Tank! - Part 3
◆ ◆ ◆
こうして、ノーラの本日3度目の歯車の狂い――2度目の起床時間がやってくる。
「…んうぅ…」
微睡みの色の濃い、間の抜けた声を上げながら、重い瞼をゆっくり持ち上げる。ぼんやりした視界の中には、薄手のカーテン越しに高く上った太陽の光で照らされた寝室が映る。
「…ふぁあ~…」
上体を起こしながら、両腕を思いっきり伸ばしつつ、大きな欠伸をする。途端に滲み出す涙を人差し指でコシコシと拭い取ると、何をするでなく寝室をぼんやりと見渡す。
「流石に…もう、だいぶ明るいなぁ…」
独りごちた後、もう一度大きく「ふぁ~」と欠伸する。本日2度目の睡眠を経ながらも、まだ睡魔が頭の中から消えていない。
(自然と目が覚めるというのは、身体が十分な睡眠を取ったから…って聞いたことがあるけど…。
それって、嘘なのかも…全然、スッキリした感じがしないし…。
朝に寝るなんて、おかしな生活リズムを取った所為かなぁ…)
そんなことをぼんやりと思いながら、フラフラと首を左右に巡らし、目覚まし時計の姿を探す。
アラームが鳴るより早く目覚めた(と、ノーラは思っている)ので、極々普通の感覚で今が何時なのか、知りたくなったのだ。万が一、予定よりかなり早い時刻ならば、まだまだ眠気が強いので寝直そうとも考えていた。
いつもならば目覚まし時計が置かれているサイドテーブルを真っ先に見たが、ぞんざいに放置されたナビットしか見あたらず、小首を傾げる。何処へ置いたんだっけか、と入眠前の記憶を探るが、強すぎた睡魔のために記憶がグニャグニャと曖昧になっており、なかなか思い出すことが出来ない。
そんな時、何気なくベッドの中の足をモゾモゾ動かしたところ、コツンと堅い物に当たる感覚を得る。まさか、と思いベッドの掛け布団をノソノソとめくると…うつ伏せに倒れた目的物を見つけた。
「…そういえば…アラームをセットして、そのまま寝ちゃったんだっけ…」
目覚まし時計の姿を目にすると同時に、曖昧になっていた記憶がハッキリと輪郭を得たので、ノーラは状況に納得して呟く。
さて、目覚まし時計を拾い上げて文字盤に視線を向けると…。
「…あれ…?」
重たい瞼が垂れ下がる眼を怪訝そうに細め、絶句する。
文字盤が差している時刻は、13時過ぎ。起床予定時刻より早いどころか――盛大に、寝過ごしている。
「…うそぉ…」
脱力し切った気怠い声を上げながら、今度はサイドテーブルに向き直り、目覚まし時計と引き替えにナビットを取り上げる。ナビットには学園独自の通信プロトコルでキッチリと同期が取られた、正確な時刻が反映されている。念のために、この時刻を参照しようというワケだ。
待機モードに入り、真っ暗になったディスプレイにタッチして、ナビットのシステムを起動させる。青みがかった黒一色のデフォルト壁紙を背景に、さまざまな機能のアイコンやら情報やらが数多く、しかしながら見やすいレイアウトで表示される。目的の現在時刻は、この画面の右上端にある。
「………」
瞼の下がった眼でこれを見やった直後、ノーラは絶句して固まる。――ナビットが指し示す現時刻もまた、目覚まし時計と全く同一の、13時過ぎ。
ここに至って、ノーラはようやく目覚まし時計のアラームのスイッチを見やり…オフの状態のままになっているのを確認すると。
「…はぁー…やっちゃったんだ…」
深い、深い溜息を吐いて、ガックリと肩を落とす。
乱れた生活リズムを正すため、13時から開始される3時限目の授業に出席しようとしていた計画は、これでもうご破算になってしまった。
とは言え、リズムを取り返す手段を全く失ったワケではない。遅刻にはなるが、今からでも3時限目に出席することはできる。遅刻が嫌ならば、4時限目に出席すれば、なんとか学園生活を送ったように体裁は整えられる。
普段のノーラならば、生真面目にこのどちらかの手段を取るところであろうが…気怠い睡魔と疲労感に捕らわれている今の彼女には、どちらの手段も取る気になれない。
(…もう…いいや…
予定も滅茶苦茶になったことだし…今日はもう、諦める…)
ノーラは重い瞼の下で、ムッと不愉快そうに顔をしかめると。先程はだけたばかりの掛け布団をガバリと被り、冬眠に入るイモムシの如くベッドに倒れ込んで体を丸める。
優等生の名をかなぐり捨て、学園入学以来初めて、平日丸一日をぐーたらに過ごすことを決めた瞬間であった。
幸いにもユーテリアは必須授業の全くない、完全自由な学習風土のため、今回のノーラの態度が問題視されることはない。
さて、3度目の睡眠を貪るため目を閉じ、ベッド内の穏やかな暖気にウトウトし始めた頃のこと…。
ピピピピピッ! 甲高い電子音と共に、ヴヴヴヴヴ、と云うバイブレーションの音が、弛みきった鼓膜を鋭く突き刺す。ナビットの通信コール音だ。
あまりにも無機質で無粋な騒音は、穏やかな安眠の無心へと踏み込みかけていたノーラの心を、トゲトゲしい不機嫌に染める。睡魔で重い瞼を吊り上げ、険のあるジト目を作ると、はぁー、と大きな苛立ちのため息を吐く。
(…今日はホントに、何から何まで、歯車が噛み合わないなぁ…)
このままナビットを無視して不貞寝してしまおうか、という選択肢が思考を過ぎる。しかし、ノーラはこの提案に喜んで飛びつくほどには、ぐーたらになりきれなかった。もう一度嘆息しながらもモソモソと状態を起こし、サイドテーブルに向き直ってナビットに手を伸ばす。
デフォルト壁紙が寒々しいナビットのディスプレイには、連絡相手の名前が丸文字フォントで表示されている。その相手の名は…ロイ・ファーブニルだ。
「…あれ、ロイ君…?
何の用だろ…?」
連絡相手が、昨日命を賭した混乱を共に乗り越えた仲間であることを知ると、ノーラの胸中の苛立ちがスーッと消えてゆく。代わりに純粋な疑問符が頭の上に浮かび、彼女は小首を傾げつつ、通信受諾のボタンを押す。
直後、ナビットのディスプレイからホログラムが飛び出し、宙に3D映像を描画する。そこに表示された光景は…星撒部の部室である第436号講義室の教壇周辺と、それを背にしてデカデカと映るロイの姿だ。
「おっ、出た出た!
