後、『バベル』の半開きにした左手が、一瞬前までノーラの居た位置を通過してゆく。
ノーラは過ぎゆく『バベル』の腕をしばらく見送る。遠ざかってゆく『バベル』の手は、輪郭のぼやけた漆黒で覆われている。この漆黒は幾つかの煙状の歪な球形の寄せ集めであり、その1つ1つに獣とも鬼とも取れぬ凄絶な形相の顔が付いていて、ノーラの事を始終凝視している。
ノーラはこの手に2、3度と斬撃を与えながら、得意とする分析を行って攻撃の正体を見極めようと試みていた。しかし、それは功を奏するどころか、触れた瞬間に大剣の定義が歪んで変質しそうになったのが続いたため、断念した。持てる定義変換技術の随を結集し、定義強度を極めて強化した大剣を用いてもみたが、同様の結果を得るに留まっている。とにかく、あの拳に触れるのは非常にマズい、ということだけは理解できた。
『バベル』に関してはもう1つ、未解明な点がある。それは同時に、『バベル』打倒における致命的な要でもある。
それは、『バベル』を傷つける方法、だ。
宙空の方向転換によってやり過ごした『バベル』の腕。ノーラの視界の中で、その二の腕が肩口にまで差し掛かった所で、ノーラは大剣を思い切り振り上げると、落雷にも劣らぬ勢いで銀閃を叩き下ろす。
今、ノーラが扱っている大剣は、定義変換によって作り出した、硬度に特化した逸品である。機械的な構造は特に持たないものの、刀身を形成する金属の格子構造は圧力が掛かるほどに硬度を増すよう絶妙に配置されている。更に、刃の幅は5センチメートルもの分厚さを誇る。もはや刃物というよりは鈍器と言うべき代物だ。
その極めて強靱な刃が、『バベル』の体表に激突すると。先にも響き渡った、ギイイィィィッ! という岩石が上げるような耳障りな騒音が生じる。
――いや、岩石的なのは、音だけではない。『バベル』の身体自体が、岩石的な――いや、それどころではない、究極的と言って過言ではない硬度を誇っているのだ。
『バベル』の体表は、ホルマリン漬けになった生物標本のような人体およびその他の生物の身体の結合で構築されている。体表から体毛のように飛び出ている手足は、さざ波に揺れる海草のように緩慢に柔らかく動いている。その様相からは、硬さなど微塵も感じられない。
だと言うのに、ノーラが精魂込めて作り上げた硬度に特化した大剣は、一撃を与える度に分厚い刃がボロボロと刃零れを起こしてしまうのだ。都度、ノーラが定義変換を繰り返して刃を再構築していなければ、大剣はとっくにポキンとへし折れていたことだろう。
一方で、ノーラの斬撃をあらゆる場所に何十回と食らい続けている『バベル』ときたら、柔らかそうな印象に反して掠り傷の1つも受けていないのだ。
(ここでも…やっぱり、同じ結果…!)
刃を再生させながら『宙地』で空を蹴り、急降下して着地する、ノーラ。そして次なる攻撃に備え、身構えながら見上げると。死した三つの眼を張り付けた『バベル』の顔が、裂けた口でニンマリと嗤いを浮かべながら、ゆっくりと首を巡らせてこちらを見下ろしてくる。
ノーラのあらゆる行動を、"無駄だ"、と嘲笑うかのように。
(だけど…! 真に"神"と成ったワケじゃないはずだもの…! 絶対に、付け入る所は…ある!)
