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Dead Eyes See No Future - Part 1

 ◆ ◆ ◆

 

 ――その日は、倉縞(くらしま)(しおり)にとって、人生でも一、二を争うほどの最良の日となるはずであった。

 

 職責上、あまり休暇の取れない父親の蘇芳(すおう)であるが、その日を含む三連休に完全なオフが与えらていた。曰く、「働き過ぎだって言われてな、無理矢理休暇を取らされたンだよ。たっぷり家族サービスを楽しんで来いだってさ」とのことだ。

 こうして親子水入らずの連休を過ごすことになった2人は、昨今リニューアルしたという動物公園へ遊びに出掛けたのだ。

 久しぶりの完全なオフということもあり、蘇芳は気が緩んだのだろう。盛大に寝坊をし、栞が何度揺すろうとも間抜けな寝顔でいびきをかき、これ以上ないほどに熟睡していた。そんな蘇芳がようやく目覚めたのは、お昼頃になってからであった。

 2人――というか蘇芳は――大慌てで車を出して目的地に向かったものの…動物公園を含む『行楽地区』と呼ばれる一帯へ向かう道路は、既に大変な渋滞に陥っていた。

 「もぉ~! パパったら、あたいが何度起こしてもグースカしてるんだもん!

 このままじゃあ、動物公園に着く頃には夕方になっちゃうよ~!」

 「ああーっ! スマン、マジスマン!

 ホンット久しぶりの休みだったからよぉ! 何も考えず眠れると思ったら、気が抜けちまってさー!」

 蘇芳はバツの悪い笑いを浮かべて、助手席でむくれている栞にヘコヘコと頭を揺すって謝罪すると。両手で髪の毛を掴むと、グシャグシャと掻きむしる。

 「かぁーっ! なんなんだよ、この車の数はぁっ! この都市国家(まち)って、こんなにヒトがいたのかよぉ!?」

 「難民さんを受け入れ続けてるから、人口は年々ものすごい勢いで増え続けてるって、学校の先生言ってたよ」

 むくれたまま栞が指摘すると、蘇芳はゴツい掌で彼女の頭をワシャワシャと撫でる。

 「おっ、栞! ちゃんと学校で勉強してンだな! 父ちゃん、安心したぜ!

 オレ、あんまり栞のこと見てやれてないからよー…正直さ、グレかけてるんじゃねーかって、心配してたんだよ。だってお前、話し言葉が男の子っぽいっていうか…乱暴な感じ、するかよー」

 すると栞はさらにむくれて、プイッと窓の外の方へと顔を逸らす。

 「男らしさだとか、女らしさだとか…そんな旧時代的で抽象的な考え方でヒトを判断するのって、とっても失礼なことだって、学校でもテレビでも言われてるよ!

 パパったら、職場だと管理職なんでしょー!? そういうデリカシー持たないと、部下の皆さんに嫌われるよ!」

 「ず、ずいぶん難しい事知ってるんだな、栞…。

 分かった、分かった、父ちゃんが悪かった! どんな言葉遣いでも、栞はオレの大事な娘ってことには変わらねーんだ! もう言葉遣いのことは言わないようにするよ!」

 「…全く…!」

 車窓の風景を睨んだまま、栞は怒りの言葉を漏らしたが…その一方で、彼女の紫がかった瞳は、窓の反射越しに父親のことを見つめ、目の端をニヤリと緩ませていた。

 父は日頃から栞の事を考えてくれるが、直接関われる時間は至極限られている。だから、面と向かってこんな風に言い合いをするなんて、とても久しぶりだ。そして自分の言葉に振り回されて、心底困った表情でオロオロしている父親の有様が可愛くて仕方がなくなり、思わず微笑んでしまったのだ。

 「もぉー、仕方ないなぁ!

 今回は許してあげる! だけど、また変なこと言ったら…!」

 「言ったら…?」

 まだむくれた表情を作ったまま振り返る栞を、蘇芳は上目遣いで見つめ返しながら怖ず怖ずと聞き返す。すると栞は、ピンと人差し指を立て、表情をガラリと変えて悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 「パパには、去年の誕生日に着くってもらった、特製ケーキを作ってもらうかンね!」

 「うげ…っ! あのクッソ面倒なヤツをか…!?

 うっわ、そりゃキツすぎるだろ…! せめて、ホットケーキ5段重ねくらいで勘弁しろよぉ!」

 「ダーメ! ホットケーキなんて、パパのペナルティーになんてならないじゃん! やっぱ、あのケーキくらいやらないとさー!」

 「オレはパティシエじゃねーっての! ムキムキマッチョの軍警察官様だぞー!」

 次第に親子2人の会話はじゃれ合いになり、互いに大笑いするのだった。

 こんな愉快で穏やかな時間を過ごせるのなら、渋滞に巻き込まれるのも悪くはないかも――そんな想いが栞の胸中を過ぎる。しかし、それは栞だけの想いではなかっただろう。彼女の父親たる蘇芳とて、同じ想いを抱いていたことだろう。

 

 ――ここまでの時間を抜き出すのならば、この日を最良の休日と称しても良かっただろうに。

 しかし、ここより程なくして、栞の最良は最悪の地獄へと転落する。

 

 前触れは、ブルリと体を震わす悪寒であった。

 その日は少々汗ばむくらいの陽気だったので、風が吹いても涼しく感じることこそあれ、寒さを感じることなどあり得ない。

 せっかく親子水入らずで過ごせる連休だというのに、風邪気味になってしまったのだろうか? などと首を傾げながら、父親に何か語りかけようとした時のことだ。

 前を見る父の横顔が、まるで氷にでも閉じ込められていたかのように、真っ青になっていたのだ。

 それだけではない。父は血に飢えた猛獣を目の前にして身構えるように、歯を剥き出しにして食いしばりながら、鬼気迫る光を湛えた瞳を刃のように尖らせ、虚空を見つめていた。

 それまで栞が見たことのない、険しい表情。それが、父の苛烈な仕事場における表情と同一のものであるとは、夢にも思っていなかった。

 「…なんだ…おい…なんだよ…このヤバい感覚…!」

 父はブツブツと呟きながら、額を拭う。そこには、玉のような冷たい汗がビッシリと浮かび上がっていた。

 (ひるがえ)って、栞もハッと自分の身体に起きている異変に気付く。父親ほどではないものの、自分も額に、そして首にジットリと冷たい汗を噴き出している。

 ――さっき感じた悪寒は、自分個人の問題じゃない! 何かが…客観的な災厄が、起ころうとしている!