よっ、ノーラ!」
ロイはくだけた敬礼をするような動作で挨拶しながら、昼の太陽にも負けない輝く笑みをニカッと浮かべる。
…が、その直後。彼の金色の瞳がノーラの姿をしっかりと映した瞬間、彼の顔が申し訳なさそうに曇る。
「ありゃ、寝てるところを起こしちまったみたいだな。悪ぃ、悪ぃ。
そうだよな…昨日は夜遅かったし、ノーラは後片づけまで手伝ってたもんな…。初日からあんな仕事で走り回る羽目にもなったし、疲れちまうのは当然だよな…」
そう語るロイもまた、ノーラとほぼ同等の――いや、それ以上の働きを成し遂げていたというのに、彼女と違って疲労を全く見せず、ピンピンしている。彼がスタミナの化け物なだけなのか、それとも星撒部の環境が彼を鍛え抜いた結果なのか。
理由はどうあれ、完全にダウンしてしまったノーラには、ロイの姿が逞しく映ると共に、自身のひ弱さに恥ずかしさがこみ上げてくる。思わず頬がつり上がり、肩身狭そうな苦笑がニヘッと浮かんでしまった。
「うん…昨日から生活のリズムが狂いっぱなしで…正直、疲れが抜けないんだ…。
情けない話だよね…」
「そんな事ねーよ。いきなり天使だの士師だの相手にすりゃ、大抵のヤツは身体ぶっ壊しちまうさ。
そこを眠い程度で済むンだから、ノーラは十分スゲェよ」
「…そうかな…ただ、ぐーたらなだけだよ…」
謙遜してみせるものの、歴戦のロイに褒められて悪い気はしない。ノーラの笑みから苦みが消える。
…が、すぐにノーラは笑みを消すと、代わりに疑問符を浮かべる。
「ところで、ロイ君…私に、何の用なのかな…?」
その問いを耳にしたロイは、苦笑を浮かべて頭の後ろをポリポリと掻く。その仕草にノーラの疑問符はますます大きくなり、眉間に皺が寄る。
「…やっぱ、忘れちまってたか…」
ロイがそう前置きを呟くと、ノーラはムムッと眉間の皺を更に深くして、腕を組んで首を傾げる。何を忘れているというのか、思い返そうとするが…どうしても、思い当たらない。
それでも降参せずに粘るノーラであるが、彼女が答えに行き着くのを待たずにロイが正解を語る。
「昨日の打ち上げの時、副部長が言ってたぜ。今日の13時から部室に集合するってな。
今日の部活は、午後から戦災孤児の収容施設に慰問だぜ。そのために、ノーラも昨日、折り紙を作っただろ?」
こう言われてようやく、ノーラは「あっ」と声を上げ、気怠さの中に埋もれてしまった記憶を掘り起こす。
――そうだ! 打ち上げの際、確かに渚は言っていた! 「13時に部室に集合じゃからな! 夜更かししたと言えども、くれぐれも寝過ごすでないぞ!」と!
ノーラの瞼から、鉛の睡魔が一気に吹き飛ぶ。ぐーたら気分が一変、強烈な焦燥が身を焦がし、冷たい汗がブワリと全身から吹き出す。
「ご、ごめんなさい!」
ノーラはベッドの上で座したまま、慌てて深々と腰を折り曲げて謝罪する。
「みんなのこと、待たせちゃってるよね…? 迷惑掛けちゃってるよね…?
渚先輩、カンカンに怒ってるよね…?」
身を引き起こしたノーラは、オロオロと落ち着かぬ潤んだ瞳でロイを見つめながら、早口で訴える。するとロイは、手をヒラヒラ振りながら、ニカッと笑う。
「そんなに慌てんなって。
確かに、オレたちは部室で待ってるけどさ、別に迷惑だなんて思ってないぜ。まったりさせてもらってるトコさ。
それに…言い出しっぺの副部長も、まだ部室に来てないんだよ。蒼治とアリエッタが連絡入れてるんだけどさ、全然出ねーんだよなぁ。
副部長も案外、爆睡してるんじゃねーかなぁ…。あの人、結構いい加減なトコあるからな」
「そうなんだ…」
渚のことを知り、ほっと安堵した顔を作るノーラであったが…そこへロイは、笑みを消して真剣な表情を作ると、カメラに顔をズイッと寄せて、堅い口調で語る。
「でも、あんまりゆっくりしない方がいいぜ。副部長のことだから、ノーラの方が遅かったら、自分のことを棚に上げてグチグチ文句言いそうだからな。
急ぎまくる必要はないと思うけどさ、なるべく早いに越したことはないってことさ」
「うん…分かったよ。
こっちはもう、遅刻してる身だからね…すぐにそっちに向かうよ」
ノーランも真剣な表情を作り、コクリとゆっくり頷いてみせる。
その直後、ロイはふと表情を和らげる。
「そういえば、起きたばっかりなんだよな? ってことは、まだメシ食ってないんだろ?
良かったら、オレと一緒に学食に行くか? オレ、昼飯は食ったけど、デザートくらいなら…」
そこまで語った、その瞬間。ディスプレイ上のロイの姿がグイッと隅に追い込まれる。変わりにディスプレイの中央にデデンと現れたのは、頭からキツネの耳を生やした、スポーティにしてグラマラスな体格の少女、ナミト・ヴァーグナである。
突如出現したナミトは、カメラに思いきっり顔を近寄せると、ブラウンの瞳をキラキラ輝かせて、興奮した声を上げる。
「おおっ! ノーラちゃんのパジャマ姿だ! カッワイイ~!
ホラ、紫ぃ~! 霧の優等生ちゃんの寝起き姿だよ! レアでしょ、レア!」
すると、ナミトの顔と画面端の合間から、ピョコリと紫の顔が現れる。初めは何気ない無表情を浮かべていた彼女だが、すぐに陰を帯びたイヤらしい笑みを浮かべる。
「ほほぉ~。確かに、優等生ちゃんのお寝坊姿なんて、レアだねぇ。
ボサボサになった髪型なんて、ライオンみたいでとっても可愛いよ~」
そう言及されて、ノーラはハッとなると、急いでナビットのディスプレイの端っこに自身が映ったワイプを表示させる。そこには、紫が指摘する通り、薄紫の地毛がモッフリと持ち上がった髪型を乗せた自分の顔があった。
(私…こんなみっともない顔を、ロイ君に見せちゃったの…!?)