『バベル』がゆっくりとした動作で、天空を握らんばかりに拳を振り上げる。その動作の完了を待たずしてノーラは『バベル』の腹部に潜り込むと、大剣を高く差し上げて切っ先を腹部の表面に突き立てる。そのまま疾走すると、大剣の斬跡は左脇腹から股間へと抜けるコースで曲線を描く。
走り抜ける最中、大剣は例のごとく耳障りな音を立てると共に、パラパラと銀色の破片を振りまく。折れて零れた刀身の破片である。それを片っ端から再生しながら、腿の間を走り抜けて『バベル』の腹下から脱出する。
この攻撃の最中、ノーラは終始『バベル』の硬さを突破する術を見い出すべく、分析を行っていた。刃から伝わる衝撃や振動を元に、『バベル』の形而下および形而上的な物性を把握するのが目的だ。
しかし――得られた情報は、これまでも繰り返して来た分析と全く同じ内容である。即ち――『絶対安定』である。
(眼球も…ダメだった。その上…局部までも、同じ結果だったなんて…)
ノーラは直ぐに『バベル』に向き直って身構え直しつつも、その表情には隠し切れぬ苦々しさが浮かぶ。
『絶対安定』。
その特性を敵に回した者は、大抵が絶望に陥ることであろう。
万物は、より安定な状態を求め、機会があれば即座に状態を遷移する。それはちょうど、手放されたリンゴが即座に地面に落下することと等しい。
これを物理学的に表現すれば、"ポテンシャルがより小さくなる状態へと遷移した"、となる。
この説明により、この世において"変化"と称される現象の大部分を説明することが出来る。炎を上げて燃焼した木材が二酸化炭素と炭へと変化することも、大きな原子量を持つ原子核が核分裂を起こすことも、すべてはポテンシャルの極小を求める万物の性質に起因する。
それでは、『絶対安定』とは何を意味するのか。答えは、ポテンシャルの値が絶対的に小さいということである。つまり――その値は0どころか、負の無限大である、ということだ。
この状態では、あらゆる変化は絶対に起こりはしない。分子間の結合エネルギーは正の無限大となり、切断することも圧壊させることも不可能。化学変化を起こすにも正の無限大のエネルギーを必要とするため、燃焼が発生することもない。放射線を浴びたところで原子核は励起状態に遷移せず、核分裂も核融合も起こさない。
完全なる鉄壁。それが、『絶対安定』である。
自然下において――いや、人工の条件下においてさえも――『絶対安定』の実現は不可能とされてきた。絶対零度においてもなお、零点振動と呼ばれる現象によって存在が完全に停止することがないように。あらゆる変化を受け付けない存在など、机上の妄想のみの存在であると言われてきた。
だが。『天国』を握らんと…"神"に至らんとする『バベル』ならば、自然法則を足蹴にしても見せるのだろう。
神聖なまでに凶悪な性質を持つ敵を相手にせねばならない、ノーラ。しかし、彼女は今、絶望などしない。
絶望ならば宣告、肺と眼から絞り出して来た。
今の彼女は、星撒部の理念に適う、どんな小さな希望でも足掻いて手に収めんとする、果敢なる猛者だ。
(『絶対安定』だとは言え…辻褄が合わない部分が、あるっ!)
四つん這いの体勢でグルリと身体を回し、ノーラに向き直りつつある『バベル』に対して。ノーラは行動の終わりを待たずに突撃すると、『バベル』の脚部に刃を突き立て、回り込みながら斬撃を与える。
例によって大剣の刃は盛大に刃零れし、『バベル』の体表には傷一つ付かない。腕を伝わってくる衝撃からは、真っ先に『絶対安定』という情報がもたらされる。
それでもノーラは『バベル』の緩慢な動きにつけ込み、素早さで圧倒しながら駆け回り飛び跳ね、ありとあらゆる場所に刃を叩きつけ続ける。
こうした一連の所作によって、ノーラは勿論、『絶対安定』でない部分を探し出そうともしている。だが、それだけのための努力ではない。形而上相の視認では余りに複雑過ぎて解析不能な『バベル』のあらゆる性質を、地道な一撃一撃で以て暴き出そうとしているのだ。
(絶対に…"穴"は、在る…!
そうでなければ…『バベル』は存在しえないもの…!)
ノーラの絶え間ない努力を支える信念。その源は、『絶対安定』と『バベル』の実態における、科学的性質の齟齬による。
先に、『絶対安定』とはあらゆる変化を起こさないと言及した。それを真とするならば、『バベル』は不動でなければならない、という結論が導き出される。
肉体における動作とは、肉体を構成する分子の配列が変化することに他ならない。しかし、『絶対安定』ならば、分子配列を変化させるためには正の無限大のエネルギーが必要と言うことになる。――つまりバベルは、腕どころか、体表から生える体毛の如き人体を揺れ動かすにも逐次、無限大のエネルギーを量産しなければならないということだ。
それは全く以て、荒唐無稽な話である。連続的に無限大のエネルギーを生産出来る術が在るならば、『天国』を手中に収めるまでもなく、全異相世界を意のままにすることが出来るであろう。
それを実行に移していないということは、『バベル』を動かすのに何らかのトリックを使っている、という事だ。
そのトリックの正体を掴むべく、ノーラは持てる体術と解析能力を駆使し続けているのだが…その成果は、未だ得られていない。
『絶対安定』以外で得られた形而下的情報は、『天国』を掴む為の存在という割には、あまりにも平々凡々としたものばかりである。巨大な体を構築しているのは、タンパク質を主体とした有機物であり、動物細胞と同様の微細構造を持っている――即ち、通常の人体と同一のものである。細胞はATPを生産し、その消費によって筋組織を初めとする各種器官が機能し、行動を起こす――即ち、通常の生物と同一のプロセスである。
とは言え、形而上相的な情報は、流石に複雑で難解である。ATPの生産から燃焼までの1プロセス毎に、脳を処理能力を凌駕するような超高密度の術式が関わっていることは解明した。しかし、この術式には莫大な量のパターンが存在する。ノーラがいくら分析能力に長けていても、腰を据えて取り組んだとしても、理解には途方もない労力が必要である。これを常に定義変換を行うのと並行にこなしているのだから、その労苦は計り知れない。
(それでも…やらなきゃ、この怪物には勝てない…! 皆を、解放できない…!)