 「栞…! ここに居るのはヤバい…早く――」

 蘇芳が言い掛けて…ピタリと、言葉を止めた。

 いや、止まったのは蘇芳だけではない。栞も同じだ。瞬きさえ出来ない重苦しい痺れが全身を(むしば)んでいる。身体だけではない、思考すらも見えざる巨大な手によって脳ごと握り潰されたかのように停止してしまった。

 今や魂魄の石棺となった肉体と精神の中で、唯一、栞の思考に描画される光景がある。

 それは、車外の街並みの風景ではない。虚無の漆黒を背景にした中、クッキリと浮かび上がる3つの丸い輪郭。それはゆっくりと瞼を開いてゆく…そう、その3つ輪郭の正体は、"眼"なのだ。

 瞼が半分まで開いた時、栞のなけなしの感情がビクンッ! と戦慄(おのの)いた。瞼の下から現れたのは、それぞれが全く異なる方向を向いた、死んだ魚のように濁りきった漆黒の瞳だ。

 そして、3つの瞼が完全に開き切った瞬間。死んだ眼からドロリと、真紅の液体が溢れて流れ出す。それが血の涙なのか、それとも別の何かなのか、栞は今もって理解はできない。

 ただ、その眼が己の魂魄に訴えてきた、ということだけは分かる。

 ――我が更なる高みに至るため、お前達の全て寄越(よこ)せ!

 その意志は言葉というより、共感のように思考に強烈に焼き付いた。同時に、漆黒の風景の中、不可視ながらも何か暴力的なまでに力強い"腕"がこちらに伸びてくる感覚を覚える。

 ――逃げないと、危ない…!

 栞のなけなしの思考は叫ぶが、肉体と精神の束縛は益々(ますます)強度を増し、とてもではないが振り解くことなどできない。

 (やられる…!)

 栞が精一杯の思考を振り絞って、胸中で悲鳴を上げた、その時だ。

 ふいに、肉体と精神に暖かな光がもたらされた。それと共に、思考に描画された戦慄の3つの眼の姿は、まるで帳を思いっきり後ろに引っ張ったような有様で光の中に吸い込まれ消えてゆく。

 (あ…!? え…!?)

 不意に軽くなった肉体と精神に戸惑い、どぎまぎと思考を転がしていると。

 パァン! と鼓膜をつんざく快音と共に、頬に電撃のような疼痛が走る。

 ――転瞬、栞の視界が一変。光一色の世界から、今度は色彩と形状に溢れる世界へ――網膜が物理的に認識する形而下の現実へと、引き戻される。

 場所は、父の車の中のままだ。ただ、目の前にあるのは、怒っているようにも泣きそうなようにも見える父の顔だ。振り抜いたような右腕の格好を見ていると、さっきの音と痛みは父が栞の頬を思いっきり張った音らしい。

 「あれ…パパ…?」

 パチクリと瞬きをしながらそう呟くと、父は大輪の花がこぼれ咲くような笑みを浮かべた。が、すぐに顔を引き締めると、栞をギュッと腕の中に抱える。

 「え、あ…ぱ、パパ!?」

 状況が飲み込めない栞がオロオロと尋ねるが、父は細かいことを伝えるでなく、ただ短くこう告げる。

 「ここは、ヤバ過ぎる…逃げるぞ!」

 そして蘇芳は、運転席側のドアを蹴り開けると、転がるようにして車外へ脱出。栞を胸にギュッと抱えたまま、車道を元来た方向に向かって走り出した。

 先に悪寒は感じたものの、現状の本質を理解していない栞は、父の唐突な行動に後ろめたい焦燥を感じた。渋滞の中、車を捨てて走り出したのだから、後続車に迷惑がかかると思ったし、何より周りから変な目で見られるのではないかと恐れたからだ。

 しかし、栞の不安は全くの杞憂であった。

 親子が車を捨てた瞬間、クラクションを鳴らして抗議したり、車窓越しに非難を浴びせたり好奇の視線を向けて来る者は一人もいなかったのだ。

 それどころか、渋滞に加わるほぼ全て車両から、ゾロゾロと搭乗者達が降りて来たのだ。

 とは言え、彼らの行動は蘇芳のそれとは全く違う。彼らは蘇芳のように危機感を抱き、それに突き動かされている感じが全くない。夢遊病患者のようにボンヤリと、そしてフラフラとした体勢と足取りで、車の合間をゆっくりと歩き始める――蘇芳とは真逆の方向へと。

 「ねぇ、パパ! みんな、あっちの方に行くよ! あたい達だけだよ、戻ってるの!」

 栞が不安の声を上げると、蘇芳は彼女の声をかき消すように「良いんだッ!」と強い語気で吐き捨てた。

 ――そう、蘇芳は言葉と共に、心もまでも"捨てた"のだ。

 この時、栞は父が何故、苦々しくも鬼気迫る表情を作っていたのか、全く理解出来ていなかった。だが、今は痛いほど分かる。父は、人命救助に関わる防災部所属だというのに、その職務を果たせず人々を見殺しにして、己の娘だけを救出するのに精一杯であることに自責と悔恨の念を抱いていたのだ。

 しかし、相変わらず状況が飲み込めていなかった栞は、父の顔から視線を外して、もう一度人々の方に視線を向け――パチクリと、困惑の瞬きをする。

 渋滞の車列の合間に、餌に(たか)るアリの群ほどもゾロゾロと歩いていた人々の姿が、忽然と消えていたのだから。

 一体、どこへ行ってしまったのか? と栞が視界を巡らせて光景の細部の視認に努めた時のこと。彼女は、"あるモノ"を発見して、眼を丸くする。同時に、彼女は現状がいかに危険であるか、人々がどうなってしまったのか、理解して戦慄(おのの)いた。

 路面の上に、落として割れた卵のような汚い有様でベッチャリと広がる液体が見える。濁った白色をしたその液体の中には、固形物がいくつか浮かび上がっている。それが何であるかは、眼を凝らすまでもなく分かった――人体の一部だ! 腕や、眼球や、髪の毛や内臓の一部である――つまり、この液体は――!