火が吹き出るほどの羞恥の熱で、顔面が一瞬にして真っ赤になる。
一方、画面の向こう側ではロイがナミトを押しやりながら、「いきなり出てくんなよ!」と文句をぶつけている。
再びディスプレイを占領したロイが、ノーラに視線を向けると…彼の金色の瞳が、点になる。ノーラが急いで毛布を頭に被り、幽霊のような有様になっていたからだ。
「…何してんだ、ノーラ?」
純粋にきょとんとして尋ねてくる、ロイ。彼は乙女心などといった、人の抱く雰囲気に極めて鈍感のようだ。
ノーラは毛布の下でブンブンと頭を左右に振り、「な、なんでもないけど…!」と前置きしてから、先にロイが言い掛けた誘いへの返答を口にする。
「だ、大丈夫。朝食…あ、もう、お昼か…ともかく、ご飯は作り置きしてるから、食べてから出るよ。
誘ってくれて、ありがとうね…」
「へぇー、ノーラは自炊してンのか。スゲーなぁ。オレなんて、生ゴミしか作れないから、学食に頼りっぱなしだぜ」
「え、別に、大したことじゃないよ、簡単なのしか作らないし…」
ロイの褒め言葉は、彼自身にしてみれば特に他意のない、純粋な賞賛に過ぎなかっただろう。しかし、羞恥の炎に焼かれる今のノーラには、顔の火照りを更に煽る油である。
もはや、毛布程度ではこの炎を抑え込むのは不可能だ。
「あ…そ、それじゃあ、早くそっちに行かないといけないから、そろそろ通信を切るね。
連絡してくれて、ありがとう…また、後で!」
「ああ。そんじゃ、部室で待ってるぜ。
副部長の方が早く来ないよう、祈っといてやるよ」
ロイが手を挙げて挨拶したのを確認した直後、ノーラは嵐のような勢いでナビットの通信切断ボタンを押し、3Dディスプレイを消滅させる。
ナビットが沈黙し切ったのを、たっぷり数秒かけて確認した後…ノーラは毛布を被ったままベッドに転がると。
「うわあああああああっ!」
叫びながら、ゴロゴロゴロゴロとベッドの上を左右に転がりまくる。こうでもして発散しないと、体内で膨らみに膨らんだ羞恥で顔が爆発してしまいそうだ。
星撒部に所属する前までのノーラであったならば、別に誰に寝起き姿を見られようが、気にしなかったかも知れない。自分がどんな風に評価されるか、ましてや異性にどう思われるかなど、全く興味がなかったのだから。だが、希望と共に諸々の欲を抱くようになってしまった今、人目――特に異性の目が、気になって仕方がない。
とは言え、この有様を見られた相手が大和やイェルグだったならば、ここまで騒ぐこともなかっただろう。しかしどうにも、ロイが相手となると、自分を無難以上に見せたくなってしまう。
その感情の根本は一体何か、ノーラ自身もよく分からないが…ともかく、今は火を吹く羞恥を振り払うので精一杯だ。
たっぷり数分の間、騒ぎ続けていたノーラであったが。やがてようやく、いつまでもこうしていても仕方がないと達観すると、溜息に羞恥の炎を乗せて身体から吐き出す。騒ぎ暴れたお陰で鉛の睡魔から完全に解放された今、ムクリと身体を起こすとキビキビと登校の準備に取りかかる。
真っ先に取り組んだのは、髪型の手入れだ。羞恥を吐き出したとは言え、やはり心の片隅では未だに凝りが残っていたようだ。丁寧に櫛をかけながらドライヤーの風を当てた後、大きめの黄色いリボンで後ろ髪をまとめ上げ、普段通りのショートポニーテールを作る。
続いてキッチンに飛び込むと、冷蔵庫を開いて朝食――いや、昼食に取りかかる。
ロイとの通話の際に語った通り、ノーラは平日のランチ以外は、自炊で食事を賄っている。忙しい朝は流石に調理はしないが、作り置きを駆使してバランスの良い食事の摂取を心がけている。
彼女が自炊をしているのは、学食よりも安上がりで済むからだ。希望を抱いていなかった時分においては、故郷から仕送りを受けるのがひどく心苦しいかったので、なるべく節約を心がけていたいたのである。
…とは言うものの、ユーテリアの学生は余程の豪遊でもしない限り、生活費に困ることはない。というのは、学園は毎月、生徒達に生活費を支給しているからだ。課外活動による遠征費用などで万が一にも支給金が底をついた場合でも、正当な理由と成果を示すことで、学園から追加資金を支給してもらうことも出来る。尤も、学園を納得させられない理由で生活費が底をついた場合は、仕送りを受けたり、アルバイトなどで稼がねばならない。
ノーラの場合、節約生活のお陰でかなりの貯金を有しているが、それでも安心せずに節約に勤しんでいるのは生来の生真面目さゆえであろう。
ユーテリアの生徒達の金銭事情はともかくとして。
ノーラが食材とタッパーが整然と並ぶ冷蔵庫から取り出した食品は、食パン、チーズ、トマトにレタスに厚切りのハム、そしてアボカドのディップを絡めて作った作り置きのサラダだ。この内、サラダ以外の素材は手早くホットサンドイッチへと調理し、ミルクを注いだグラスと共にテーブルに並べると、洒落たランチの出来上がりである。
これらに口を付ける前に、ノーラは閉め切ったままだった薄手のカーテンを、シャラララ、とカーテンレールを走らす大きな音を立てながら全開にする。カーテンの向こうから現れた、透明度の高いガラス窓の向こうには、高く登った昼の太陽に燦々と照らされた、芸術品のように美しい学生居住地区の街並みが広がっている。
瞳を洗うような光景を楽しみながら、熱々のホットサンドイッチを頬張る。カリッ、サクッ、とした心地よい触感と共に、新鮮な野菜の風味が口の中一杯に広がると、思考の片隅にしつこく残っていた睡魔の残滓が跡形もなく消えてゆく。
自作ながらも、大いに舌鼓を打つランチを堪能し終えると。今度はキビキビとパジャマを脱ぎ捨て、クローゼットから制服を取り出して素早く身につける。脱いだパジャマは制服と入れ替わりにクローゼットへ仕舞い込むと、外観の準備は完了だ。
食器類は洗っている暇が惜しいので、水を張ったタライの中に付け込み、今夜処理することにする。
あとは、ナビットを制服のポケットに仕舞い込み、財布やその他諸々が常に収納されたカバンを肩にかければ、登校準備の一切が完了だ。
朝一に登校した時ほどの勢いではないものの、部室で待つ仲間たちと早く合流するべく、足早に自室を後にして、陽光に満ちる午後の街並みへと飛び出す。
ポータルまでの道中では、深夜や早朝の時分とは違い、ノーランはノーラはかなりの数の人々とすれ違った。
人々の内訳には、もちろん、学園の生徒が多分に含まれている。しかし意外だったのは、生徒達とほぼ同数の一般住民の姿があったことだ。
そのうち、私服を身につけた人々は散歩の人々や観光客であろうと即座に納得できる。だが、スーツを着込んだビジネスマンの姿もかなり見かけることについては、どうにも納得の行く解答が見つけられない。彼らが生徒相手に一体、どんな業務を行おうというのか、サッパリ分からないのだ。
(…単なるサボリの営業マン…にしては、背筋がピンとしてるし…。
あ、でも…背筋がピンとしてるからって、サボってない証拠にはならないか…)
考えて込んでみるのも面白そうではあったが、今はそんな余興に時間を費やしている場合ではない。取り留めのない疑問は頭の片隅へと追いやり、まっすぐにポータルを目指す。
ポータルを経由して学園本校舎のエントランスに到着すると、早朝とは大分様子が異なり、多くの生徒の姿を見かける。普段は全日授業を入れているノーラには、授業時間中にこれほど多くの生徒達が彷徨いたり談笑したりしている姿を目にするのは、非常に新鮮な光景であった。