追い込むように自身を鼓舞し、ノーラは乱流のように『バベル』の周囲を駆け回り、銀閃を浴びせ続ける。どんなに刃零れが起きようが、どんなに得られる情報が無為のものであろうが、彼女の美しい翠の瞳は決して曇らない。
ギイイィィッ! ギイイィィッ! と連続する激突音は、ノーラの信念が歯を食いしばっている音のようであった。
一方。『バベル』を操者であるヘイグマン・ドラグワーズ大佐は、『バベル』の視覚越しに眺めるノーラの奮闘を、せせら嗤っている。
「素晴らしい戦乙女だ。
超人であろうとも心が折れるような状況を前にしても、決して絶望せず、ひたむきに立ち向かってくる。
さぞかし強く、美しく、神々しい魂魄の持ち主であることだろう」
ヘイグマンの枯れた唇が赤みを取り戻し、恍惚さえ混じる感嘆の声を漏らしていると。3Dディスプレイ越しにツァーイン・テッヒャーから焦燥の露わな言葉をぶつけられる。
「大佐どの、何を感心しておられるのか!
我らの大義は、『天国』を掌中に収めることに他なりませんぞ!
そんなノミの如き少女を相手にするなど、愚行以前の無駄の極みですぞ!
どうせ『バベル』は無敵なのです! そんなノミは捨て置き! さぁ! 『天国』の高みに至ろうではありませんか!」
"早く、早く!"という急かし文句が今にも聞こえてきそうな早口でまくしたてるツァーインに対して、嗤いを浮かべたままのヘイグマンは殊更悠然とした動作で、首を横に振って見せる。
「博士。あなたは優秀な科学者であるがゆえに、結果第一主義に陥って、過程の持つ意義を軽んじ過ぎている。
あなたが『バベル』とリンクし、"彼"が目にする光景や、去来する願望に一時でも触れられるのならば、理解出来るだろう。
これは、『天国』に至る為に必要不可欠なプロセスなのだ」
「あんな矮小な少女と戯れることが、必要不可欠ですと!?」
目を見開いて疑問の声を上げるツァーインに、ヘイグマンは嘲りをも交えたせせら嗤いをクックッと漏らす。
(そう、これは必要であり、そして極めて重要なプロセスだ。
『バベル』にとってだけでなく、私にとっても…だ)
ヘイグマンは、記憶の中の"獄炎の女神"を連想させるような女性に対し、嫉妬と憎悪の炎を燃やしている。勇猛なる戦乙女の如きその姿を見せつけられては、その凛々しさを絶望色に汚したいという欲求に無性に駆り立てられる。この衝動を悶々と抑えるでなく、スッキリと発散させねば、『バベル』へのフィードバックに悪影響を及ぼし、『天国』との接触の障害になり得る…と言うのが、ヘイグマンが"必要であり重要"だと考える理由の1つ。
そして、もう1つ…女神にも匹敵するような清廉にして頑強なノーラの魂魄を、『バベル』に取り込もうとする目論見がある。
(聖女を生け贄に神の奇跡を手繰り寄せるが如くに…!
彼女の素晴らしき魂魄を『バベル』に加担させれば、その定義は更に高貴にして盤石なものとなり、『天国』へとより迫ることが出来るであろう…!)