 「ひ…ヒト、なの…!?」

 掠れた声で独りごちると、父親から叱責に近い声が飛ぶ。

 「見るなッ! 眼をギュッと(つぶ)ってろッ!」

 父親の反応から、栞は自らの感想が正解であることを知ってしまった。

 そして、ヒトが溶けてしまう異常な状況の中、栞達親子だけが健在でいられるのは、どうやら父親のお陰らしいと言うことも理解する。栞の身体はは、意識の混濁の闇から解き放れた時に感じた暖かで穏やかな感覚に包まれている。これは、父親の身体と密着している部分で顕著に感じられる。これらの事実を鑑みることで、父親が何らかの魔術で栞を悲劇から保護しているのだろうと直感できた。

 さて、栞は父親の言いつけをすぐに守らず、溶けたヒトの動向を見やる。――そう、溶けたヒトは、単にその場に広がっているだけではない。森の中を彷徨(さまよ)う粘菌のごとく、路面に濡れた跡すら残さず、ジュクジュクと流れ蠢いているのだ。彼らがヒトであった時に向かっていたのと全く同じ方向――すなわち、蘇芳らが進むと真逆の方向に。

 その先に、一体何が在るというのか?

 疑問を抱かずには居られない栞が。渋滞の車列の先の方へと視線を投げた――。

 転瞬、栞は見た。こちらの道路に合流している十字路の左側から大小幾台もの車両が、蹴飛ばされた小石のようにビョンビョンと吹き飛ばされた光景を。車両は中空を激しくグルグルと回りながら、高層建造物に突っ込んだり、車列の突っ込んで他の車両を巻き込みながら大きくバウンドしたりと、激しい有様となっている。中には当たりどころが悪かったらしく、爆破炎上する車両もある。

 路上は一瞬にして、大破の轟音に満ちる地獄の光景に変わる。しかし、摩天楼の中に木霊する悲鳴は、無機質な車両のものばかりで、ヒトの声は一切聞こえない。当たり前だ、ヒトは栞が先に見たとおり、元の存在とか全く似つかぬ気味の悪い液体へと変わり果ててしまったのだから。脳すらも溶融してしまった彼らは、思考すら行うこともできないことだろう。

 車両の雨霰が次第に頻度と密度を増すにつれて、車両の大破とは別の轟音が大地を揺るがし始めた。巨大地震のようなその音は、次第にこちらに近づいて来る――それに従って、路上を襲う振動も激しさを増し、蘇芳は激しくよろめきながらも、なんとか前進を続けている状態だ。

 やがて、振動は路上の車両をポップコーンのようにボンボンッ! と跳ね上げるほどになった頃。蘇芳が思わずつんのめりそうになって足を踏ん張り、歩みを止めた――その時。

 栞は、人生最悪に"物体"を網膜に焼き付けてしまった。

 交差点の向こうから、突然、"巨躯"が驀進しながら現れ、そのまま高層建築物の中に突っ込んだのである。ゴガガガッ! と鉄筋コンクリートの歪み砕ける音が響き、高層建築物が数棟、ドミノ倒しのように次々と傾いて砂煙を上げた。

 もうもうたる砂煙ですら隠しきれない巨大な体積を持つ、"巨躯"。その姿を、栞は絶対に忘れることなどできはしない。ホルマリン漬けになった生物標本に似た、濁った白色の体表。その体表を覆おう、触手とも体毛とも似つかぬ幾つもの突起。赤子のように四つん這いになりながらも、赤子にしては長すぎる手足を持つ、アンバランスな体つき。

 そして、ゆっくりとした動作で、突っ込んだビルの中から引き抜いた、その顔。まるで栞を認識したかのようにこちらを向いたその面もちに、栞は激しい怯懦と動揺と共に、ハッと記憶を喚起させられる。

 先程、意識が暗転した際に、思考の中に描かれた3つの死んだ眼。それがそっくりそのまま、この"巨躯"の顔面に張り付いてのだ。

 3つの眼はそれぞれがあらぬ方向を向いており、視線など特定できようがない。それでも、"巨躯"が耳元まで裂けた――と言っても、こいつには耳に当たる器官は見当たらない――口をニンマリと歪めた表情を見た瞬間、栞はこいつに「睨まれた!」と感じた。

 心臓を、氷の掌によってギュウッと握り締められたような、恐怖と衝撃。

 栞は慌てて、父親に言われた通りに瞼をギュッと閉じた。

 (見るんじゃなかった、見るんじゃなかった、見るんじゃなかった――!)

 網膜にしっかりと焼き付いてしまった光景を拒絶するように、何度も何度も胸中で絶叫を繰り返した。

 ――一方、栞は閉じゆく瞼の合間から、この光景に更に加わる2つの要素を見て取った。

 1つは、"巨躯"の後ろを追うようにして現れた、幾つも飛行戦艦。その側面にはデカデカと、ハトの翼を持つ紫色の輪を纏った地球のマークが張り付いており、アルカインテールの駐留している地球圏治安監視集団(エグリゴリ)のものだと瞬時に理解できた。

 もう1つは、"巨躯"の周囲の空間を幾つも球状に歪めながら出現する、蟲にも似た兵器様の存在。栞は、それが癌様獣(キャンサー)と呼ばれる存在であると云う知識を持ち合わせてはいなかったが、その禍々しく攻撃的なフォルムから、尋常でない存在であることを読み取った。

 これらの2つを瞼の闇の中に押し込めながら、栞は、自分の生まれ育った都市国家が恐るべき災厄の渦中に放り込まれてしまったことを知ったのだった。

 

 ――瞼の闇を開くと、そこは凄惨な街並みではなく、穏やかな机上の光景であった。

 教科書やノートが綺麗に納められた本立て。主に色ペンが疎らに納められているペン立て。そして、デスク面には、開いたままの算数の問題集とノート、そして筆記用具が散らばっている。

 「あたい、居眠りしちゃってた…」

 栞は、枕にしていて重ねた両手から顔をゆっくりと持ち上げると、眠気が尾を引くトロンとした眼差しを数度(しばたた)かせる。

 机のすぐ向こうには、曇空が広がる難民キャンプの街並みがある。空を覆う雲はかなり厚いようで、街並みは夕暮れのように薄暗い。この薄暗さに誘われて、うとうとしてしまったようだ。

 栞は椅子に座ったまま、「う~ん」と伸びをすると。転がっていたシャープペンを手に取り、問題集とノートに向かう。今は、難民キャンプで開かれている臨時学校の宿題に取り組んでいる最中だったのだ。

 しかし、問題に取りかかろうとしても、なかなか意識が集中できない。

 どうしても、思考の中に、あの"巨躯"が――『バベル』の姿が焼き付いて離れない。

 (…最近、やっとあの夢を見なくなってきたのにな…)

 栞はシャープペンを軽く放り投げると、両手の上に顎を乗せて窓の外を見やりながら、ふぅ、とため息を吐く。

 ――あの悪夢を見てしまったのは、きっと、昨日自分の故郷(アルカインテール)へと向かって行った学生たちの影響に違いない。

 そんな事を思い浮かべてムッとする一方で、栞の背中にゾワリとした不安が駆け巡る。

 (もしかして…あたいの故郷(アルカインテール)で、ヤバい事が起きてるのかな…?