いや、この光景こそが、生徒の完全自由を認めているユーテリアにおける、特有にして普遍的な日常風景なのであろう。
しかし、この光景の一員となることに慣れていないノーラは、妙な気後れを感じてしまって仕方がない。この感覚から逃れるべく、星撒部の部室である第436号講義室へと足早に向かう。
階を上がる時にはエレベーターを使ったが、休み時間のような混雑は全くなく、また同乗者もいなかったため、スムーズに地上4階にたどり着く。そこから目的の教室までは、ほんの数分歩くだけで済んだ。
「遅れてしまって…すみません…!」
謝罪を口にしながら、教室の引き戸をガラガラと開くと。そこには数グループに分かれてそれぞれ談笑していた、部員たちの姿がある。彼らはノーラの登場を受けて一斉に顔を向けると、口々に挨拶を語る。
その中で特にトゲトゲしかった挨拶は、わざわざノーラの目の前で近寄って、ニヤニヤと陰を帯びた揶揄を浮かべた紫のものだ。
「"おそようございます"、霧の優等生ちゃん。
斬新なライオン・ヘアスタイルは止めちゃったんですか? 残念ー」
「…相川さん、お願いですから…あれは見なかったことにして下さい…」
ノーラは思わず俯き、プルプルと羞恥に震えながら、消え入りそうな声で訴える。再び顔が真っ赤に火照りそうだ。
その様子に紫は更にニンマリと笑みを大きくし、口に手をあててプププと笑い声を上げると…突如、ゴツンと云う音と共に彼女の頭が引っ込む。
何事かと見れば、彼女の隣に立つロイが、軽く握った拳で頭を叩いたのだ。
「な、何すんのよ、レディに向かって! DVよ、DV! 学生生活課に訴えてやる!」
小さな涙粒を浮かべながらロイを睨み見上げる紫だが、ロイは悪びれもせず堂々と腕を組み、彼女をジロリと半眼で見下す。
「今のオレの行動がDVなら、さっきのオマエの物言いはイジメだろ。
からかってンの分かるけどよ、相手がイヤがるやり方はダメだろ」
至極真っ当な正論を言われて、紫は悔しげにロイを睨み返していたが…それからチラチラと視線だけで周囲を見渡し、視界の端にアリエッタを見つけると、彼女に向かってワッと飛びつく。
「あらあら、紫ちゃん。どうしたのかしら?」
「うわぁぁぁん、アリエッタ先輩! ロイのヤツが、あの暴力男が、私に残酷無比に殴るんですぅ!」
「あらあら、それは大変ね。よしよし」
アリエッタはのほほんとした笑みを浮かべながら、豊かな胸の内に顔をうずめた紫の頭を撫でてやる。が、ロイを非難する行為――恐らくは、紫がアリエッタに望んでいた行為だ――は、絶対に行わない。彼女もまた、ロイの正論には納得しているようだ。自らの企みがうまい方向に進まなかった紫は、アリエッタの胸の中で悲しむ芝居をかなぐり捨てると、ちぃっ、と感じの悪い舌打ちをするのだった。
入室早々の賑やかな光景を目にしたノーラは、紫によって想起させられた羞恥をポイッと捨てて、フフフ、と思わず小さく笑う。
やはり、星撒部は暖かくて、居心地が良い。
それはそうと…ノーラは部室をキョロキョロと見回し、副部長の立花渚を探す。しかし、その姿はどこにも見あたらない。
「あれ…渚先輩は、まだ来てないんだ…?」
その質問に対しては、講義室のほぼ中央で蒼治と眉をひそめ合っていたヴァネッサが答える。
「ほんのついさっき、ノーラさんがここに顔を見せる直前に、ようやく連絡がついたんですのよ。
物凄い慌てぶりで、会話も成り立ちませんでしたわ。今頃、こちらに向かってるところでしょうけど、あの娘の寮はかなり遠いですからね。ここに来るまでは、かなり時間がかかると思いますわ」
「いや、それはどうだろうな」
ヴァネッサの隣で、ぼんやりした顔で折り紙で作った鞠を弄ぶイェルグが言葉を挟む。
「あいつはやるとなると、手段問わずに最速の暴走っぷりで突っ走るからな。
案外、ソッコーでここに来るかも知れないぜ」
その言葉を言い終えたかどうかとタイミングで、ノーラの入ってきた扉がガラガラと音を立てて開く。正に、噂をすればなんとやら、というヤツだろう。予想が的中したイェルグは、ちょっと得意げに肩をすくめて、"ホラ、言ったとおりだろう?"と言わんばかりである。
しかし…妙に落ち着いた手つきで開かれた扉の向こうから現れたのは――イェルグの予想に反する存在。小柄な渚とは正反対の、岩山のようにも見える巨躯をした男である。
手入れがされているようには見えない、ボサボサとしたクセのあるライトブラウンの髪。無精髭を生やした巌を削り出したような、しかしどことなく穏やかさを含む中年男性の顔立ち。そして何より目立つのは、使い込まれてヨレヨレになった白衣越しにも分かる、まさに岩山のごとき筋骨隆々とした巨躯だ。肩幅が巨木のように広ければ、背丈も優に190センチを越える。
男は入室直後、黒々とした瞳を点にしてキョトンと部屋中に視線を巡らすと。安定感と重量感を兼ね備えた低い声に困惑を交えて、発言する。
「おりょ、なんだよ、お前ら。もう出発してるんじゃなかったのかよ?」
対して、蒼治が苦笑いを浮かべて、青みがかった黒髪を湛えた己の頭を撫でながら答える。
「そのはずだったんですけどね…言い出した張本人の渚のヤツが、まだこっちに来てなくてですね。今はみんなで待ちの状態なんですよ」
「おいおい、このまま4時限目まで講義室を占領したりしないだろうな?
こちとら、授業しなきゃならない身なんだからよ」
「それは…流石に大丈夫だと思います。
渚のヤツとは、今さっき連絡が取れましたから。すぐに来るはずです…多分」
「全く…あいつときたら、"終わり良ければ全て良し"ってのも分からんでもないがよ、もうちょっと始まりに気を使ってもバチは当たらねぇだろ。
顧問として、一度ガツンと言ってやらなきゃならんのかねぇ」
男はゾリゾリと無精髭を撫でながら、眉をひそめて語るのであった。
蒼治との会話の様子を見る限り、この男――"授業をする"と言っていたので、教官のようだ――と星撒部の部員たちは顔見知りであるようだ。実際、彼の登場に困惑を見せる部員の姿はない。…ただ一人、ノーラを除いて、だが。
(…この人、誰なんだろ?)
そんな疑問を顔に描いて男を眺めていると、視線に気づいた男はノーラに向き直ると、ニィッと笑みを張り付けて歩み寄ってくる。
「おーおー、君が話に聞く新入部員ちゃんか。
なるほどなるほど、この部活にゃ別嬪ばかりが集まってくる、って言う大和の言葉も、あながち的外れじゃねーんだな」
そしてノーラのすぐ目の前に、頑強な壁のような様子で立ちふさがると、ノーラの頭を一掴みできそうなほどに大きな手を延ばし、握手を求める。
「おっと、自己紹介するぜ。
オレは、ヴェズ・ガードナー。星撒部の顧問教官さ。
専攻は心理学だが、大抵は準生徒の基礎教養の世話やったり、スカウトで走り回ってるからな、一般生徒向けの授業はあんまりやってねぇんだ。
まっ、たまーに授業開いてる時は、暇潰しに出席してくれよ。オレ、生徒評価は甘々だから、気前よく成績点をやるぜ」
「ヴェズ先生、ですね。
初めまして…ノーラ・ストラヴァリです。これから、お世話になります」
そう応えてヴェズの無骨な手を取ると、ヴェズはちょっと痛いほどの力を込めてしっかりと握り返し、ニィッと満面の笑顔をたたえてブンブンと腕を振る。
「任せとけ、任せとけ。この1年で、問題の扱いはすっかり慣れたからな! 思いっきり暴れちゃってくれて、構わねぇぜ!