そう、ヘイグマンにとって奮戦するノーラは、磔台上においてなお足掻く、生け贄に他ならない。
故にヘイグマンは、絶対的な防御力を誇りながらも、執拗なノーラを律儀に相手し続けているのだ。絶好のタイミングで彼女を絶望に穢すと共に、交戦の中で幾何かの成長を遂げた彼女の魂魄をまんまと呑み込むために。
とは言え…ノーラを相手にするのは、ヘイグマンというよりも『バベル』にとって非常に骨の折れる手間である。
『バベル』は元来、『握天計画』を成し遂げる装置として製作されたものであり、戦闘への配慮は全く為されていない。巨大な図体と質量、そして魂魄定義に干渉する能力を持つ程度であり、サヴェッジ・エレクトロン・インダストリーが所有する人型機動兵器のような武装は一切保有しない。絶対的な防御力がなければ、これまでの戦闘の流れを鑑みて、『バベル』はとっくに巨大なボロ肉塊へと変わり果てたことだろう。故に、『バベル』はひたすら拳を振るうばかりなのだ――例え、直撃はあり得ないと確信していても、だ。
だが、ヘイグマンは私怨に駆られて徒に攻撃を繰り返してばかりいるワケではない。
全異相世界中から逸材と呼ばれる人物が集まる、実力主義の地球圏治安監視集団においては、単純な年功だけで"大佐"という地位に収まることは出来ない。逆に言えば、大佐の地位に居る人物は皆例外なく、武力的もしくは知略的に相当な功績を残せる能力を有する、非凡な実力者であると言える。
ヘイグマンとて、"獄炎の女神"に敗北して気落ちしてなお、大佐の地位から降格されなかったのには、理由がある。彼の武力が勢いを失ったのに反比例するように、彼の頭脳労働的能力が開花したのだ。
そして今、『バベル』越しにノーラと交戦する彼は、開花した能力を惜しみなく使い、自身の理想とする結末を実現するための"罠"を着実に張り巡らせている。
…ノーラとて、『絶対安定』の攻略に集中の重きを置いていなければ、とっくに気取って警戒したかも知れない。
ノーラの大剣にぶつかった時には、大剣の定義を暴力的なまでに揺るがす、漆黒の拳の一撃。それが空振りして大地に激突した時には、大地は定義崩壊による溶融は発生していない。単に大質量が激突しただけのように、瓦礫が粉砕されたり地面にヒビが入る程度である。…つまり、空振りした逐次、ヘイグマンは『バベル』の能力を意図的に抑え込む手間をかけていることになる。
それは、一体何故なのか。
その答えを、ヘイグマンはもうすぐノーラに見つけようとしている。
(もう少しだ…もう少しの間、踊り続けてもらおうか。勇敢ながらも愚かしい戦乙女よ)
下卑てさえ見える影の深い嗤いを浮かべるヘイグマンは、ノーラの素早さには敵わぬと悟り切っていながらも、執拗に『バベル』の拳を振るい続ける。
対するノーラは、逐次回避行動を取っては、様々なタイミングで斬撃を与えてくる。衝撃の瞬間、彼女の刀身からエコロケーションにも似た走査術式が『バベル』の全身に駆け巡ることを、ヘイグマンは把握している。ノーラが必死になって絶対的な防御を突破しようと奮戦していることを、認知しているのだ。
それでもヘイグマンは、対策など講じず、為されるままに走査術式を受け入れるばかりだ。むしろ、空を切るばかりの拳を差し出し、"どうぞ傷つけてくれよ"と言わんばかりである。
「大佐殿! 大佐殿! 聞いておられるのですか、大佐殿!」
ツァーインが3Dディスプレイ越しに、『握天計画』の障害を排除せよと、急かし続ける。しかしヘイグマンの聞く耳持たぬ様は、鳴き声が喧しいものの気に留める程でもないヒヨドリを相手にしているかの如くである。
ヘイグマンはただ、嗤いを浮かべながら、ひたすらに期を待ち続けている。拳撃の空振りと言う罠の一手一手を地道に、そして着実にこなしながら。
そして…ツァーインの喚き声を聞き流しながら、ノーラの相手をすること、どれほどの時間が経過しただろうか。実際には10分も経過していなかったかも知れないが、興奮に晒され続けるヘイグマンには1時間もの長きを待たされたように感じていた。
『バベル』越しの視界の中では、ノーラが未だに気丈に大剣を振るい、絶え間なく絶対的な防御に立ち向かい続けている。
とは言え、ノーラはユーテリアに属する"英雄の卵"であるが、ヒトの枠を越える存在ではない。常人より遙かに優秀ではあるものの、体力も集中力も無限ではない。攻撃と分析を高いレベルで同時に実施し続けて来た彼女は、息が上がって肩で呼吸し、健康的な褐色の肌は赤みが差して汗でベットリと濡れている。翠色の眼が痙攣するようにピクリとブレているのを見ると、視覚にも何らかの支障が出ているようだ。
明らかに、疲労の色が見て取れる。
そんなノーラの苦しげな姿のみならず、ヘイグマンが交戦の最中にずっと気にかけていた"ある要因"の状況を鑑みて…彼は、極上の肉に噛みつかんとするほどの大口を開いて、嗤う。
――機は、熟した。
「さあ、戦乙女よ。我らが『天国』への扉の鍵と成れい!」
ヘイグマンが叫んだ、丁度その時。
ノーラは疲労で重くなった肉体に鞭打って、『バベル』の足首に大振りの斬撃を横薙ぎにぶつけていた。
相変わらず上がる、ギイイィィィッ! という硬く耳障りな音に、ノーラの顔に隠し切れぬ焦燥と苛立ちが浮かぶ。自身の体力と精神力の限界が迫っている事と、それでも『バベル』打倒の糸口が全く見えてこない事が、怜悧な彼女の心にも流石にストレスを芽生えさせていたのだ。
(一体どんな技術が…こんな厄介な存在を…作り出したと言うの…!)