 だから、あの人達も、昨日中に帰って来れなかったんじゃあ…?)

 栞はふと、視線を曇天へと上向ける。

 重く厚い雲は雨粒の涙こそ流さないものの、晴れやかな陽光を覗かせる気配は、全くない。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 栞が居眠りから覚めたのと、ほぼ同時刻。アルカインテールにおいては、栞の夢と呼応したかのような異様な現象が発生していた。

 

 ドクンッ――アルカインテールの混戦の渦中に居る、(すべから)く全ての者達がまず感じたのは、その鼓動とも胎動とも似つかない震動だ。

 いや、震動といっても、地面も大気も、人類が感覚神経を介して近くする大凡の物体が物理的に揺れ動いたワケではない。現に、路上の瓦礫も、瓦解した廃墟に申し訳程度に残る割れたガラスも、"パープルコート"が作り出した(ねじ)くれた木々の葉も、ピクリとも動いてはいない。

 揺れたのは、ヒトビトの精神――もっと正確の言えば、魂魄だ。形而上からの強烈な刺激に、魂魄の定義が大きく揺らぎ、それが身体へフィードバックされて、"揺れている"と知覚されたのである。

 この形而上的な震動は、アルカインテールに存在するほぼ全ての存在に多大な影響を与える。震動はドクンッドクンッと絶え間なく発生し、次第に強度を増してゆく。それにつれて、神経へのフィードバックによる負荷も増加してゆき、脳に知覚される刺激は単なる揺れから、肉体のみならず意識までもが渦巻き歪んでかき乱されてゆくような酷い不快感を生み出す。

 

 「うぉえっ…ぷっ!」

 巨大な機動兵器を操り、癌様獣(キャンサー)の巨大個体『胎動』と、サヴェッジ・エレクトロン・インダストリーの複数の機動兵器を相手にしていた神崎大和は、胃袋そのものが咽喉(のど)にせり上がって来たような感覚を覚え、コクピットで身体をエビのように曲げて口元を抑えた。

 こうなる直前までの大和は、組織間の対立を越えて、見事としか言いようのない連携を見せて立ち回る『胎動』と"インダストリー"の機体を相手に孤軍奮戦。途中、沸き出すように現れた小型癌様獣(キャンサー)の群をことごとく撃破したり、"インダストリー"の機体数機を大破させたりと、獅子奮迅の活躍を見せていた。大和の操る巨大な機体は、まるで軽やかな妖精がダンスするかのように緻密に動き回りながらも、大噴火した火山のような苛烈な火力で相手を圧倒していた。

 残った相手は性質的にも能力的にも数段レベルが高く、苦戦は必至ではあったが、これまでの着実な戦果で自信をつけていた大和は、臆することなく彼らを相手に堂々と立ち振る舞っていたのだが。

 先刻苦しめられた怨場よりなお酷い不快感に襲われ、全く動くことができなくなってしまった。英雄的な活躍を見せていた巨大な機体は、今や単なる鋼の山となり、その場に立ち尽くすばかりだ。

 (くっそぉ…こんな肝心な時にぃ…!

 一体、何なンスかぁ、このヤバいのはぁ…ッ!)

 舌の付け根まで沸き上がってきた苦酸っぱい吐瀉物をグッと飲み下し、焦点定まらない視線で全方位モニターを見やる。この致命的な隙につけ込んで、敵どもが攻め込んで来ることを恐れたのだ。

 だが、大和の感じている苦痛は、"インダストリー"の操縦適応者(クラダー)だろうが、癌様獣(キャンサー)だろうが同様であるらしい。

 "インダストリー"の機体は大和の機体動揺、ダラリと四肢を脱力させ、重金属の木偶となって立ち尽くしている。そして『胎動』の方は、ビクビクと身体を痙攣させながら、不快感を身体の外に吹っ飛ばそうとするかのように、時折頭や尻尾を大きく揺すってみせる。

 相手も同じ境遇に陥っていることに、大和はひとまず安堵したのだが。すぐに首をブンブンと振って、その甘い考えを捨て去る。

 "インダストリー"の操縦適応者(クラダー)は、本社の魂魄演算型量子コンピューターと常にリンクしており、体調不良などは遠隔で調整して克服してしまうだろう。癌様獣(キャンサー)も種族内に存在するクラウド的な意識共有空間にて瞬時に対策を議論し、解決策を導き出してしまうだろう。

 その点、独りで敵を相手にしなくてはならず、且つ、魂魄分野には(うと)い大和は、非常に不利な立場に置かれている。

 (こんな事なら、蒼治先輩と一緒に高等魔術の授業を受けておくべきだったッス…!)

 不快感と共に激しい後悔の念に苛まれながらも、大和はとにかく今回の現象に抗うべく、精神干渉に対する基礎的な抵抗技術を実践するのだった。

 

 地上で乱戦を繰り広げるナミトと、その相手をしている『冥骸』の戦士たちもまた、この魂魄震動現象に少なからぬ影響を受けている。

 「ぐぬぅわっ! なんじゃっ、この気持ち悪さはっ!」

 真っ先に叫んだ『涼月』の侍の身体は、悪質な映像のように激しい横縞のノイズが走り、輪郭が荒々しく歪む。

 この現象は、『涼月』にのみ発生しているのではない。共闘している甲冑姿の『破塞』や軌道走行服姿の『藻影』にも同様の現象が起こっている。更には、怨場発生装置と化した建造物の骸骨の内側でも、白骨化した身体を晒す死後生命(アンデッド)達が糸の絡まった操り人形のようにカクカクと痙攣している。中には、間接間の結合力を失い、体部がガラガラと崩れている者もいる。

 そしてナミトも、脳を鷲掴みにされて直接揺さぶられたような強烈な不快感にくず折れると、文字通り頭を抱えて悶えていた…が。流石は魂魄の直接操作を得意とする練気技術の使い手、混濁した意識の中でも着実に呼吸を整えて体内の術式を整えて混乱を押さえ込むと。終いに、ヒュッ! という鋭い呼気と共に身を襲っていた魂魄干渉を体外へと弾き飛ばした。

 (あっぶな~!

 いきなりなんだってのかなー、こんな魂魄干渉! 魂魄の定義がすっ飛ぶところだったじゃんか!)