…それにしても、年度末も近いこの時期に入部たぁ、変わってんなぁ! バウアーも居ねぇし、渚が暴走しっ放しだってのに、よく所属する気になれたもんだ!」
「は、はい…。この部の雰囲気が、すごく気に入ったので、是非とも入部したくなったんです…」
ヴェズの豪快さに気圧されながらオズオズと語り返すと、ヴェズが「そうか、そうか!」と頷きながら、バンバンと背中を叩いてくる。結構痛いので、ノーラは衝撃に襲われる度に眉をひそめる。
心理学なんて繊細な分野の専門家とは、とても思えない気質だ。鍛え抜かれた巨躯と合わせて見ると、どう見ても戦闘実技系の教官としか思えない。
(なんていうか…この部にして、この顧問教官あり…って感じだなぁ…)
ノーラが密やかに苦笑を浮かべた頃、ヴェズははね飛ばすような勢いでノーラを解放すると、再び蒼治達の方へと向き直る。
「そんじゃ…オレは予定通り、授業の準備するからな。
お前らは、4時限目始まる前に、サッサと出掛けてくれよ。
くれぐれも! 以前みたいに、授業に同席するなんてことは、絶対避けてくれ!
今回の授業に出席する準生徒にゃ、小さい子が居るんだからな。多感な年頃の子には、お前らみたいな歩いて喋る有害物質は刺激が強すぎる」
顧問が受け持ちの生徒に語る台詞としてはあまりに散々なものであったので、言葉を向けられた蒼治はただただ苦笑を浮かべるしかできなかった。
一方で、散々な台詞にも動じず、普段通りに穏やかなニコニコ顔をしているアリエッタが質問を挟む。
「先生、小さい子の準生徒とおっしゃいましたが、どれくらいのお年の子なんですか?
中学校1年生くらいでしょうか?」
「いやいや、9歳だよ。地球の標準的な教育制度で言えば、小学生だな」
「小学生!? わぁお! その子、よっぽど優秀なんですねぇ!」
ナミトがキツネのしっぽをフリフリと振りながら歓声を上げると、ヴェズは得意そうに荒い鼻息を吐き、丸太のような腕を組んで語る。
「その通り! 磨けば最高の宝石になること間違い無しの、天才的素材さ! この学園の歴史に残るだろうよ!
そんな逸材をスカウトしたのは、何を隠そう、このオレなんだぜ!」
そんな風に得意げに鼻を高くして見せると、毒舌家の紫が黙っているワケがない。顧問の教官だろうと全く引け目を感じることなく、ニヤリと陰を帯びた嫌みったらしい笑みを浮かべる。
「先生、独身こじらせて、ついにロリコンに走ったんですか。
ご愁傷様です、先生にはのぼせ上がった頭を冷たく冷やしてくれるブタ箱がご用意されます」
しかし、さすがは顧問の教官。そんな紫の性格を把握しきっているようで、苛立ちを見せるどころか、余裕綽々で笑い飛ばす。
「生憎と、オレの恋愛対象は20代後半以上だからな。
ロリコンなんざ、想像するだに寒気がするっつーの」
そしてヴェズは白衣を翻しながら踵を返すと、教壇の背後にある電子黒板の隣にある、一見すると壁と一体化して見える扉へと向かう。扉の先は、この第436号講義室の準備室につながっている。
この第436号講義室は、他の教室に比べると面積が狭い。というのは、主に準生徒たちのための教養授業を行う場として利用されているからだ。準備室には、教養授業のために使われる、小学校などでよくみかける授業用小道具が一式揃っている。
ちなみに、星撒部の備品も、この準備室の一画に保存させてもらっている。
ヴェズは部員たちに背を向けたまま、右手を挙げてこの場を去る挨拶とし、そのまま準備室へと姿を消す。
こうして強烈な存在感を纏った人物が去った――その、ほんの数瞬後のことだ。
突如、ガラッ! っと激しい音を立てて講義室の扉が開いたと思うと。ヴェズと入れ替わるように、ハチミツ色に輝く髪をたなびかせながら、1人の少女が「とおおおりゃあああっ!」と叫びながら飛び込んで来る。
飛び込んできた勢いのまま、即座に教壇に立ったその少女の正体は――もちろん、星撒部の副部長の立花渚である。
「ふまぬ、みひゃのひゅーっ! まひゃしぇてしもうたなっ!」
声がくぐもり、聞き取り辛い言葉遣いになっているのは、彼女が手にした弁当を口にかっこみながら喋った所為だ。
「謝るか、食べるか、どっちかにしてくれよ…」
蒼治が溜息混じりに突っ込みを入れると。渚は、うむ、と大きく首を縦に振り…弁当を平らげることに集中し出す。それを見て、蒼治は今度は苦笑する。
「食べる方を取るのか…」
「ひゃっへ、まひゃメヒをくっへないのじゃもの!」
口の中から食べ物の飛沫をバラ撒きながら訴える渚の有様に、蒼治は呆れた様子でヒラヒラと手を振る。
「良いから、分かったから…零しながら喋らなくていいから、ゆっくり食べてくれよ…」
蒼治には"ゆっくり"と言われたものの、渚は掃除機のような勢いで弁当の中身を見る見るうちに平らげてゆく。そんな勢いで食べてお腹がおかしくならないのかと、ノーラが心配そうに見守っていたが…チラリと他の部員達へ視線をやると、彼らは微塵も心配の気配を感じさせず、各々手近にいる部員たちとの談笑を始めていた。こんな渚の有様は見慣れたものなのか、それとも渚ならば絶対に大丈夫だという確信でもあるのだろう。
数分後、暇を持て余す時間に終わりを告げるように、パァン! と渚が威勢良く割り箸を持った手を叩く。
「ごちそうさま!
うむ、やはり本校舎購買部の弁当は、いい仕事をしておるな!」
プラスチック製の容器をベキベキと折り畳み、教壇脇のゴミ箱に叩き込む。そして部員たちの方に向き直ると…ニヘラ、っと気恥ずかしそうな笑みを浮かべて、後頭部を掻く。
「いやぁ、皆の衆、ホントに済まぬのう!
昨晩の打ち上げの後、自室に帰ってから、バウアーに新入部員の報告がてらの連絡を取ったんじゃがな。時を忘れて話し込んでしもうてな、気がついたら空が明るくなっておったわい!
そこから急いで寝たんじゃが、どうにも起きれなくてのう! 盛大に寝過ごしてしもうたわい!」
「あら、バウアー君と連絡、取れたんですか?」
アリエッタが穏やかな笑顔で尋ねると、渚は満面の笑みを浮かべて大きく首を縦に振る。
「うむ! 丁度、あやつも待機中だったようでな。それに、気心知れた話相手が居らぬ状態で当分過ごしておったからじゃろう、わしとの会話に相当飢えておった様子じゃったわい!
がっつくように、話をしてきおったわい! いやー、あの姿は中々可愛かったのう!」
そう語る渚の姿は、大親友と極上の時間を過ごした幼子のように、ホクホクと上気した顔をしている。バウアーだけでなく、渚もまた、彼との会話に飢えていたようだ。よほど楽しい時間を過ごしたことであろう。
そんな渚の様子を見ていると、ノーラの脳裏にふと、今朝ツェペリン教官の口から語られた話が浮かび上がる。
――出会った当初、2人はウニと毬栗のようにトゲトゲし合っていたという。それが一体、どのような過程を経て、友好的ではとても言い尽くせないような親密な関係を築いたのか。非常に興味がそそられるところではある。
しかし、ノーラがその疑問を口にするより早く、ナミトが言葉を割り込ませる。
「副部長~、準備室にヴェズ先生居るよ~。挨拶してきたらどーですかね~?」
「おっ、顧問教官どのか! 久しく会っておらんかったのう!