思わず胸中に苦言が浮かぶが、ノーラはすぐに首を小さく振り、心を落ち着かせる事に努める。疲労困憊でも、彼女の理性は自棄になる事の危険性を正しく説いているのだ。
しかし、理性は賢くあろうとも、肉体にはそうは行かないようだ。
とっくに身体魔化を用いて体力を底上げした状態で尚、蓄積した疲労に重く[rb:伸>の]]し掛かられては、理性で幾ら鞭打とうが肉体はもはや言うことを聞いてはくれない。攻撃を繰り出したノーランは、大剣を振り抜いた格好のまま動けずに、そのまま深呼吸2回分の時間を過ごす。
とは言え、鈍重な『バベル』相手においては、その程度の時間が直ちに致命的な窮地を招くことなどなかった――そのはずであった。事実、ノーラがようやく体勢を立て直しながら振り向いた時点でも、『バベル』は四つん這いの身体をこちらに向けて回転している最中であった。
(まだまだ、隙はあっちの方が大きい…! まだ私は、戦える…!)
身構えた上でもう一呼吸し、身体を調子を整えると。重くなった脚で力強く大地を蹴り、もう何十度目の突進を『バベル』にぶつけに行く。
その2歩目を踏み出した――その時であった。
ヘイグマンの"罠"が、発現した。
ズクン――身体中の細胞が震撼したような不快感の強襲。ノーラは片脚を上げた格好のまま、突如の異変に目を丸くしながら、倒れ込むようにバランスを崩す。
地に両手をついて、崩れたクラウチングスタートの姿勢のような姿を取ったノーラは、そのまま身動き出来なくなってしまう。
(何…この…感覚…!
身体の内側で…何かが暴れているような…!)
そんな物思いを胸中に過ぎらせるノーラの眼に、数滴の汗が流れ落ち、視界を滲ませる。同時に、視界に映る光景がうっすらとした赤色に染まる。
(…赤…?)
ノーラは瞬きして眼に溜まった汗を流し、再び視界を確かめる。すると、視界を染めた赤は消えていた。――つまり、これは視覚の障害ではなく、汗そのものに混じる色ということだ。
再び汗が眼に入り込むより早く、ノーラは自らの手の甲を見やる。するとそこには、湧き水かと言うほどの勢いで玉の汗が吹き出している様子が見て取れる。そして汗は、うっすらとした赤の色を帯びている。
この赤は即ち――血液の色。
(一体…何が…)
自らの肉体に対して形而上相視認を行おうとした、その瞬間。
「っ…あああああぁぁぁぁぁっ!」
内部から爆ぜてしまうかのような衝撃と、それに伴う激痛が全身を駆けめぐり、ノーラは大地にうずくまって悲鳴を上げる。身体を巡る衝撃は、単なる感覚の問題ではない。実際に皮膚や筋肉がビリビリと激しく振動し、地表を薄く覆う土煙を巻き上げるほどだ。
(どうなってるの…!!)
開いた大口を悲鳴の上がるままにしながら、ノーラは激痛に塗りつぶされそうになる理性を振り絞り、形而上相視認を敢行。自らの肉体に起こっている異変の正体を探ると――。
(私…ハメられたんだ…ッ!)