 胸中で文句を語った、その直後。自分の文句の中身にハッとして、思い直す。

 (これ、相当ヤバくない!? 避難民の人達、トンでもないことになっちゃってるんじゃあ!?)

 ナミトの任務は、『冥骸』達の足止めをすること。しかし、避難民と一緒に居るのがロイや紫だということを鑑みると、魂魄操作技術に長けた自分がフォローに回らなければいけないのでは、という衝動に駆られる。

 (幸い、『冥骸』のおじーちゃん達は、相当参ってそうだし!

 この状況じゃ、怨場発生装置も意味ないようだし!

 こんな所に居ても仕方ない、ボクはさっさと人命救助に――!)

 踵を返して2、3歩と走り出した、その時だ。

 背後から迫る殺気を感じて、ナミトはヒョイと首を傾ける。すると、ナミトの後頭部があった虚空を、炎に包まれた鞭状の槍が鋭く貫く。

 更に槍は獲物を執拗に狙うヘビのように方向を変えて、ナミトの顔を絡めに来る。ナミトは表情を歪めて舌打ちし、とっさに屈み込みながら転身。背後に向き直る。

 「わしらに背を向けて何処へ行く、小娘ッ!」

 そんな罵声と、ナミトの視線が交錯する。見れば、苦しんでいたはずの3人の霊体の戦士が完全に復活し、万全の戦闘態勢を整えてこちらを凝視している。

 ナミトの頬がヒクッと動く。

 「おじーちゃん達、この魂魄干渉の中でも平気なんだ?」

 「いきなりのことでびっくりはしたがよ、オレ達霊体は魂魄そのものみてぇなモンだからな。生きた肉体(おまえら)以上に、こういう状況への適応力はあるつもりだぜ?」

 ナミトに答えた『藻影』は直後、構えた錆び付いたチェーンガンをぶっ放す。

 (くっそぉっ! 霊体だからって、この魂魄干渉に対してこんなに簡単に適応出来るなんて!

 結構厄介なおじーちゃん達だなぁ!)

 ナミトは左右に素早く動き回りながら『藻影』の元に迫りつつ、右拳に練り上げた気を込める。そしてついに肉薄し、チェーンガンの銃身の内側へと入り込んだナミトは、拳を掌打の形に変かさせて、『藻影』の腹部を狙う――。

 が、そこでナミトに野生動物的な勘が働き、彼女は素早くバックステップする。直後、『藻影』とナミトに間に割って入ったのは、『破塞』の破城槌である。退くのが一瞬でも遅ければ、槌に激突していたところだ。

 そして更に――。

 「ハイヤァァァッ! もらったぁぁぁッ!」

 耳をつんざくかけ声とナミトの頭上から落下してくる、『涼月』。叩き下ろされた槍を、ナミトは半歩横に退()いてかわすと。3本のキツネの尻尾をなびかせながら『涼月』の懐に入ると、不発に終わっていた右掌打を胸に浴びせる。

 転瞬、(ゴウ)、と響く爆音。そして、『涼月』は背中に突き抜ける雷光色の爆発と共に、「ぬおおおおお!?」と絶叫しながら吹き飛ぶ。

 発勁による高等攻撃技術の一つ、『鋼爆勁』が炸裂した瞬間だ。呼んで時の如く、鋼をも爆して破壊する威力を持つ、強力な練気打撃である。

 この打撃によって『涼月』の霊体は激しく歪み、そのまま掻き消えてしっまうのではないかと思えたが…すかさず2体の霊体が彼を両脇から抱えて受け止めると、『涼月』は縦縞のノイズにまみれながらも、なんとか形を取り戻して立ち上がる。

 「あんなテレホン攻撃すっから、そんな目に遭うんだっつーの、じーさまや」

 『藻影』がフルフェイスの向こうでくっくっと笑いながら指摘する。

 すると『涼月』は、頭をブルブルと振って霊体を震わせた爆撃を追い出すと、2人の手を振り払ってしっかりとした足取りで立ち上がる。

 「黙れい、若造がッ! 気合一閃こそ、鋼をも断つ力を呼び覚ますのじゃ! 古来よりの謂われであろうッ!」

 「…そんな謂われ、私は耳にしたことはないがな…」

 『破塞』がボソリと呟くと、『涼月』は骸骨面の眼窩に怒りの炎を灯して睨めつける。

 自分そっちのけでワイワイと騒ぐ3人の霊体に、ナミトは呆れた苦笑いを浮かべると共に、内心で舌を巻く。

 (このじーちゃん達、なんかのほほんとして危機感薄いけど、やっぱり結構な実力者だなぁ…。

 ボクの『鋼爆勁』受けても、すぐにあんなに元気になってるし…)

 それもこれも怨場発生装置の寄与によるものかと訝しみ、視線をチラリと高層建築物の亡骸に走らせたが…。鉄骨の中にギッシリと詰まった白骨の死後生命(アンデッド)達は、まだガクガク震えていたり、崩壊が続いたりしている状況だ。並の霊体にとっては、現在の魂魄干渉は相当堪えるものらしい。

 その一方で、適応するのが当たり前のような口振りをしていた眼前の3人は、やはり常軌を逸した存在と言えよう。

 (こんな状況じゃなかったら、戦うのも存分に楽しみたかったけどさ…!

 今は、そんな事言ってられる時じゃないから…!)

 ナミトは苦笑いを噛み殺すと、大きく円を描くように腕を回しながらゆっくりと深呼吸をし、体内で気を練り上げる。そして、震脚と呼ばれる強烈な足踏みと共に、練り上げた気を全身に稲妻のように(まと)い、身構える。

 (悪いケド、さっさと終わらせてもらうかンね!)