どれ、ちょいと挨拶してくるわい!」
そして突風のような勢いで脚を回し、準備室の方へと駆け込む。その後暫く、扉および壁越しに、2人の賑やかなやり取りが聞こえてくる。しかしながら詳細は聞き取れなかったので、ヴェズが先に言っていたように"渚にガツンと言った"かどうかは、不明だ。
数分のやり取りを経て渚が講義室に戻って来た時、表情には全く悪びれた様子も不機嫌さも滲んでいなかったので、特に耳痛い話などはなかったようだ。…それとも、文句は言われたものの、渚が一向に気にしていないだけなのかも知れないが。
ともかく、教官との挨拶も無事に済ませた渚は、意気揚々と教壇に上がると、バンッ! と机を叩く。その音は部活動の幕開けの合図を意味するらしい、部員たちはサササッと手近な席に座る。
ノーラも周りに倣って席に着くと、初めて正式な部員として活動に参加する緊張感が芽生えてくる。思わず背筋をピンと伸ばし、堅く握った拳を膝の上に置いて、渚の顔をまっすぐに見つめる。
「さーて、皆の衆!」
先刻の遅刻に対する気恥ずかしさは何処へやら。渚は溢れんばかりの自信と活気を込めて、元気はつらつとした声を張り上げる。
「今日の活動は、前々から言っておった通り、戦災孤児施設への慰問じゃ!
蒼治よ、折り紙とパーティーグッズ一式は準備出来ておろうな!?」
蒼治は眼鏡を直しながら、呆れた様子で深い溜息を吐く。
「勿論だよ、盛大に寝過ごした何処かの誰かさんと違ってね。
アリエッタとイェルグと一緒に、必要物はキチンと2回チェックしたよ。
…と言うか、なんで僕が荷物係みたいな扱いを受けてるんだ…?」
蒼治の最後の文句は受け流し、渚は満足げに頷く。
「よーし、それでは早速、現地へ出発! …と、その前に、じゃな。
バウアーのヤツから、新入部員歓迎の言葉を預かってきておる。ここで紹介させてもらうぞい」
言うが早いか、渚は早速ナビットを操作し、録画映像の再生の段取りを始める。
渚が準備に勤しんでいる間…ノーラは、初めて目にすることなる星撒部部長、バウアー・シュヴァールという2年生について想いを馳せる。
英雄の卵とも言うべき神童たちが集まるこのユーテリアにおいて"学園最強"候補として名高いのみならず、準生徒期間もなしに編入を成し遂げた、超絶的逸材の姿とは? ノーラの脳裏に描かれるのは、伝説として永きに渡って語り継がれる英雄を模した大理石の石像のごとく、完璧なまでに恵まれた筋骨隆々の体格と精悍な顔立ちを持つ人物であった。
果たして、その想像は的を得ているのだろうか? その答えは、渚のナビットが中空に描いた3Dディスプレイが程なく与えてくれるだろう。
「よーし、準備完了じゃ!
ノーラ、よく見ておくのじゃぞ。こやつこそ、わしらが星撒部を治める男じゃ!」
渚が前口上を述べた直後、ナビット上の再生ボタンを押すと…3Dディスプレイの表示がパッと切り替わり、豊かな色彩に溢れる。
映し出されたのは、金属の銀色に囲まれた、無機質な空間だ。画面の左端にはちょっぴり窓が映っているので、監獄ではない。また、窓に映っているのが漆黒の闇と、ウネウネとした縞模様を描く球体――ガス惑星だ――であることから、この場所がどうやら宙域を航行中の宇宙船であると推測できる。
この光景を背にして、ディスプレイの中央に1人の男子生徒の上半身が映っている。
この男子生徒こそ、バウアー・シュヴァールであるはずだが…その姿を見たノーラは思わずパチパチと数度瞬きをして、「あれ…?」と小さく呟いていた。
先の想像と、実物のバウアー…そのあまりの差異に、困惑を隠せないのだ。
「ノーラ・ストラヴァリ君、初めまして。
我が星撒部の部長、2年D組のバウアー・シュヴァールだ」
岩石のような生真面目さがヒシヒシと伝わってくるような、堅い声音。そのキビキビした口調は、彼が只ならぬ人物であることを伺わせるが…その外観は、ノーラが想像した伝説的英雄の姿とは全く異なる。
上半身しか見えないので、正確な身長は図りかねるが、それでも170センチを超えるかどうか、という程度だろう。体格にはだらしない要素は全く見当たらないが、かと言って制服越しにも分かるような強靱さは感じられない。
顔立ちにしても、さほど迫力は感じられない。ノーラよりも色の濃い褐色の肌色によって、顔の陰影がはっきりせず、少し不気味な感じはする。が、丸みのある輪郭に、クルリとした大きな眼は、ともすれば童顔のようにも見えて、愛嬌すら感じる。
そんなバウアーの外観において、最強とされる実力を窺わせる要素を強いて挙げるとすれば…眼、だ。
今にも炎を噴き出さんばかりの、燃え盛るような真紅の瞳。この色の由来は、血液だ――つまり彼の虹彩は、アルビノのように色素を全く欠いている。それが彼個人の特徴なのか、はたまた彼が所属する人種に共通する特徴なのかは、分からないが。
希有な色を呈するその瞳には、全く真逆の2方向から人の鼓動を揺さぶる輝きが宿っている。"2方向"とはすなわち――善良なる心を暖かく包み込む逞しさや穏やかさを内包した剛力性と、悪しき心を一瞥の元で地べたに這いつくばらせる畏怖や重圧を内包した暴力性だ。数語と言葉を交わしてもいないに関わらず、映像越しでも生々しい説得力を帯びるその輝きに、ノーラは思わず固唾を飲み込む。
立派な目力は認めるが…しかしながら、彼のあまりにもコンパクトな姿は、やはりノーラの疑問符を払拭しきれない。――これが本当に、学園最強の生徒なのだろうか? と。
そんな風にノーラが抱える懸念など知る由もなく、録画の中でバウアーは挨拶の口上を続ける。
「まずは、ノーラさん、学園が抱える数多くの部活の中から、我らの星撒部を選んでくれた事に感謝したい。
そして、我を欠いて歯止めが効かなくなっている渚の暴走にもめげず、入部を決意してくれた君の意志に敬意を表したい。
…それと、蒼治、君がこの映像を見ているのならば、この場を借りて君にも感謝と謝罪の意を伝えたい。渚のブレーキ役のお勤め、実にご苦労だ。まだ当分迷惑をかけることになるが、引き続きよろしく頼む」
バウアーは部長という立場に鼻を高くする事なく、愚直なまでに謙虚な態度で頭を下げる。すると、そこへ…。
「おぬしっ、一言多いぞっ!