ヘイグマンの"罠"を認識し、憤怒と後悔の暗い炎が灯る眼差しで『バベル』を睨みつける。
対して『バベル』は、"ようやく気づいたのか、愚か者め"と侮蔑せんが如く、裂けた口でニヤニヤと笑みを浮かべている。
『バベル』――いや、ヘイグマンの空振りの拳撃は、実の所、空振りなどではなかったのだ。
その漆黒の拳は、勿論ノーラをも標的にしていたが、それは"当たれば万々歳"程度の副次的なものである。
真の目的は、大地自体、そして――大気だ。
『バベル』の能力は、単に存在を定義崩壊させるだけではない。その上で、自らの存在の一部として引き込む、という能力がある。
"引き込む"と言う能力を正確に表現すれば――任意のタイミングで『バベル』の肉体へ集結・融合するように支配する、というものである。
ヘイグマンが利用したのは、正にこの能力である。
『バベル』の漆黒の拳撃を受けた大地や大気は、実際には定義崩壊を引き起こすだけの干渉を受け、『バベル』――ひいてはヘイグマンの支配下に入っている。しかし、ヘイグマンは敢えて、直ちに定義崩壊を引き起す真似をしなかった。そして、ノーラへの攻撃を行う度に、支配する大地や大気の分子の規模を増やしていった。
それらの分子――特に大気にまつわる酸素や水蒸気といった物質は、呼吸の度にノーラの体内に取り込まれ、赤血球を初めとする細胞と癒合する。時間の経過と共に、『バベル』の支配する分子がノーラの体組織を担う部位が増えてゆく。
そして、その割合がノーラの活動に必要不可欠なまでに高まる頃合いを『バベル』の知覚で認識したヘイグマンは今、ノーラの体内に取り込まれた全ての支配分子に指令を下したのだ。『バベル』へと集結せよ、と。
故に今、ノーラの細胞の各部からは、支配分子どもが分子構造を振り切って、次々と飛び出している状況だ。そして分子構造に欠損が生じた細胞は、機能に障害をきたし、壊死へと向かうのである。
「うぐっ…ううう…あああぁぁぁ…っ!」
ノーラは、自らの体を強く掻き抱きながら、必死に悲鳴を噛み殺していたのだが。全身の細胞が激しい振動と共に上げる激痛の悲鳴に耐えかねて、ついに絶叫を上げる。
中途半端に踏みつけられた芋虫のようにゴロリと地面に転がったまま、もがくことも出来ずに、ひたすら悲鳴を上げる、ノーラ。その皮膚はみるみる内に擦過傷を受けたようにズタズタに傷ついてゆき、にじみ出した血液は宙に浮き上がって『バベル』へと吸い込まれて行く。途中、血液の鮮紅は濁った白色へと変わり、完全に『バベル』の支配下に入った事を物語る。
ノーラの悲惨な姿を『バベル』越しに見ていたヘイグマンは、嗜虐的な笑みを浮かべ、枯れた体に全く似つかわない興奮にたぎる声を漏らす。
「戦乙女よ、もう終わりか!?
さっきまでの威勢は、ここでもう終わるのか!?
それとも、もっと足掻いて、その輝きを増して見せるか!?
え、どうなんだ、戦乙女ッ!」
興奮の赴くまま、ヘイグマンは『バベル』に大きく腕を振り上げさせると、例によって漆黒を纏った拳を雷撃のように振り下ろす。
この拳の一撃には、先ほどまでの加減はない。触れた大気が片っ端から白濁色の粘液へと代わり、『バベル』の拳の中へ飛び込んで行く。これをまともに食らえば、激痛で苦しむノーラの肉体は一瞬にして定義崩壊の憂き目を見ることであろう。
だが――ヘイグマンの煽り文句がノーラの鼓膜に届いたのか。はたまたは、ノーラの生存本能が死を拒絶したのか。とにかくノーラは、迫り来る拳を前に、縮んだバネが戻るように跳ね起きると、横っ飛びに跳んで拳撃を回避する。漆黒の拳は容赦なく大地を溶融し、抉り、濁った白がグズグズと散らばる穴を空ける。
回避したノーラは、気丈にもそのまま立ち上がると、両腕で大剣を握って構え、『バベル』と相対してみせる。
この短時間で、『バベル』の分子支配に対抗する身体魔化を編み出したワケではない。…実際には、在る程度の対抗術式を編み上げてはいたが、万全にはほど遠い。ノーラの体表は今なお振動を続け、ズタズタに崩壊し、血液が虚空へと飛び出してゆく状態だ。振動と激痛の影響で足下はふらついており、立っているだけでも労苦を強いられている状態であることが見て取れる。
それでも、ノーラの翠色の――内出血によって少し赤に染まっている――瞳は、果敢なる戦意を失っていない。見るものの心臓を射抜いて抉るような鋭い眼差しが、そこにはしっかりと輝いている。
その有様を見て、ヘイグマンの顔が妙な風に歪む。妬み狂うようでもあり、面白がるかのようでもある、凄絶にして暗澹とした表情だ。
「あれでも倒れないのか、あの少女は!! どういう事だ、どういう事なのだ!! これは想定外の障害を呼び込むのではないかッ!?」
ツァーインが3Dディスプレイの向こう側で、口元で両手の指を戦慄かせながら驚嘆している。対してヘイグマンは彼を完全に無視し、自分の世界に入り込んで独り言を喚く。
「それでこそだ、それでこそだぞ、戦乙女!
活きの良いエサであればあるほど、優れた滋養になるというものだ!