 ナミトの力強い練気を感知した3人の霊体は、わいわいとふざけ騒ぐのをピタリと止める。そして、それぞれの奈落のような眼窩に暗く烈しい殺意の炎を灯し、ナミトを睨めつける。

 「――まぁ、騒ぐのは、このキツネのお嬢ちゃんを血祭りにしてからだ――なッ!」

 『藻影』が叩きつけるような言葉尻と共にチェーンガンを連射し、戦闘の第二幕の開始を告げる。

 ――この戦い、まだまだ厳しく続くようだ。

 

 局地的にして異常な豪雨と雷鳴が点在する空中では、イェルグと"パープルコート"の艦隊を主体とした航空戦力のぶつかり合いが、まだまだ続いてる。

 それまで圧倒的な優位に立っていたのは、孤軍ながらも天候を自由に操作するイェルグであったが…。あの異様な"鼓動"が発生した後、その立場は一気に逆転する。

 「おいおい…海王星の嵐ン中でも、目を回さない自信があるってのによ…こりゃあ、きっついな…!」

 大和が精魂込めて作った戦闘機のコクピットで、イェルグは操縦桿を握る両手に額を乗せて、苦々しく呟く。彼の額は脂汗でジットリと濡れるばかりか、ポタポタと滴までもが垂れている。

 天候を自在に操り、どんな状況下でも飄々(ひょうひょう)とした思考の持ち主である彼でも、この魂魄干渉には手を焼いているようだ。

 一方で、豪雨や雷撃に晒されて右往左往していた"パープルコート"の艦隊は、"鼓動"の発生して後、その行動が機敏で冷静なものへと変わる。狂乱している天候の中をうまい具合に切り抜け、整然とした隊列を組み、巣をつついた時に飛び出すハチの群のように『ガルフィッシュ』の大群を繰り出してくる。

 「こんな時に急に元気になるってのは、一体どんな絡繰りだってんだよ…」

 脂汗をダラダラと垂らしながら、なんとか上体を起こしたイェルグは、ふらつきながら操縦桿を(さば)きつつ、『ガルフィッシュ』の魔化弾丸エンチャンテッド・ブリッドの雨霰をなんとか回避する。

 イェルグはナミト程に魂魄制御技術に長けてはいないが、並の職業軍人よりはうまくやれるという自負がある。そんな彼が苦しんでいるというのに、"パープルコート"の艦の(ことごと)くが健在であるのは、一体どういう所以(ゆえん)なのか。

 それは、この魂魄干渉を引き起こしているのが"パープルコート"であり、隊員たちはその事前対策として魂魄の定義安定度を高める霊薬(エリクサー)を投与したためである。その副作用として精神の沈静化がもたらされた為に、彼らは冷静さを取り戻したのだ。

 ちなみに、この過大な魂魄干渉が及ばない場所でこの霊薬(エリクサー)を投与した場合、常人の精神構造は過剰な沈静化のために抑鬱状態に陥ってしまう。

 何にせよ、イェルグはただでさえ苦境に陥っている中で、大量の兵器を相手に休むことも許されず立ち振る舞い続けねばならない。

 僅かながらの光明と言えば、"インダストリー"や癌様獣(キャンサー)の空中戦力も魂魄干渉の影響によって、動きが明らかにおかしくなっており、こちらの脅威になり得ないことだ。しかしそれも、気休め程度の光明でしかないが。

 「全く…! 空自体を歪ませてくるなんてな、無粋にも過ぎる奴らだよ…!」

 イェルグは唾棄しながら、厳しい戦いを続ける。

 

 そして、何処よりも深刻な影響が及んだのは――避難民が捕縛されている異形の林の中である。

 車列の先頭では(ゆかり)珠姫(たまき)、後方ではレナがそれぞれ獅子奮迅の活躍を見せ、ゼオギルド率いる"パープルコート"の不良部隊と互角以上の戦いを演じていたのだが。

 先の"鼓動"の発現により、難敵を相手にしても士気を高く保ち、統制の取れた行動で奮戦していた市軍警察官達のほぼ全員が、魂魄干渉によってダウンしてしまったのだ。

 「みんな、気をしっかり保って…!」

 「お前ら、気合い入れろよッ! 職業軍人なんだろうがよッ!」

 車列の先頭・後方で紫とレナがそれぞれ鼓舞の言葉を叫んでいる。しかし、当人達も強烈な魂魄干渉によって体調不良を引き起こされており、クラクラと暗転しそうになる意識をつなぎ止めるように頭を抑えている。

 しかし、彼女らの言葉も、市軍警察官達の鼓膜をただ単に虚しく震わせるに留まってしまう。何せ、魂魄干渉に対するロクな対抗技術を持たぬ彼らは、即時に意識障害に陥ってしまったのだから。

 それまで精悍な顔立ちで疾風の如く動き回っていた彼らは、今では焦点の合っていない目つきでポカンとだらしなく口を半開きにし、四肢をダラリと脱力させて立ち尽くすばかりだ。1つ奇妙なのは、どう見ても思考停止しているようにしか見えない彼らが、皆一様に同じ地点を眺めていることである。

 対して、"パープルコート"の隊員は残虐な笑みを浮かべ、無抵抗な市軍警察官達を容赦なく無力化して回る。脇腹を打ち抜いたり、手や足を吹き飛ばしたりと、やりたい放題だ。紫やレナは体調不良によってすっかり動きが緩慢になってしまい、彼らを救出しようにも、自分たちに襲いかかってくる"パープルコート"どもを(さば)くのがやっとだ。

 この時、紫やレナは気づいていない――いや、単に気づく暇がないだけかも知れないが――。"パープルコート"達の行為は残虐そのものであるが、彼らは決して市軍警察官を即死させるような攻撃を取っていないことを。

 一体、この行動に何の意味があるのか。"パープルコート"という部隊に周知されている指示によるものなのか。それを問い(ただ)せる者は、不幸にも、この場には存在し得ない。

 さて、車外の林の中では市軍警察官達が機能不全に陥ってる中、車内に残されている避難民たちにも同様の異変が起こっていた。

 ロイによって救助され、自由を得た者達は、フラフラとゾンビのように車両の外に歩き出すと、軍警察官と同様に同じ地点へと視線を投げる。

 未だ車両内で木々の葉と枝にからめ取られている者達は、自らの身体が(いた)むのも構わず、無理矢理にでも転身し、やはり車外の者達と同様、車両の壁や床越しに同一の地点へと視線を投げかける。

 車列のほぼ中央、指揮車両にのっている蘇芳は、練気の技術によって魂魄干渉をかわしていたものの、同じ車両内に居る者達がギチギチと骨身を軋ませる音を立てながら、夢遊病患者のように身体を回す様子を眺める羽目に陥っていた。と言うのも、彼自身も葉や枝に阻まれて身動きが取れずに居るからである。

 「おい、おい! 誰でも良い、俺の声に耳を傾けてくれッ!

 頼む、気を確かに持ってくれよッ!」

 身動きが取れない中、クラクラする意識の中で、咽喉(のど)が痛くなるほどの勢いで叫びまくる蘇芳であるが――。彼の胸中は、行動に反して、絶望的な諦観に満ち満ちている。

 蘇芳は、知っているのだ。この行動が意味するもの。そして、訪れるべき結末を――。

 そして早くも、彼は"それ"を目にする。

 視界に入る全ての意識障害者たちが皆一様に、灼熱の太陽光によって一斉に炙られた氷の彫像群のように、肉体がトロリと溶融し始めて、濁った白色を呈するサラサラとした液体へと変化してゆく。

 蘇芳はこの光景を目にして、歯茎から血が噴き出るほどに歯噛みをし、胸中で呻く。

 (クソッ! またかよッ! んでもって、ついに来やがっちまったのかよ!