この部分はカットしておくからな!」
そんな渚の声が混じり、部員一同――特に蒼治――は、思わず苦笑を浮かべる。そして声の当人たる渚は、3Dディスプレイの隣で少し頬を赤らめ、コホンと咳払いをして気を紛らわせていた。
一方、映像の中のバウアーは渚の文句にニヤリともせず、巌のような堅苦しい表情を保ったまま更に言葉を続ける。
「昨日の件については、渚から子細を聞いた。仮入部の身の上で、大変難儀な想いをしたことだろう。
しかし、この部はその性質上、昨日のような過酷で困難な状況に直面する機会が度々ある。脅すつもりではないが、しっかりと覚悟して欲しい」
この言葉の末尾と共に、バウアーの眼がギラリと輝くと、ノーラは再び固唾を飲まずには居られなくなる。バウアーの目力には、その色彩に頼る以上の、強烈な威圧感がある。
…と、ここまで堅苦しかったバウアーだったが、突如フッとその表情を和らげる。
「とは言え、そんな有事さえなければ、この部は和気藹々としたボランティア活動部だ。様々な人々、様々な環境、様々な仕事、そして個性的な仲間たちとの交流を通して、君の人生がこれまで以上に豊かで輝きに満ちたものになることを、この我が保証しよう。
"希望学園都市"が冠する"希望"を正に体現したこの部の活動を、目一杯楽しんでもらいたい。
…それと…」
そう前置いたバウアーの表情が、再びキリリと引き締まる。そして、堅苦しく一文字に結ばれた唇から割って出た、次なる言葉は…。
「渚の暴走には、くれぐれも染まらないように。ロイのように『暴走君』なんて呼ばれるのは、君にとってあまり好ましいことではないだろう?」
「だーかーらーっ、一言多いんじゃよっ、おぬしはっ!」
再びの渚の突っ込みが映像の中に飛び交うが、バウアーは動じることなく、挨拶の締めを口にする。
「さて…長々とした挨拶は苦手なので、この辺で失礼する。
今度、直接対面した時には、顧問のヴェズ先生も含めて、星撒部全員傘下の歓迎会を改めて開かせていただこう」
最後にバウアーは薄い、しかし春の微風のような穏やかな笑みを浮かべた――その直後、映像が停止する。
「…と、まぁ、以上じゃ。
途中、1、2度戯けたことを言っておったが、気にせずに聞き流してくれい」
そう語りながらナビットを操作し、3Dディスプレイを片づけにかかる、渚。その一方で、ギャラリーの方から2つの声が挙がる。
「いや…その部分こそ、結構重要だろ…。特に、お前に染まるな、ってところはな…」
「そうだぜ! なんでオレがヤバいモノの代表格みたいに、引き合いにだされなきゃならねーんだよ!
今度部長に会ったら、絶対に抗議してやる!」
前者は蒼治の、後者はロイの言葉だ。蒼治の切実さを含む言葉に頬を緩ませたのはノーラだけであったが、直後のロイの言葉には苦笑や嘲笑がクスクスと漏れる。
そんな有様に、ロイは立ち上がって部員たちを見回しては、腕を大きく振りながら抗議する。
「おい、なんだよ皆! なんで納得って態度してんだよっ!
オレは副部長ほど暴れちゃいねーだろ!」
「いや、十分暴れすぎでしょ、『暴走君』」
ニヤリと陰を帯びた笑みを浮かべて、皮肉たっぷりに述べたのは紫だ。そんな彼女の元にロイは詰め寄ると、ギャーギャーと喧しく更なる抗議を口にする。
部室に賑やかな笑いの雰囲気が漂い始めるが…一方で、ノーラは蒼治の言葉に緩めた頬を引き締めると、一人虚空を見つめて眉根に皺を寄せている。そんな様子に気付いた、ナビットを仕舞い終えた渚が声をかける。
「どうしたんじゃ? 何を思い悩んでおる?
…ひょっとして、入部したことを後悔してる…とかでは、ないじゃろうな!?」
机に両手を置いてズイッと顔を寄せ、心底心配げな表情で訴えてくる渚に対し、ノーラは慌ててパタパタと手を振って否定する。
「いえ…思い悩みとか、そんなんじゃないんです…。
ただ、ちょっと…有り体に言えば、疑問があったので…」
「むうぅ?」
「あの…さっきの映像の方って…本当に、バウアー・シュヴァール先輩…なんですよね? 学園で有名になってる、バウアー先輩なんですよね…?
同姓同名の別人とかじゃ、ありませんよね…?」
当人にしてみれば極めて失礼な質問であると自覚している渚は、バツの悪い苦笑いを浮かべながら、怪訝な表情をしている渚に問う。すると渚は、表情の曇りを一気に晴らして、何もかにも心得たような愉快げな面持ちを作る。
「ああ、なるほどのう。あやつの顔を初めて見るヤツは、大抵、そういう疑問を抱くものじゃ。
別に恵まれた体格をしているワケじゃなし、厳つい顔をしてるワケでもなし、目力くらいしか目立つ部分がないからのう。学園最強、なんて飾り言葉には釣り合わなく見えるのじゃろうな。
じゃが、あやつこそ、本物のバウアー・シュヴァールじゃよ。その名を持つ生徒は、このユーテリアにはあやつ1人しか居らぬでな」
「そう、なんですか…」
渚の答えを得ても、ノーラはどうにも疑念が払拭できず、眉根には皺が寄ったままだ。
「あの…こういう事を聞くのは、先輩に悪いのは承知してますけど…やっぱり、訊かせてください。
バウアー先輩って…本当に、噂になるような実力の持ち主なんですか…? 何か偶然のエピソードが誇大に広がってるとかでは、ありませんか…?
それとも…渚先輩の士師だから強いとか、そういう理由だったりしませんか…?」
渚は"解縛の女神"の号を持つ『現女神』である。彼女ならば、魔導科学法則をも超越した『神法を人に授け、強大なる神の使者たる士師を作り出すことが出来る。彼らの実力は昨日、ノーラがその身で痛感している。英雄の卵たるユーテリアの生徒と言えども、勝機を得るのは非常に難しいだろう。
バウアーがそんな存在の列に加わっているのだとすれば、あのコンパクトな外観で学生たちに畏敬を抱かせるに足りる実力を持ち合わせているのも頷けるが…。
「いやいや、それはないわい。
そもそもわしは、先にも言った通り、士師やら信者やらを持たぬ主義じゃからな。
あやつの実力は、正真正銘、あやつ自身の修練によって身に修めたものじゃよ」
渚はパタパタと手を振り、笑いながら答える。
その答えゆえに、更に眉根のしわが深くなったノーラの左肩、渚はポンと右手を乗せる。
「まっ、入部したからには、そのうちあやつの実力を目にする機会が必ず訪れるじゃろう。
その時、度肝を抜かれぬよう、精々気をつけておくことじゃな」
「…そんなに、凄いんですか…バウアー先輩って…?」
小首を傾げるノーラに対し、渚の蒼穹の瞳がギラリと剣呑な輝きを放つ。
「"バケモノ"という言葉は、あやつのためにこそあるの…そう思わずには居られなくなるじゃろうて」
全く冗談を含まぬ眼光と声音に、ノーラは眉根の皺を広げると、ゴクリと固唾を飲む。天使の大群を単身で払いのけて見せた『現女神』の真剣な言葉は、否が応でも説得力を持っている。
そんな会話が一段落した頃…準備室の扉がガタンと音を立てて開き、中から両腕一杯にダンボール箱を抱えたヴェズが現れた。箱の中には地球儀やら丸められた大きな地図や太陽系縮図が入っているところを見ると、彼が4時限目にひらく講義というのは、地球圏環境に関わる授業のようだ。
「あれ、お前ら、まだ居たのかよ?」
そう尋ねながらヴェズは、後ろ足で準備室の扉を閉じて教壇へと向かう。彼の問いに答えるのは、勿論、部の代表格である渚だ。
「バウアーからノーラへ言付けを預かって来ておりましたゆえ、動く前に紹介していたのですじゃ」
渚は教官相手でも、普段の独特の口調を崩すことはないようだ。そしてヴェズの方も、流石には顧問ということでそんな渚には手慣れているようで、変な顔一つせずに応対する。
「へぇー、バウアーか。そういや、最近姿を見てなかったな。
あいつ、今、どこで何してんだ?」
「むうぅ? お話していませんでしたかのう?