――さあ、もっともっと、成長してみせろ!」
ヘイグマンは『バベル』を操作し、満身創痍のノーラに容赦のない両拳を振るう、振るう、振るう…!
それまでは体力を消耗してなお、『バベル』に対しては軽やかな羽の如く立ち回っていたノーラであるが、今ではその面影は全くない。不格好な鉛の塊のように、体軸のブレた不安定な構えをやっとこ保ちながら、足を止めて拳撃を大剣で斬り払うばかりだ。
拳撃を受け止める度に、ノーラの顔が苦渋に歪み、桜色の唇の合間からギリリと噛み合わせた歯が覗く。もはや定義崩壊の加減をしなくなった『バベル』の一撃一撃は、触れた物体の定義を容易に奪い去り、濁った白の粘液へと溶かしてしまう。それらの攻撃に莫大な魔力を消費して抵抗しながら、自らの肉体の異変が生み出す苦痛にも耐えねばならない。加えて、『バベル』自体の単純に巨大な質量も、ノーラの骨肉に多大な負担を与える。そんな状況に陥った上で、一片でも余裕を見せてみろ、というのが土台無理な話だ。
それでもノーラは、巧く無駄のない体捌きを実践し、『バベル』の攻撃を悉く受け流す。技量も勿論のこと、意志力も並々ならぬ強靱さを持ち合わせている。
そんな彼女の姿に、ヘイグマンはますます顔に張り付けた嗤いに残酷の色を塗り込め、鼻息を荒くしてゆく。
「そうだ、そうだ! 素晴らしいぞ、戦乙女! そうだ、もっと抗え、もっと強く、美しく在れ!」
そう叫んだヘイグマンは、更なる攻めの一手を投じる。すなわち、予め拳で触れた大地を定義崩壊ささせ、ノーラの足場を崩す"罠"を発動させたのだ。
「!!」
只でさえ、やっと体を支えている状態のノーラ。それが、足場がドロリと溶融したり、溶融せずとも岩塊のまま『バベル』目掛けてフワリと浮き上がったりと翻弄されるのだ。窮状は更に悪化し、ノーラの顔を染める苦痛の色がいよいよ濃くなってゆく。
それでも、ノーラは音を上げて絶望し、『バベル』にその身を捧げるように落ちぶれはしない。フラフラの足を必死に動かし、足場を探りながら過酷な『バベル』の拳撃を耐え続ける。
その姿を目にするヘイグマンは、ノーラのしぶとさに苛立ちを覚えるどころか、デスクをバンバンと叩きまくるほど興奮極まり、唾を飛沫かせて独りで騒ぎ立てる。
「本当に素晴らしい! これほどなのか! 魂魄とは、これほどまでに芳醇で味わい深くなるほど、肥え太ることが出来るのか!」
ヘイグマンは今――いや、実のところ、交戦が始まって以降ずっと――物体としてのノーラを見てはいない。『バベル』の知覚を通して、形而上相における魂魄定義としてのみ、彼女を視認している。
そして、窮地の奈落へと転げ落ち続けながらも、なおも意志を燃やして立ち向かうノーラの魂魄の成長を眺めては、うっとりとした恍惚に浸っている。まるで、己で肥え太らせた上等なウシかブタでもみるように、今にも涎を垂らしそうな雰囲気をまとって。
『バベル』の結合魂魄の最後の1ピースに相応しい、極上の魂魄へと成長してゆく過程を見て、勃起するまでに興奮している。
「あの戦乙女の魂魄と繋がったのならば、私はどれほどの快感を! 清々しさを! 得られるのであろうか!!」
――もういいだろうか、これ以上は成長は望めないだろうか、いや、まだ太らせことが出来るのではないだろうか。ヘイグマンは地団駄を踏みたくなるような葛藤に身を焦がしながら、ノーラを攻める、攻める、攻める…!