 あの最凶最悪の"問題児"がよッ!)

 同時に、蘇芳の脳裏に過ぎるのは――娘の栞と別離することとなった日の情景。

 「くそぉぉぉっ! 今回もどうにもできねーのかよぉぉぉっ!」

 過去の悔恨にも襲われた蘇芳は、火を吹くような勢いで絶叫したのだった。

 

 蘇芳の絶叫が天にも響こうかと言う頃のこと。アルカインテール全土を覆う現象が、新たなる段階に入る。

 都市国家内に居る全ての者達が――今回の魂魄干渉への事前対策を講じていた"パープルコート"の隊員も、『星撒部』の部員達を初めとした"パープルコート"競合勢力の内、自力で魂魄干渉に抵抗している者も、あえなく屈して意識障害を起こしている者も、その全てが――等しく、同じ光景を見たのだ。

 突如、漆黒に暗転する、視界。戸惑う間もなく、漆黒の中に正三角形を描くように浮かび上がる、3つの球形の輪郭。それらは月の満ちを早回しにしたような有様で、一様に下から上へと開いてゆく――やがて、満月のように開ききると、そこに現れたのは、眼球だ。各々があらぬ方向を向いた、生気の光が全く見えない、死に絶えた眼。

 眼はギョロンギョロンと激しく、素早く動き回る。通常の生物では筋肉を痛めるほどの勢いで動き回るそれは、実際組織を傷めたらしく、眼からは真紅を呈する血の涙がドロリと溢れ出す。

 それでも眼は、無明の世界にも関わらず興奮するようにギョロンギョロンと眼球を回し続けると――突如、ピタッと動きを止める。

 次いで、視界に現れるのは、3つの眼球の直下に一文字に現れた亀裂だ。それは穢らわしく粘液の糸を引きながら、狂乱した肉塊で覆われた内部を見せつけるように半月状に開いてゆく。それが"口"であることを理解できたのは、亀裂が精神疾患を(わずら)った幼子のような(わら)いの形を取って見せたからだ。

 そしてそいつは、開ききった口をこちらに――視認者へとゆっくりと近づけてゆく。飢え切った状態で、大好物を頬張ろうとするかのように。

 この恐るべき光景に、魂魄干渉の事前対策の副作用で精神が沈静化していた"パープルコート"隊員たちも、その思考に荒波が起きる。彼らは魂魄干渉を完全に回避出来ると説明を受けた上で、抗体となる霊薬(エリクサー)を受け取り、そして使用したのだ。それにも関わらず、霊薬(エリクサー)の効果を打ち破っての意識への侵入が起こったことに、純粋な混乱をおこしていた。

 (ちょっと、やめろ、なんだよ、おまえ、やめろって、どっか行けよッ!)

 "パープルコート"のとある隊員は、恐怖に染まりつつある思考から激情を振り絞ると、精一杯の集中と感情を込めて眼前の"眼と口"を罵る。魂魄干渉を振り切る方法として自前で出来ることは、魂魄の定義安定性を高めるために、自己存在を肯定すること。怒りという感情は、自己存在の否定を払拭する効果を持ち、定義安定性を即興的に高めてくれる効用がある。

 この方法がうまく行って、晴れて魂魄干渉から抜け出し、視界を現実の物質世界へと戻すことに成功した者は多数いたが。それと同数程度、運悪くも魂魄干渉を免れず、"眼と口"に捉えられてしまった者もいる。

 その末路は、せっかく自己定義の安定性を高めて魂魄干渉から脱した者達を、再び自己定義不安定の憂き目に引きずり込むほどに凄惨なものである。

 フラフラと揺れ動きながら呆然と立ち尽くしていた機動装甲歩兵(MASS)は、その顔色が濁った白色に変化したかと思うと、まるで氷像が高火力で一気に加熱させられたように、ドロリとその形を失う。眼も、鼻も、口も、頭蓋骨の一片までもが一様に濁った白色の液体へと化したのだ。人体が溶融した液体は水のように粘度が低く、バケツをひっくり返した時のようにバシャンと音と建てて機動装甲服(MAS)の中を流れ落ち、大地に白い水溜まりを作り出す。同時に、もはや装着者が消えてしまった機動装甲服(MAS)が、ガランと重い音を立てて大地に落下する。

 この恐るべき変化は、"パープルコート"のみならず、癌様獣(キャンサー)にも発生していた。"インダストリー"の操縦適応者(クラダー)は機動兵器のコクピットに籠もっているので人目に付かないが、同様に溶けてしまった者もいる。

 特に酷いのは、避難民および市軍警察官たちである。彼らの大半が液化し、林の中や車両の中は白色の液体で満たされてしまう。

 「な、なんだよ…これぇ…!!」

 車列の後方でのレナは、こういった手合いの災厄に慣れていないため、魂魄干渉を免れはしたものの、次々と溶融して大地に広がってゆく仲間の市軍警察官や"パープルコート"の隊員を見て、過呼吸気味に呟いている。

 一方、身体を霊体で構成されている『冥骸』の死後生命(アンデッド)達は、変化の様相が違う。溶融こそしないものの、強風の中で翻弄される煙のように形状がかき乱されて渦巻き、しまいには体積が収縮して鬼火のような小さな塊と化す。

 液体と鬼火。その形状は違えども、両者は同様の行動を起こす。すなわち、液体は濡れた跡すら残さずに素早く大地を滑り、鬼火は弾丸のごとく空を高速で飛び、とある地点を目指すのだ。

 

 この現象の最中、魂魄干渉を見事に免れていたノーラは、停止した乱戦の中で攻撃の手を取め、滑ったり飛んだりして行く液体や鬼火にキョロキョロと視線を送っていた。

 定義変換(コンヴァージョン)の使い手である彼女は存在定義へのアクセスのエキスパートである。『星撒部』の中でも――いや、もしかするとこの戦場の中でも、と表現しても過言でないかも知れない――最もスマートにこの魂魄干渉を乗り切っていた。だから彼女は、意識障害に視覚を邪魔されることなく、今回の現象のほぼ一部始終を目にしていた。

 (これは…破壊再生型の現象による、魂魄定義の強制的な書き換え…!)