あやつは2週間前から、とある異相世界の宙域にて、星域間戦争の仲裁に携わっておりますわい。先方の直々の指名でしたがゆえ、あやつってば、それはもう意気込んで行きましたわい」
そんな渚の台詞に、外野のノーラは思わず目を丸くする。彼女の琴線に触れたのは、"先方の直々の指名"という言葉だ。つまり、バウアーはユーテリアという学園の域を超えて、名が知れ渡っているということを意味するのだから。
拍子抜けな外観をしていたバウアー・シュヴァールの、外観を遙かに超える実力の片鱗が窺い知れる瞬間であった。
…さて、感心するノーラを余所に、ヴェズが渚へ言葉を返す。
「星域間戦争たぁ、また相変わらず面倒臭ぇことに首突っ込んでんだなぁ、あいつは。
それで、いつ頃帰ってくるんだ? 新入部員ほっぽりだしといて、自分の仕事だけ打ち込み続けるようなヤツじゃねぇだろ?」
「むうぅ…一昨日までのあやつの話では、ここ2、3日ほどで仕事が終わるはずじゃったのですが…。
何やら、想定外の面倒が起きてしもうたようで、まだまだ時間がかかりそうとのことなのですじゃ」
「ハッハッ、あいつはホント、面倒に巻き込まれる体質だなぁ!
んで、その想定外の面倒ってのは、何なんだ?」
「むうぅ、それが…戦争の停止を拒む愚かな一派が、余計な工作をしおったそうで。バウアーたちの居る宙域に、宙泳莫獣どもが何匹か向かっておるとのことですじゃ。
バウアーはその対処のため、まだ暫く現場に残ることになりましたのじゃ」
「オ…宙泳莫獣ッスかっ!?」
突如、大和がガタンと席を立ち、その身に火でもついたような狼狽えぶりで言葉を挟む。
彼だけではない。部員の誰もが皆、大小の差異はあってもその表情に狼狽や驚愕を張り付けている。ノーラもまた、オドオドと揺らめく瞳を丸くして狼狽を隠せずにいる。
「そ、そんな規格外の怪物を相手にするなんて、流石の部長でも絶対無理ッスよっ!」
そう叫ぶ大和のみならず、部員たちが危惧を抱くのには、それなりの理由がある。[rb:宙泳莫獣>オケアノス]]とは、宇宙空間を遊泳しながら生活する魔法体質生命体のうち、天文学単位レベルの莫大な体積を持つ種族の総称を指す。その超巨大な体を海洋に見立てて、地球の旧時代の海の神の名がつけられた。
体積がバカデカいというだけでも、有文化星域への接近は驚異になりうる。加えて、惑星や恒星を食することで生命活動を維持しているタイプの個体となると、驚異度は更に高まる。そして、過酷な宇宙空間を自在に動き回れるその魔法体質は非常に堅固にして強靱であり、退治には"相当"という言葉ではとても表現しきれないほどの労力が要求される。
そんな規格外の存在に対して、惑星よりもあまりに小さいサイズのバウアー1人が抵抗勢力に加担したとして、一体どうなるというのか? その問いには、誰の頭中にも絶望的な回答しか想起できない。例えそれが、希望を振り撒く部活動である星撒部の部員であっても、だ。だからこそ大和は、声を荒げたのだ。
…しかし。
「ま、そんなに心配することないじゃろ」
渚は大和の声音に同調することなく、羽虫でも相手にするかのような軽い物言いを口にする。
「時間はかかるじゃろうが、ピンピンして帰ってくるじゃろうよ。
おぬしらは、土産を楽しみに待っているが良いわい」
ヘラヘラ笑いながら語る渚の言葉には、本当に一片の懸念の色も混じっていない。これが演技だとすれば、彼女は余程の役者と言える。そうでないのならば、惑星の幅ほどもあるようなぶ厚い信頼を抱いている、としか言いようがない。
そして顧問のヴェズもまた、生徒の窮地に動じる様子もなく、ほうほう、と頷いてみせるだけだ。
「なるほどな。それにしてもあいつ…呪われてんじゃねぇのか? 学園全生徒の妬みを受けて、とかな」
「妬まれるほど、目立ってはいないように思いますがのう。名前ばかり先行しているような印象ですし」
「まぁ、また連絡する機会があったら、自愛しろよって伝えてくれや。
…ところで、話を振っといてこう言うのもナンだが…お前たちの方は、時間大丈夫なのか? 先方、待たせたりしてないよな?」
そう言われた途端、渚はハッとすると、急いで制服のポケットに仕舞い込んだナビットを取り出して現時刻を確認する。そして、バウアーの話題の最中には全く見せなかった、雷鳴に打たれたような焦燥を顔に張り付ける。
「おわあっ、なんとっ、もうこんな時刻なのかやっ!
先生、慌ただしくてすみませぬが、ここで失礼させてもらいますじゃ!
皆の衆、急ぐぞっ! もう約束の時刻まで、10分も無いわいっ!」
そう話している間にも、渚は背後からキンコン、という澄んだ鐘の音を響かせて、彼女自身の天使を召喚する。体中がベルトや鎖で覆われ、胸元には巨大な錠前が装着された、1対の「翼を持つ無貌の天使が、渚の背後の空中に現れた円から逆さまの格好と登場した。
天使は人差し指を伸ばすと、指した先に中央に大きな鍵穴を持つ両開きの扉が出現する。そこへ、天使が伸ばした人差し指を変形させた鍵を差し込むと、ガチャリという開錠の音と共に純白の光で包まれた回廊が扉の向こうに現れる。
渚は天使の力で開いた回廊を指差して、慌ただしく叫ぶ。
「全員、駆け足で扉に飛び込むのじゃ! 急がんと、先方を待たせてしまうっ!」
「…その主たる原因のお前さんが、オレ達を急かすのかよ」
苦笑混じりそう語ったのはイェルグだが、渚はギロリと彼を睨みつける。彼は、茶々を入れて悪かった、と言わんばかりの素振りで両腕を上げて肩すくめてみせる。とは言え、表情に張り付いた苦笑は消えることはなかったが。
他の部員の中にも、イェルグ同様に文句の1つも言いたそうな顔をしている者はあったが、時間に遅れない方が重要であるという冷静な考えは捨て去ることはないようだ。言葉をグッと飲み込んで、純白の回廊の中へと早足で飛び込んで行く。
部員の列の最後尾となったノーラが回廊に入ったのを確認すると、渚は「それでは先生、行ってきますわい!」と忙しなく手を振りながらの挨拶を残すと、自らも回廊の中へと飛び込んだのであった。
「ほいよ、ほどほどに騒いで来いよー」
そう答えたヴェズの声が渚の耳に届いたかどうか、という内に扉は素早くバタンと閉じる。直後、青い輝線だけの輪郭へと変じると、見えない消しゴムが線に沿って動いたかのような様子で、輪郭が消滅した。
講義室に1人残ったヴェズは、それまでのやりとりの余韻に浸ることもなく、淡々とダンボール箱の中身を取り出して次の講義の準備に取りかかるのであった。
- To Be Continued -