ヘイグマンの昂りに同調するように、『バベル』の動きが荒々しく、そして加速してゆく。動きの鈍ったノーラにしてみれば豪雨に等しい拳撃が絶え間なく繰り出され、ノーラは剣捌きに集中しがちになり、足下が疎かになってしまう。それまでは衝撃を受けてもその場を殆ど動かなかったノーラが、吹き飛んだり、すんでのところで尻餅をつくまでに体勢を崩す場面が増えてきた。
赤の混じった冷や汗だらけのノーラの顔に、苦痛とは別の青い色がじんわりと満ちて行く。その色の正体は――怯懦、だ。
万全の状態でも攻略の一手は見つからなかった。この窮地においては、もはや解析する余裕もない。手を出せずに果てのない攻撃に耐え続けるのは、強風の中に放置されたロウソクの火のように心細いばかり。
そこには既に、意志力を盛り返せるような希望は存在しない。
ノーラの魂魄に、意志力の収縮の兆しを見て取ったヘイグマンは…嗤いをピタリと止め、刃のように目を細めて無表情を作る。そして、興奮の色が一気に消えた枯れた表情の元で、ひび割れた薄い唇からボソリと言葉を漏らす。
「そうか、これで終わりかね。
では――頂こう」
ヘイグマンは『バベル』を通して、ノーラの足場を一気に溶融させつつ、急上昇させる。ノーラは支えを失って足をバタつかせながら、中空に放り上げられてしまう。鉄壁であった気丈さに怯懦が混じってしまったノーラは、頑強な防御を忘れ、不安定な己の身を焦るばかりになってしまう。
この隙を、ヘイグマンが見逃すはずがない。『バベル』の身を押し込められたバネのように縮めさせると、全身で立ち上がる勢いを全て右拳に込めて、ノーラへと突き出す。
激突の寸前、ノーラは拳撃を認識して防御行動を取ったが…定義崩壊への対抗術式も、『バベル』の質量を踏ん張る気力も、十分には準備できなかったようだ。拳に触れた愛剣は、熱せられたハンダのようにドロリと溶けるし、大質量を受けた両腕は大きく弾かれて天高く伸びきってしまった。
今、ノーラの顔も銅も、無防備そのものだ。
そこへヘイグマンは――『バベル』は、左の人差し指を伸ばして、静かに着実に、ノーラの胸に触れる。
音にしてみれば、トン、とでも奏でるようなタッチ。しかし、実際に上がった音は、バシャン、という弾ける粘水音。
ノーラの胸部の皮膚が、そして表層筋が、『バベル』の接触によって定義崩壊を起こし、溶融して飛沫いた音だ。
ノーラは慌てて術式を練り上げ、足下に『宙地』の方術陣を形成するが――遅い。彼女の足の裏が方術陣で形成された足場を蹴るよりも早く、『バベル』の指先が更に体内へと潜り込む。
まるで、豆腐の中に指を突っ込んでいるかのような光景だ。『バベル』の不気味な白い指は、然したる抵抗も受けずにズブズブとノーラの体内に侵入する。胸骨は役目を為さない、皮膚と同様に『バベル』に触れられた瞬間にドロリと溶融してしまった。
指はそのまま肺や心臓へ達し、これらの器官も悉く定義崩壊させる。同時に上がる粘性の高い飛沫は、磁石に吸い寄せられる砂鉄のような風体で『バベル』の指に吸い上げられ、一体化してしまう。
指は胸腔に収まった内臓をドロリ、ズルリと全て飲み干してしまうと。更に侵入して脊椎へ触れ、これも例外なく溶融させてしまう。
結果、『バベル』の指はノーラの胸を貫通し、ノーラは胸にぽっかりとした穴を空けられてしまった。
心肺という致命的な器官を失ったものの、ノーラは声一つ上げなかった。胸部の神経は定義崩壊によって機能不全に陥っており、痛覚を初めとしたあらゆる感覚が遮断されてしまっている。おまけに、心身に重く[rb:伸>の]]しかかる疲労によって、感受性が鉛のように鈍くなってしまい、激痛のような劇的な刺激がない限りは感情が暴れ回りそうにない。現にノーラは、自身の惨状を目にして、双眸をギュッと収縮させるに留まっていた。
その鈍い感受性こそが、消えゆく命の灯火を物語っているのかも知れない。
「アハァーッハッハッハッハァッ!」
亜空間に浮かぶ"パープルコート"の拠点では、ヘイグマンが基地全体を揺るがすような哄笑を上げている。
「遂に! 遂に! 遂に!
妬ましき戦乙女を! いや…!」
ブンブンと首を左右に振り、そしてこう言い直す。
「凛々しく! 美しく! 気高く! そして絶対の権利を持つ女神をッ!
権利からあぶれた雄の身であるこの私がッ!
ここに、仕留めてやったぞおおぉぉっ!」
その絶叫に同調した『バベル』は、痙攣するような大仰な動きでノーラを貫く指を振るい、彼女の体をズルリと引き抜いて投げ飛ばす。
ノーラの体は風に舞う紙切れのようにフニャリと手足を脱力させたまま、ピクリとも動かずに、抉れた大地にビダンッ! と叩きつけられる。
瞳孔の収縮した翠色の眼は瞬きもせず、ぼんやりとした陰をまとった視線で『バベル』を見上げたまま、動かない。
ノーラは無惨にも、無力化された。