 周囲で次々に起こる肉体と霊体の溶融現象を形而上相から分析し、その本質を覚ったノーラは、途端に背中から冷たい汗を噴き出す。

 今回の作戦に先だって、蘇芳達からもたらされた『バベル』についての情報。それに多くの点で合致する現象が起こっていることに、多大な焦燥を感じたのだ。

 (…私の悪い予感通り…! やっぱり、封じるよりも先に…! 間に合わなかったんだ…!)

 ノーラは視線を、液体と鬼火が集結する地点へと向ける。そこは一見すると、瓦解した摩天楼に囲まれた単なる虚空に見える。…が、よくよく目を凝らすと、瓦礫が形成する輪郭が徐々に膨らむように歪んでゆくのが確認出来る。

 瓦礫が膨張しているワケでないことを、ノーラは一目で理解する。単なる体積の膨張ならば、輪郭がぼやけることはあり得ない。

 この膨張は、空間の歪曲によるものだ。

 (何かが…次元回廊を形成して…物質世界(こちら)側に出ようとしてる…!)

 ノーラは"何か"と称したが、実際にはその答えをほぼ言い当てている。しかし、その根拠を盤石にするためにか、形而上相の視認を行って"何か"の存在定義を確かめとする――と。

 「あうっ!」

 脳内を直接殴りつけられるような衝撃と、眉間を抉られるような鋭い激痛に、ノーラは頭を抱えて体を曲げる。通常の感覚で捉えるには、あまりにも高密度にして複雑過ぎる術式構造に、脳の処理速度に多大な負荷がかかったのだ。

 ズキズキと痛む頭を抱えながらも、ノーラはチラリと脳裏に描画された"何か"の形状を(かえり)みる。体表はザラザラと云うかグニャグニャとした突起に覆われた、膨満したようなプックリした四つん這いの形状。それはまるで、生まれて暫くの月日が経ち、這い回れるまでに成長した赤子を思わせる。

 ノーラは認識格子の密度を思いっきり低くして――まるで、地球上から望遠鏡で多惑星を眺めるほどに――もう一度"何か"を見やろうとする。

 しかし――ノーラの試みよりも早く、"何か"は膨張した空間の向こう側から、その恐るべき姿を曝し出す。

 

 丁度この頃、魂魄干渉から自力で脱した蒼治が、頭を左右に振りながら感覚を取り戻し、周囲の状況を確認していた。

 彼はまず、周囲に広がる濁った溶融物や、装着者を失った機動装甲服(MAS)が転がっている事に驚く。そして次に、機動装甲歩兵(MASS)癌様獣(キャンサー)達が魂魄干渉を受けた意識障害に陥って自失呆然としていたり、恐慌状態に陥って暴れ回っている様子に眉を潜める。

 しかし、その直後、自らの魂魄をチリチリと焦がすような強烈な魔力に気づき、その発生源――ノーラが見つめている地点――へと視線を向けると。初め驚愕で目を見開き、すぐに苦々しい悔恨でギリリと歯噛みをする。

 「クソッ…! ノーラさんの懸念が的中したのか…!

 僕らのエントロピー対策は、完全に失敗したんだ…!」

 苦言を吐きながら見つめるその先には――膨張した空間歪曲がバチンッ! と風船のように割れ、出現した直径2メートルほど平面円だ。その向こう側は、次元回廊を形成する魔力と空間の干渉を物語る、発狂した色彩の乱舞が見える。

 その穴の中から濁った白色の5対の物体――それは、指だ――が現れる。指は穴から出て物質世界(こちら)の宙空をガッチリと掴むと、グググッと力を込めて穴を広げてゆく。

 広がった穴の向こう側からは、ブワッと烈風が吹き出す。体内にまで浸透する微熱のような生温かさを呈するその病風は、蒼治やノーラを始めとした定義未崩壊者達には、神経をグルグルと掻き回されるような生理的不快感を植え付ける。これに当てられて、意識障害を受けながらも派手に嘔吐する者は何人も現れる。

 一方、液化したり鬼火化した定義崩壊者達は、この風に誘われるように移動速度を速めると、穴の中へと次々と飛び込んでゆく。吹いている風の方向が逆ならば、強烈な渦巻きによって吸い込まれている光景そのものだ。

 やがて、穴をギチギチと広げて巨大な出口と化した"何か"は、物質世界(こちら)側にヒョッコリと巨大な顔を突き出す。

 そこに現れたのは――蒼治その他の者達が意識の暗転の中で見た、3つの死んだ眼。そして、半月のような多くな口を持つ、濁った白色の頭部だ。その輪郭は乳児のように丸みを帯びてはいる。ただし、鼻や耳がないこと、そして体表上をワサワサとさざ波立って動く突起に覆われている点が、乳児と著しく異なる点だ。

 そして蒼治もノーラも、この突起の正体何であるか――そもそも、この"何か"を形成している物体が何であるか、即座に認識し、顔色を更に青ざめさせる。

 それは――脊椎で連結された、人体だ!

 (肉眼でこうやって見ると…! おぞましさだけで、僕の魂魄が押し潰されそうだ…!

 こいつが…! この非人道性の塊が…!)

 蒼治が胸中で叫ぶ間にも、"何か"は穴の内側で四肢をズリズリと動かし、頭部に次いで胴体を露わにする。この胴体も頭部と同様、白く濁った人体の連結によって構成されている。

 そして、吸い込まれていった液化または鬼火化した魂魄達は、この"何か"の体表に手当たり次第に接触すると、粘土をこねるような有様で形状を変え、"何か"の体構造の一部としてその中に取り込まれてゆく。首や下半身のない体が列に加わり、"何か"はブクブクとその体積を膨らませてゆく。

 やがて――"何か"はすっかりと穴の中から抜け出すと。穴が伸びきったバネが縮むようにキュッと収縮して消滅するとほぼ同時に、四つん這いの"何か"は自由落下。眼下に広がる瓦礫の街並みや、その合間に存在する機動装甲歩兵(MAS)やら癌様獣(キャンサー)達を押し潰し、ズゥンッ! と大地を揺るがしながら着地する。

 こうして全容が明らかになった"何か"は、長大な尻尾を備えた、腕や脚といった突起物で覆われた、巨大な奇形の乳幼児。

 「こいつが――『バベル』――!!」

 蒼治が名を呼ぶと、その言葉に呼応したかのように、"何か"――いや、『バベル』は、巨大な口を大きく開いて粘つく唾液まみれの白い口腔を見せて、ニヤリと嗤う。

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